ハネウマ☆ライド

キビト

プロローグ

プロローグ

 まだ薄暗さの残る早朝の中、忌々しい羽音だけが聞こえた。が縦横無尽に周りを飛んでいる。夏の風物詩と言ったら聞こえはいいが、好意を持つ者はまずいない。

 車庫の取っ手にかけていた手を離し、鐘乃魅希かねのみきは意識を集中した。左右の耳の傍をかすめるように何度も飛来してくる。まだだ、まだ動くには早い。焦って撃墜しようとしても空を掻くばかりで無駄に終わるのは分かり切っている。

 どんなに俊敏な機動力があれど、敵の目的は一つ。

 チャンスはすぐに訪れた。頬に感じた違和感が神経を研ぎ澄まさせる。頭の位置を固定したまま右手をゆっくりと掲げた。そして最短最速の軌道で標的を狙い打つ。

 乾いた音が澄んだ空気中に響き、しまった、と思った。ジンジン痛む頬に手を当てたまま玄関の方をうかがう。大丈夫、誰も外に出てくる気配はない。ホッと小さな胸を撫で下ろしつつ、右の手の平を返す。

 敵ながらあっぱれであった。すっかり潰れて黒いチリとなった死骸を物音が立たないように掃い落とす。危ないところだった。学校通いにとって土日祝は最高にフリーダムになれる時間なのに邪魔が入っては気分を削がれる。魅希にとって金曜日の授業が終わったその瞬間から至福のときになるのだ。解き放たれた野獣が大草原の海へ跳びこむが如く世界が広がる。

 改めて車庫の取っ手に指を引っかけて慎重に力を込めた。シャッターはどうしてもガラガラと鳴ってしまうが仕方がない。顔を出し始めた朝日により車庫内に明かりが染み渡っていく。

 まずデコボコのブロックタイヤとゴールドに輝くホイールが姿を現した。赤いフェンダーがそれらを覆うように付いている。ゴム製のカバーが巻いてあるフロントフォークが真っ直ぐに伸び、ハンドルへ続いた。一つ目のヘッドライトは光を反射してきらめき、挨拶をしてくる。

 ハイパーシェル。それがこのオフロードバイクの車種名だ。

 赤地に青い空と星空が描かれた左右非対称柄のガソリンタンクを一撫でする。

「おはよう、シェルちゃん」

 オイル漏れ上等のウミカワ製オフ車はとにかく頑丈で壊れにくい。現に父が事故に遭ってもエンジンとフレーム、それにタンクまで無事だった。だからこそ魅希はなるべく傷つかないように乗ってあげたかった。そのためにはコケない運転技術が必要で、数え切れぬほどの練習を重ねたものだ。免許取り立ての頃がいまや懐かしい。

 キーホルダーだらけの束からカギを探し出してキーボックスへ挿しこんだ。ハンドルロックを解除し、外へ引いていく。狭い庭を通過し、あらかじめ開けておいた門を抜けた。バイクを路上の端に止め、はやる気持ちを抑えこんで手早くシャッターと門を閉める。

 白地に赤いラインの入ったライディングジャケットのチャックを上げた。短いポニーテールにしていた黒髪のヘアゴムを取り、手首に通す。フルフェイスのヘルメットは炎の描かれたお気に入りだ。これをかぶった時点で世界は別のモノへ変貌する。

 遠くの大通りからまばらに走る車の音がかすかに聞こえてきた。静けさの中、魅希は完全に隔絶された地へ舞い降りたかのように錯覚する。この感覚がたまらない。

 エンジンをかけるのは家を離れてからだ。

 ハンドルをしっかりと握り、体を預けるようにすればタイヤは少しずつ回り始める──はずだった。ギアはニュートラルのままだし、特に段差や石コロがあるわけでもないのにやけに重い。二五〇ccのバイクにそれなりの重量があるとはいえ、これはおかしい。

 もしかして体調が悪い? そんなわけはない、先程まではスイスイ引き回せていたのだ。そうとすれば車体のトラブルだろうか。なににしても一旦止まって調べてみるのがいい。

 スタンドを下ろして一息つく。

 原因はどこだろうかとなにげなく後部に目を移し、ギョッとした。長い黒髪をなびかせたガイコツがタンデムシートに座っていたのだ。

 ガイコツがアゴをカタカタと開閉させる。

「いざ出発ですわ、魅希様っ!」

「…………」

 どうりで重いわけだ。人一人が乗っていたら、いつもみたいに引き回せるはずもない。

 冷めた目で魅希が見つめる。

「いつからよ」

「ついさっきですわ。あ、張りこんだのは昨晩からですの」

「張りこむなっ!」

 チョップを見舞うと、ゲフッ、という潰れたカエルに似た声を出して彼女は地面へ転がった。

 復活は即座だ。押し退けようとするのは間に合わず、ほとんどぶつかる勢いで抱きついてくる。ガイコツのくせして妙に腕力があるのが憎らしい。

「酷いですわ、いきなり愛のチョップを食らわすなんて」

「愛は付いてない、愛は」

「あんなに愛し合った仲ですのに、つれないこと言わないでくださいですわ」

「ええいっ、うっとうしいわっ!」

 身をよじりながら体をこすりつけてくるガイコツ少女──藤堂麗華とうどうれいかの顔面をわし掴みにして引き剥がそうと試みる。しかし力がどうにも強くて接触しないようにするのが精一杯だ。魅希も腕力には自信があるのにガイコツ化した麗華は異常だった。藤堂家の特異体質だとかで本当に厄介な能力を持っている。

