青春の走狗

高村千里

第八作目

 あの、何があっても報われはしないという諦めがありありと浮かんだ、大人びてでもそれが逆に幼げな印象を与える瞳を見た瞬間に、私は彼を自分の物にしようと思った。

 私と彼は高校で初めて出会った。彼はエスカレーター式で中学から高校に進学した私と違って、高校は別の志望校があったが受験に失敗してこっちに入学することになった人だった。

 クラス内の比は、中学校が同じ子が大半で、彼と同じ受験に失敗した人が残りの少数を占めていた。大抵受験に失敗した子たちはここよりも高い偏差値のところを受験していて、彼らからはその自負が滲み出ているから、私は彼らが苦手だった。それは私だけが感じていることではなかったと思う。入学式早々、クラスは二つに分かれた。もちろん、私たちと、彼らのグループだった。

 彼は彼らのグループだった。彼が望んだわけではなく、なりゆきなのだろう。彼ははっきりとした意思を示さない人だった。

 初めて彼を見たとき、穏やかで、人の優劣をつけず人と接する人なのだなと思った。クラスの、目には見えない壁ごしに見た向こう側の彼に、友人は多かった。常に微笑みを絶やさない様子で、国語の授業のときだけ、時どき唇を噛んで考え込むしぐさをした。

 五月の中旬に、一週間後に行われる体育祭の練習をする時間があった。私のクラスは騎馬戦の練習をしていて、体が大きくて否が応にも土台をしていた私のところに、小さなもめる声が聞こえてきた。視線を向けると、彼の姿があった。

「おれ、だよ」

 彼は珍しく、顔をかあと赤く染めながら発言をし、一緒にいた友人の三人から距離を取るように一歩足を引きずってみせた。

 何が“嫌”なのか、そのときは分からなかったが、体育祭当日にそれは明らかになった。

 体育祭当日は良く晴れて、春の陽気を少しだけ逸した気温だった。県有数の生徒数を誇る高校だったこともあり、体育祭優勝を意気込む生徒たちの熱気が校舎の中にまで迫るようだと思った。私たち一年生は、今までに感じたことのない熱気に包まれ、呑まれた。私も心の底から興奮していた。いつもは二つに分かれているクラスも、この日ばかりは一つになった。それで、普段は遠くに感じている向こう側の人を、私は近くに感じていた。

 騎馬戦はお昼休憩前、最後の競技だった。日は完全に昇って、額にじわじわと汗が滲む正午。

 騎馬戦は女子の部と男子の部がそれぞれあって、女子の部が先だったので、私は一緒に組む仲間と四人で競技開始を待っていた。他のクラスの女子たちも同様にして、四人一組ずつ、大きな塊になって校庭に広がっていた。

 ふ、と顔を上げる。「あ、」という男の子の声と同時に、私の頭ににぶい衝撃が走った。

「痛っ」

 反射的につむった目を開けると、私の眼前にぱちぱちと星が散り、少ししてぼんやりとした何かが私の顔に近づいてきたのが分かった。顔だ、と気づく前に、

「ごめん、突然顔を上げるとは思わなくて」

 と、あのときの声が、私の記憶していた通りに聞こえたので、彼だ、と気がついた。

 私は頭を右手で押さえながら周りを見渡して、女子の塊を指した。

「何してるの。ここ、前半のグループだよ」

 彼は私の問いに対して、しばらく顔を俯かせていたが、ややあって私のほうを見た。そして、まるで秘密だよ、というようにはにかみを顔に浮かべた。

「ここにいたらおれも、前半で出られるかなぁって思って」

 ぞくっときた。私は彼に返事をしないで、心の中で小さく悲鳴を上げながら女子の塊の隙間に頭を突っ込むと、勢いのまま身体をねじ込んだ。屈んで膝を抱えていたら、号砲が鳴って競技が始まった。

