深夜二色街道
柊六花
深夜二色街道
君が......いなくなってしまった。暑い夏の日だった。南西の風が吹いていた。
光がまぶしかった。それは赤かった、青かった、金色だった。色とりどりの花たちが夜空を彩っていた。
汗か涙か顔はぐしゃぐしゃになって。
とても小さな声だった。けれどとても大きかった。
蝉がうるさかったあの日。僕は邪魔な音をかき消すようにしてイヤホンを耳にあてがった。 ゆらゆら揺らめく世界。唐突に眩暈を感じた。
水色のワンピースに、大きな茶色の眼鏡。艶やかな黒い髪をまっすぐに伸ばして、君はいつものように。
「―――――。」
チリン......
なんとなく、物思いにふけりながら、どろどろに溶けたアイスのように、畳の上に僕は丸くなる。都会のマンションの五階、その模擬的な和室の中。窓は開いていて、水色の風鈴がつるしてある。そこから風が入り込み、暑さと合わさり、ふわりと藺草の香りを運んできた。チリンと風鈴の音がした。
視界に広がるのは窓から差し込む直射日光によって、完全に日焼けした畳。なんとなく、昔小さな子供の頃に真新しい畳を見たときの驚きがよぎった。そのときに初めて畳は日焼けをする物だと知った気がする。子供にとって日焼けとは、人の肌が日に当たって黒くなることを言う。それ故本も畳も、ましてやプラスチックのカードでさえ日に焼けて変色してしまうというのは、無知な僕にとって衝撃の事実であった。
「そうだ、本......」
僕はこの暑さにやられた重い頭を持ち上げ、一冊の本を探す。
「ない......どこだ?」
しかし、本棚の中はもちろん、机の上や、だらしなく開いているクローゼットの中にも見当たらない.....もっとも、寝転んだまま見ることのできる景色に信憑性はないが。
まあいいか、後で探せばいい。
ごろん。
そんなことを思って首をおろして休めさせ、ほんの少しの冷たさを求めて寝返りをうった。 ぎゅ。
ああ、ここか。寝返りをうった先には探し求めていた一冊の本があった。
今度は逆方向に寝返りを打って、僕はその本を手に持った。
怪しげな町の様子が描かれた表紙。君が好きだった本だ。表紙には大きく「深夜二色街道」と白い文字で書かれている。作者は......聞いたことがある気がするが、僕は作家をあまり知らない。その理由は後述するけど。
本は文庫本サイズで、おそらく買ったときについてきたのであろう、紙製のしおりが飛び出ていた。
君はこのしおりではなく、別な物を使っていたような気がするが......良く憶えていない。ただ、君が愛用していたしおりは金属製だった気がする。
しおりをわざわざ用意するほことからわかるように、君は本をよく読んでいた。僕は本を読むというより、音楽を聴くことがめっぽう好きだったから、特に本に興味はなく......別に嫌っていたわけではないのだが。とにかく君は本をよく読む人だったのだけど、その中でもおすすめと語っていたのがこの「深夜二色街道」というミステリー小説だった。(僕は特にミステリー小説は一切読んでおらず、密室で殺人事件が起きて、それをホームズとワトソン君が解決していくような物だと思っていた......まぁ、あながち間違いでもなかったが、とにかく古くさくてむずかしい物を連想していた)この小説は、神奈川の深夜食堂の店主と、その常連のお客さんが日常で起こる事件を解決していく、というありふれた(君の言葉を借りるなら、だが)小説ではあった。
しかし、この小説に君はとりつかれていた。
「君にこの本を貸してあげる。私のおすすめだよ」
君はそういって笑っていた。まぶしい笑顔だった。その場面を切り取って部屋に飾っておきたいほどだった......冗談だけど。
それで、僕は君が言うなら、とその本を読んでみることにした。それが数年前。けど僕はまだその本を読み終えていない。その理由はいろいろあるけど、一ついえるのは、この本は僕にはむずかしかったということだ。
いや、技術的には読める。一応これでも二十歳なのであるし、高校の国語の成績も決して悪い方ではなかった。ただ、なんとなく、読めていない。読む気がないのかもしれない。
もともと本を読むスピードは遅い方だ。それを恥とは思ってないけど、ともかく僕はこの本を読み終えることもできないまま、そして君に返すこともできないまま、今日この日を過ごしている。
チリン......