 ガイコツに襲われるさまは、傍から見たらちょっとしたホラーだ。

「結婚してくださいですわあぁぁっ!」

「どさくさ紛れで求婚しないように~!」

 不可抗力とはいえ、大騒ぎしたのがまずかった。玄関のはめ殺し窓が淡いオレンジ色に光る。電気のスイッチがONにされたのだ。続いてドアノブが回り、ドアが開く。

 サンダルをつっかけて出てきたのは中年の女だ。髪は無雑作に結われ、顔には年相応の小ジワが刻まれている。通った鼻筋や一重の瞳は魅希にそっくりだった。

「こんな時間に黙ってどこへ行くつもり?」

「あ~、いや、ちょっと散歩でもしようかと思って」

 アハハ、と誤魔化し笑いをしてみせる。散歩ねぇ、と言った母の視線はバイクへ向けられていた。バレているのは一目瞭然である。

 母は文武両道の教育方針で、子供の頃から躾が厳しかった。それに加え、夫をバイク事故で亡くして以来、魅希がバイクに乗ることを良く思っていない。高校進学後、免許を取って無断外出するといつも叱ってくる。かといって許可を求めても却下されて監視が厳しくなるだけだ。

 そうした縛りつけの反動により余計に外への誘惑は増す。時機が来たら絶対に家を出てやる、というのが魅希の常日頃からの野望だった。

 話していてもらちが明かない。バイクのキーを回してONにする。ライト類やデジタルメーターに光が灯った。セルフスターターを押せばキュルキュルとモーターが回転する。夏というのもあってエンジン始動は早かった。車体がいまにも走り出しそうに鼓動を始める。

「コラッ、待ちなさい! 悪い子は餓鬼がきに食べられるわよ!」

「行ってきまぁ~すっ!」

 シートに跳び乗ってギアを一速に入れる。クラッチを離しつつアクセルを捻れば発進だ。母がまだなにかを言っていたがもう聞こえない。ミラーに映る影は数秒もしないうちに豆粒と化した。もう誰にも追いつけはしない。

 ただし、初めからバイクに乗っていれば別だ。

 ミラーには麦わら帽子を押さえ、長い髪とクリーム色のワンピースをなびかせたガイコツが鮮明に映っている。ちゃっかり後ろに乗りこんでいたらしい。

「アンタもしつこいわねっ! いい加減、離れろ~っ!」

「魅希様と契りを交わすまでは離れませんわあぁぁっ!」

「交わしてたまるかっ!」

 大通りに出て二速から三速にギアを上げる。左足をペダルから浮かせた魅希は麗華を蹴りつけ、なんとか振るい落とそうとした。バイクは右へ左へ蛇行し、空いた道路を滑走する。

 相手は運転に気を取られることがないため、すばしっこくかわされた。狭いシートの上だというのに器用に動き回っている。もはや人間ではない。

 休日で麗華につきまとわれずに自由を満喫できると思ったのに、このままでは一緒に過ごさなくてはならなくなる。学校以外まで関わるのはごめんだ。

 この世には神も仏もないのか、と思ったときだった。甲高い電子音がけたたましく鳴り響く。自分の物ではない、麗華だ。ポケットから出したスマホを見て肩を落としている。

「いいところなのに異相警防隊いそうけいぼうたいから呼び出しですわ……」

「はいはい、お仕事ご苦労様です。さようなら~!」

 力が抜けた一瞬を見逃さなかった。隙ありとばかりに蹴り飛ばすと風に煽られた彼女は宙に舞う。とっさに伸ばされた骨の腕はバイクを触れることはなかった。

 遥か後方で路面に座りこんだ彼女が、愛してますわぁ、と愛の告白をしている。魅希は背を向けたまま腕を大きく振ってバイバイをしてあげた。

 ギアを四速へ上げ、さらなるスピードを得る。油断したら後ろへ体を持っていかれるほどの疾走感が気持ちいい。負けずに前傾になって攻めの姿勢になるのが上手く乗るコツだ。それによりバイクとも一体感が増す。

 緩い上り坂の頂上からまばゆい日が、いままさに昇りきろうとしていた。なんの変哲もない日射しが聖なるモノに感じられる。ペダルの上に立って魅希は全身で光のシャワーを浴びた。

「来た来た来た~、夏来たぁっ!」

 メットの中で思いっきり叫ぶ。最も好きな季節の到来に全身が弾け飛びそうになる想いだ。もう誰にもなににも自分は縛りつけられない。夏と合体すれば無敵だった。

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