 大盛り上がりで女子の部が終わり、女子の塊は男子たちと前後を入れ替わる。彼を見ると、さっきのはにかみ笑いの面影はなくなっていた。

 細い背中。肩の骨が首の横にぽこぽこと二つの山を作って、体操着を膨らませていた。黒々として、彼の頭の上でぼさっと広がった髪の毛が、微かな薫風によって揺れる。

 一回目の号砲の合図で、男子たちは騎馬を作る。彼も徐ろに、真ん中へ動いた。

 二回目の号砲が鳴った。私の視線は弾けるように動いて、彼の顔を見つめる。

──息を呑んだ。

 そこには、何があっても報われはしないという諦めがありありと浮かんだ、大人びてでもそれが逆に幼げな印象を与える瞳があった。

 三回目の号砲が鳴る。

 彼は勝っただろうか、負けただろうか。いや、そんなことはどうでもいい。私の目は、強烈に彼へ引き付けられていた。校庭に、お昼のアナウンスが入る。

 私は競技を終えた彼の背中を追いかけた。

 彼は最初早足で校舎へ歩いていたが、中庭を通るころにはのろくなり、校舎裏に続く道のところでとうとう足を止めてしまう。私も彼にならって道に入った。両端にそびえ建った校舎の影は陰々として、湿った土の匂いがした。空が遠い。

 私の目の前で、彼がぐらりと傾いた。次いでにぶい音がする。

 壁に頭をぶつけた彼は、その体勢を立て直すことなく、ずるずると落ちていった。黒い地面に、彼が呑み込まれてしまうかと思った。

「──くん!」

 私は叫び声を上げて彼に駆け寄る。呑まれるな、呑まれるな、と一心に腕を伸ばし、彼が崩れ落ちる寸前、やっと手が彼を捉えた。

 崩れ落ちる寸前の体勢で止まった彼は、見ているほうが恐いくらいに震えていた。かちかちと音がして、思わず彼のほうを覗き込むと、歯が噛み合っていなかった。

 手が滑るからなんだと思ったら、彼の汗がすごかった。騎馬戦前の彼の頭でぼさっと広がっていた髪の毛が、今は額に張りついてしまっている。

 私はそこへ、そろそろと手を伸ばした。湿った前髪を指で払ってやる。

 そこまでして、ようやく彼は私の存在に気がついたらしかった。薄闇の中、彼の犬歯が唾で濡れ光っていた。白く濁りそうなほど冷たい彼の吐息だけが、彼の中で唯一冷静だった。

 私の手によって保たれていた彼の体勢が私の手から離れ、一瞬よろめき、自立する。

 彼と目が合った。私はもう一度、彼にあの、がらんどうな目をしてほしかった。あの目を見ると、胸の内が震えるような感じがする。

 今、その目はどこにもない。代わりのように彼からは、別の感情があふれていた。彼の姿に私はたまらなくなり、その肢体に抱きついた。

「ねえ、そんなに人が恐かった?」

 彼は私を引き離そうと抵抗したが、驚くほど非力だった。私は構わず続けた。

「だから、“嫌”だったんだよね。騎馬に乗ることが」

 日頃多くの友人に囲まれながら楽しそうに笑っているくせに、彼は卑怯だ。今の彼からあふれているのは、人に対すると、騎馬に乗る恐怖から解放されたことによる反動だった。人に対するおびえと、その反動には共通するものがある。それは、彼の感じている恐怖心が並のものではないということだ。

 彼ははなから、信じていないのだ、人を。

 もしも、そんな彼が私だけを信じるようになったらどうだろう。私だけを信じて、私の言うことだけを聞いて、私にだけ愛情を注ぐ。

 彼が騎馬に乗って、恐怖心を誰にも悟られないよう我慢していたときよりも、胸が震えた。私は彼の胸元に口付けた。

「取引しよう。──君のすべて、私にくれたら、君が死ぬまで愛してあげる」

 

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青春の走狗 高村千里 @senri421

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