田舎の屋敷。襖で奥の部屋とは仕切られている一室。僕はそこに寝転んでいた。冬場に連想される猫のように、ごろりと丸くなっていた。いまは夏なのに。
縁側の障子は開けられている。相変わらず暑いが、風が部屋全体を巡るので少し心地良い。この襖も開けてしまおうか、その方がきっと屋敷全体に風が通るよな、けど動きたくないな。そんなことを考えながら、しかし結局実行に移すことはなく、相変わらず僕は畳の上で丸くなっていた。
チリン......
「夏バテしてるの?」
「ん?」
ふと風鈴の音と共に聞き覚えのある声が縁側の方から聞こえた。
ふと目を向けると、相変わらず分厚い本を持って、水色のワンピースを着て、大きめの茶色い眼鏡をかけた、黒い髪の同い年の少女がいた。
「別に夏バテっていうわけではないけどね、なんとなく動きたくなくて......というか動くエネルギーがなくて、仕方がないからここで寝転んでいるだけなんだ」
「それを世間一般では夏バテっていうんだよ」
「ははは」
「ほれ、さっさと動け、十五歳。私と違ってまだ若いんだから」
「それは君もそうでしょ」
なんとなくいつも通りの懐かしいやりとりを交わして君をこの部屋に招き入れる。さすがに君がいるのに寝転んだままだと示しがつかないから、しょうがないから襖を開けて、屋敷全体に風が通るようにした。
「ふわあぁー」
少し汗ばんだ君は部屋にあがると暑さを吐き出すように息を吐いた。桃色の唇から、湿気を含む吐息がこぼれ出る。ついでに君は軽いあくびを一つ。赤い舌がちろりと見えた。同時に唾液でぬれた白い歯も見えて......なんとなく見ているのも悪いような気がして、ついでに気恥ずかしくなったりもして、僕はせっかく来た君をもてなしつつ、この暑さをしのげる何かがないかを考えることにした。
「ちょっとまってて、麦茶とってくるから」
僕は目を細めている君に言う。
「うわー、わざわざありがとう。助かったー」
君はなんとなく棒読みで(こういうときに君はふざけて棒読みで言うことが多い)僕にお礼を告げつつ、両手を大きく広げた。
「なに?そのポーズ」
「んー、たぶん最近読んだ本の影響。気にしないでくれたまえ。それより麦茶はやく」
いつも通りどこか底知れない君の姿に、やはり僕は囚われているのかもしれない。
チリン......
ガラスのコップに氷を入れる音が良く響いた。都会のマンションの五階、ダイニングキッチンで。
こぽこぽこぽ。
麦茶の入ったピッチャーからかわいらしい音と共にちょうど良い濃さの麦茶が注がれた。そして僕はそれをその場で一息に飲み干す。
「ふう」
のどを潤し、僕は息を吐く。クーラーが効き始めた居間。僕は麦茶をもう一回ついで、ピッチャーを冷蔵庫にしまい、居間に向かう。その途中においてあった「深夜二色街道」も持って。
『ぜひ読んで!ほんとおすすめだから』
君はそう言った。これからは特にやることもなく......課題はやらないことにして、僕はこの暇な時間を使って君に貸してもらった本を読むことにした。
途中までは読んである。紙のしおりがその位置を指し示している。
僕は革張りのソファに腰掛け、麦茶をテーブルに置いて、本を開いた。
クーラーが効いているので、もう暑くはないが、なんとなく暑くなり、僕はまた麦茶に口をつけた。
「深夜二色街道」
その妙な名前......といってもだいたい本ってそんなものだけど、この本は確かに面白いのかもしれない。
たまには読書で一日をつぶすのもありだと思う......一日をつぶすって表現はなんか違うかな?一日を消費する、一日を使う......やっぱりつぶすでいいか。
そんなくだらないことを、いや、小さいけど大事なことを考えながら、少しずつ読み進めることにした。
チリン......
「はい、どうぞ」
「ん」
僕が屋敷の台所から麦茶を持って戻ると、君はいつもの分厚いハードカバーの本......は隣に置いて、あまり見かけない、というか初めて見る文庫本を熱心に読んでいた。
こうなると君はてこでも動かない。そして会話も少なくなるし、読書の邪魔をしようものなら、君は不機嫌な顔で無視をするようになる。それは今までの経験から知っていた。
この状態では必然的に会話をする回数も減るし、かといっていつも通り寝転がって空を眺めるのも、なんとなく君に悪いような気がしてくるから不思議だ。
思いっきりお邪魔しているのは君の方なのに。
ふと、テーブルの上に置いてあるきらきら光る物が僕の目を引いた。
「ねぇ」
「うん?」
「これって何?」
「これは私のお気に入りのしおりだよ!」
きらきら光る物......改めて君の大事なしおり。なるほど確かに、薄い金属製のプレートに、何色かの糸が混ざった紐が通してある。これなら長く使えそうだな、なんてあまり感想とは言いづらい感想が出てきた。
結構きれいだし君のそういうセンスは尊敬できる。
「いいね、こういうの。僕はもっぱら紙のしおりだから......」
「ん」
サッと風が入ってくる。少し涼しくなってこんな田舎の屋敷にはクーラーはもちろん、扇風機も今は壊れてしまって、理由は過労なんだけど、暑さをしのげる文明の利器が風鈴と、この大きくて風と虫を良く通す屋敷しかない状態だ。
ねぇ......とまた君に声をかけようとしてやめた。それくらい今日の君は熱心だった。君の初めて見る顔。新しい一面。それが本という物にしか向けられない物だということも知っている。ほんとはそれがなんの本なのか聞こうとしたのだけれど。
僕はいろいろとあきらめることにして、この中では最新の文明であると予測されるMP3プレイヤーを取り出した。安い物だけど、僕からしたら十分な代物。まぁ、大人になって都会に出たら、もう少し良い物を買うかもしれないけれど。
イヤホンを両耳にあてがい、僕は縁側の方によってごろりと寝転がる。さっきまで感じていた寝転がることへの罪悪感のような物は、この時間で吹き飛んでいた。
外の誰かが見たら、すねているように見えるのだろうか。
どこからともなく、蝉の声が聞こえたが、その直後に耳元で流れ出した音楽ですべて塗り替えられた。
チリン......
夕方になっていた。クーラーはもう消してある。せっかく入れた麦茶の氷はすべて溶けていた。
「なんというか、侮っていた感じだ」
誰もいない部屋で一人つぶやいてみた。
なんとなく最後の文庫本紹介のところも読んでしまった、ちなみにそこには君の名前が書いてあった。
読み終えてしまったという後悔にも似たような感じと大きな達成感。そして若干の倦怠感を抱えて僕はソファにごろんと寝転がる。そしてさっきまでの興奮を一つ一つ丁寧に消化して、頭の中に刻み込む。そういえばよく君もこんな感じの行動をとっていた気がする。これで無事僕も君の仲間になれた気がする、とっても遅かったけど。
「まさか読み終えるのに四、五年もたつとは君も想像していなかったに違いない」
独り言を言い、はは、と笑う。もしここにいたら君も笑い転げていたかもしれない。まぁ、なかなか読むのに踏ん切りがつかなかっただけなのだけど。
ブブ......
突然、テーブルの上に置いてあるスマホが鳴った。ついいつもの癖で部屋の中でもマナーモードにしているので、バイブ音しか聞こえなかったが、このリズムはラインだろう。けど僕個人にラインをしてくるような希有な人はあまりいないので、所属しているサークルのグループラインか、元高校生の仲間達のくだらない会話かのどちらかだろうと僕は予想をする。 特にすることもないのでとりあえずスマホを開く。ラインの通知は結構たまっていたが、そのどれもが元高校生の仲間達のグループラインだった。そういえば、やっているスマホゲームのイベントがあるとかなんとか騒いでいたからその話だろう。少人数だが、気の合うやつで作っているグループだから、僕もその会話に参加したいところだが、やっぱり夕食の準備をしなければならないことに気がついて、けど材料が今家にないことも思い出して、急ぎ買い物の準備をすることにした。慌ただしいね。
チャリン......
「はいまいど!」
「ありがとうございます」
僕は今君と地域の祭りに来ていた。田舎町だが、周囲の地域もまとめて行う大きなお祭りのため、普段は人がいない商店街が、一気に人で賑わうこととなった。
僕は屋台の焼き鳥のおっさんにお金を渡し、焼きたてのおいしそうな焼き鳥を一パックもらう。君はどこに行ったのだろう。僕に焼き鳥一パック買うように言ってから君は姿をくらました。待ち合わせの場所とかを言わないのは君の悪い癖だと思う。まぁ、それに気がつけなかった僕も同じく有罪だが。
空には大きな月が昇っている。もう夜だ。お祭りの明かりで星は見えないが、近くの河川敷にでも行けばすぐに見えるだろう。澄んだ空気に活気のある音。竹を割ったように清々しいこの雰囲気も、過疎地の底力のなせる技か。
「おーい!そこな少年A!こっちこっち!」
君の声が活気のある音の一音となって僕の耳に届く。というか少年Aって......
周りを見渡すと、たくさんの人の中に、赤い浴衣を着て、水色の花をあしらった髪飾りをつけている君と目が合った。手には何か食べ物が入っているビニール袋をつるしている。
君は手招きをした。
「どこに行くんだい?」
「そろそろ花火の場所取りをしようと思って、いろいろ食べ物を買って来ちゃった」
納得がいった。それを最初から言ってくれれば良かったのに、君のそういうところは好きだけど少し困る時もある。
まぁ結果オーライと考えよう。
前には赤い浴衣の君。その後ろに紺色の浴衣の僕。花火のやる河川敷に向かう人に紛れて、この二色の塊は動いている。君は片手に綿飴、もう片方にはきゅうりの一本漬けを持っている。荷物持ちは僕が担当。
君は今日は髪をあげている。夏らしい髪型で、新鮮だし、かわいいとも思う。この蒸し暑さでじっとりと濡れた君の首筋、普段は長い髪で隠れているところ。やっぱり新鮮だ。
君は始終無言だった。普段は本を読んでいる時以外、わき水のように言葉をあふれさせているというのに。何か考え事をしているのだろうか。ここからは君の表情は見えなかった。そしてそれは河川敷につくまで続いた。
コツコツ......
「ママ!今日の晩ご飯何?」
「うーん――。」
親子の隣を通って僕はショッピングモールに来た。普段は近くのスーパーに行くのだけど、今日はちょっと寄りたい場所もあったからここに来ることにした。まぁ、いつかでもいいんだけど、このままじゃいけないっていう謎の思いに駆られてしまった。つまり「深夜二色街道」の続編を買いに来たのだ。
君に貸してもらったのはあの一冊だけ。読み終えたら続きも貸してもらう約束をしていたが、結局それが叶うこともなかった。
とりあえず、夕食の材料を買ってから、複合されている本屋で探してみよう。僕はそう思って食料品売り場に向かうことにした。
食料品売り場は混んでいた。この混み具合も僕が近くのスーパーを利用する理由の一つなのだけど、今日は我慢するしかない。
とりあえず、今日は何を食べようか。休みだから気を抜いていたので、冷蔵庫の中にはきゅうりとあとハムぐらいしかない。ご飯も炊くのを忘れていた。
「今日は冷やし中華にしようかな......」
一人思考をまとめる。きゅうりはあるし、ハムも......少々心ともないから買っていこうか、卵は確かもうなかったはずだ。後は麺と、小さめの冷やし中華のたれを買えばとりあえず今日の夕食の準備は完了だ。後は明日か...
キン......
俺のすぐそばで、何か金属製の物が床に落ちる音が聞こえた。
なんだろうと思ってそれを拾い上げる、それは薄い金属製のプレートだった。プレートの上部に紐が通る穴が開いていて、そこに何色かの色の糸が混ざった紐が通してあった。
金属製の......しおり?
どこかで見たことがある気がする。そしてこれはきっと大事な物。
僕は落とし主を探そうとして周囲を見渡すが、特に誰も気にした感じではない。つまり落とし主は気がついていないのか。
突然、ぐいと引っ張られるようにして視界が奪われた。僕の心臓は早鐘を打つ。女性の足だった。オシャレなサンダルのような靴を履いたきれいな女性の足だった。それが今にも人混みから抜け出そうと、つまり僕の視界から消えようとしていた。
何故かはわからない。けどそれを知ったって意味がない。僕はその人が落とし主だと、確証はないけれど確信を持って言うことができる。
まぁ違ったって別に良いさ。そのときはサービスカウンターのおねぇさんにでも任せれば良い。
ザク、ザク......
「結構暗いとわかりづらいね」
「......」
「ねぇ......」
「......っあ、ごめん。何?」
「いや、暗いねって思って......」
「そうだね......」
僕は君と一緒に河川敷に向かう道を歩いている。舗装されたアスファルトも、切れかけている外灯ももうなくて、けどいくらかの人の姿と声がまだここが完全な闇の世界ではないと僕に実感させてくれる。
ジーという単調な虫の鳴き声が、静かなこの時間を引き延ばしているようだった。
「やっぱり体調悪い?」
「......いや、大丈夫」
君は歩きながら顔をこちらに向けて
「心配かけてごめんね」
と言った。
「そんな......」
だからどうか、そんなに申し訳なさそうな顔をしないでほしい。覇気のなさそうな顔をしないでほしい。いつも通りの強さでいてほしい。
いろいろと言いたい思いはあった。何度も順々したきがする。けど結局それが口を出ることはなかった。
タッタ......
僕は女性を追って、女性の消えた方向に向かったが、もうそこには女性はいなかった。
この機会を逃すと僕は絶対後悔する。
そんな声が僕を追い立てるようで、僕は一刻も早く落とし主のところへとたどり着きたかったのだけども、実際ここにはいないのだからしょうがない。
なんだか急に疲れてきた。どうでも良くなってきたというか、なんで見ず知らずの人のためにここまでしなきゃいけないんだという思いが僕の足を縛るようにして這い上がってきた。 そう。落としたと気付いたらきっとサービスカウンターの方に訪ねるだろう。そのときにサービスカウンターにあるようにするのが拾い主の責任ではないか。
無理して届ける必要はない。会計を済ませたらサービスカウンターだ。
そう思ってとりあえずしおりはポケットに入れて、僕は会計を済ますことにした。
「はい、全部で―――。」
「これで」
「はい!かしこまりました――。」
胸元に研修中と書かれているプレートをつけた店員に会計をしてもらい、僕は持ってきたバックに買った物を詰めていく。
「ん?」
するとまた視界が奪われた。今度は少しの驚きと安堵をともなって。
あの人がいた。どうやら本屋から出てきたところのようだ。
少し回り道にはなるけど、後を追うことにしよう。
ヒュー......ドーン
赤い光だった。あ、今度は青いの......続けざまに金色のも打ち上げられた。
河川敷の柵には赤い提灯が数メートルごとに設置してあり、足下を照らすように工夫されていた。
赤い浴衣の君は黙って花火を見ている。その顔は花火の光で時々照らされる位で、君が今何を考えているのか僕にはわからなかった。
「きれい......だね」
君がその桃色の唇を振るわせた。でもその目はもう花火を見ていなかった。目は伏せられていて、ふるふると揺れていた。
「そう......だね......」
僕はいったいなんて返せば良かったのだろう。
「あの......やっぱり......」
「......」
「ごめん。何でもない」
「......うん。大丈夫」
君の新しい一面。新しい表情。今度はそれが本なんかではなく、僕に向けられたけど、僕はそれを見て萎縮してしまった。普段と違う瞳の色におびえてしまったのかもしれないし、ここは触れてはいけないと脳がかってに判断したのかもしれない。
でも......やっぱりここで引いたらだめな気がする。
僕は意を決して口を開いた。
「やっぱり......今の君はおかしいよ。何かあったの?僕に話してみて......」
もしそれで、君の気が晴れるのなら。君がいつも通りに戻るのなら。僕はそれを受け止める。と、付け足した。後半は少しかすれてしまったけど。
心臓が早鐘を打つ。僕は君がどんな返事をするのか、そもそも口を開いてくれるかさえも心配し始めた。
君の髪がするりと流れる。こんな真夏なのに、陶磁器のようにきれいな君の肌が、花火に照らされて怪しく光る。
「うん......ううん。いずれ言わなきゃいけないことだしね。というか今日知ったことなんだけど......」
君は首をふるふると横に振った。
ヒュー......ドーン......
「――――――――。」
花火が、僕らの頭上で花開いた。君は無理をして笑っていた、泣いていた。涙を右手でぬぐっていた。
タッタッタッタ......
「あの、ちょっと......」僕は軽く走りながら、けどお店の中だからおしとやかに、あのしおりを落とした女性に向かって声をかけた。いや、かけようとした。
声がかすれて出なかった。走っているからだろうか、それとも......怖いのだろうか。
何が?
わからない。けど、もう手の届くところまで来た。ついでにもうショッピングモールの外に出た。
「あの、すみません」
僕は今度はおなかに力を入れて、はっきりと呼んだ。
「はい?」
女性が振り向く。黒い髪を少しふわっとさせている、涼しげな格好をした女性だった。
「あの、これ落としましたよ。あなたのです......よね?」
「あっ、はい。ありがとうございます!」
ちゃんと彼女の持ち物だった。僕はいえいえと左手を振ろうとして、その手には「深夜二色街道」があることを思い出して、とっさに右手を振った。
「ふふっ、すみません......私も気がつけば......あれ?もしかしてその手に持っている本って......」
「あ、これですか。これは最近読み始めた物でして、今日はその続きを買いに、ここまで来たんですよ。もしかしてご存じで?」
「はい!」
彼女は笑顔で頷いた。
「私もこの本の最新作を買いに来たんです......懐かしいです。確か五年くらい前でしたっけ、この本が発表されたのって」
すると彼女は、ちょっと良いですか?と言って、本を渡すように言ってきた。僕は彼女に本を手渡した。
パラパラパラと彼女はページを流すようにめくり始めた。
「どうですか?」
僕は気になったので聞いてみた。
「......」
気がついたのは、その数瞬後だった。彼女は、ある一ページを見て動かない。それは最後のページだった、けどそれは、後書きの後の出版物紹介の場所で、特に何もないはずだが......驚きのまま固まっている彼女の頬を、一筋の涙が伝っていた。
チリン......
それは、風鈴の音。もしくは鈴の音。近くで聞こえる花火の、ドンというおなかに響く重低音の間隙に鳴ったもの。
きっと誰かが何か持っていたんだろう。
僕は単純にそう考えることにした。
だって、それ以上に大事なことがここにあるから。
「ひっぐ......うぐ......」
君は泣いている。嗚咽を漏らしながら、僕の腕の中で。
僕はそっと君の背中をさする。けどそんな僕も泣きそうだ。泣きたい。けど、泣かない。それは君がいることから来る意地っ張りなのかもしれないけど、少なくともこの場では僕は泣かないと自分の心に誓った。
けど、体はなかなか言うことを聞いてくれないようで、僕の頬にもあたたかい雫がつーっと伝う。
ふわっ......
僕は君を抱き寄せる。夜の都会、その住宅地で。君は泣いている。けどその顔はどうしようもなくうれしそうで、僕も笑ってしまいそうになる。いや、笑っていたのだと思う。今となっては。
「ほんとおかしいよ......」
腕の中の君がつぶやく。
そうですね。確かにそう思うよ。
「でも、またあえて......うれしいって思う」
僕もそう。まさかここで会えるとは思っていなかった。
「最高......ほんとにさ......本をいつまでも読まずに返さなかったりさ、ふと読んだと思ったらその日のうちにドはまりして、本屋行くところとか......」
君はいったんそこで言葉を句切り、満天の星空を眺めた。僕もつられてみてしまう。
「......誰かが落としたしおりをわざわざ持ってくるところとかさ......君の、そういうところだよ......私が好きになったのは」
君の言葉の最後の方は、かすかに聞こえるくらいだったけど、とても小さな声だったけど、とても大きな言葉で......
「そりゃどうも」
「......もう」
満天の星空をみていた僕は、結局最後の君の言葉の時の表情をみていなかったなって今更ながらに思い、少し後悔した。
深夜二色街道 柊六花 @mijyu
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