リセットフルマラソン

ぶるすぷ

第1話

 昔、何処とも知れない場所に少年がいた。



 少年は馬鹿にされていた。

 体を毎日洗えず、薄汚いと言われた。

 満足に食事をとれず、やせ細って気持ち悪いと言われた。

 町に買い物に行くと、近寄るなと道端の人に殴られた。


 毎日蔑まれ、血反吐を吐くような暴力を振るわれ、何度も死を考えた。


 そうして泣きながら家に帰ると、いつもお母さんが迎えてくれた。お母さんは何も言わず、ただ優しく抱いて背中をさすってくれた。ずっとずっと泣き続ける少年を、温かい心で包んでくれた。

 それだけで少年は幸せだった。どんなに辛い毎日も乗り越えられた。決して裕福とはいえない生活でも、誰よりも誰よりも幸せだと少年は思えた。

 少年はそんなお母さんのことが、世界で一番大好きだった。



 しかし、毎日罵倒され暴力を振るわれる生活は辛かった。

 自分を助ける人は誰もいない。

 自分が助かる方法もない。

 暴力を振るわれた体も、孤独を感じた心も、痛かった。

 苦しみは溜まっていく一方で、もう心という容器から溢れそうになっていた。


 あの日も、つかいの帰りに道端に座り、落ち込んでいた。

 お母さんに頼まれた物は買っていない。

 高くて買えなかったのだ。

 どこの店も、少年が来た時だけ値段を上げる。

 買えるはずがなかった。


 しかしこんなことがあっても、怒りは感じなかった。お母さんに頼まれた事を何もできずに家に帰らなければいけないという苦しみが強かったのだ。

 少年は限界だった。

 なぜこんなにも、こんなにも苦しんだのに、もっと苦しむことができるんだ。

 沢山苦しんだから、もう十分だから、だからもっと幸せになってもいいんじゃないか。

 巡る考えが、気持ちの蓋を緩ませていった。苦しみが心から溢れて抑えきれなくなりそうになっていた。


 その時、人が、今ここにいた。


 優しい顔つきの、大人の男の人だ。

 後ろに少女を連れていたが、そんなことは少年の目には全く入って来なかった。


———微笑んでいた。


 大人の男の人は、とても優しい顔で少年に微笑みを向けていた。


 なぜ?


 その疑問が出るよりも早く、男の人は少年に言った。


———ありがとう。


 そして少年の手にりんごを一つ乗せると、少女を連れて街のはずれの方へと消えていった。


 少年は唖然とした。

 見知らぬ人に物を貰ったからではない。

 自分に救いの手を差し伸べる人がいるということに驚いていた。

 自分は一人。自分は孤独。自分は厄介者。

 そう思っていた少年の心は、透き通った。心の器から苦しみが溢れ出し、代わりに感謝と感動が器に注がれ、また溢れた。


 止めようのない、いつもとは違った感情が、少年の頰に涙を流させていた。





 ある日の夕暮れ、辺りが暗くなってきた頃、少年はいつものように家に帰っていく。

 その日少年は泣いていなかった。

 右手にはお母さんの好きなりんごが握られていた。

 少年は足早に家に向かった。その足取りはいつもより軽かった。


 家に着いた。喜色を顔に写しながら玄関の扉を開けた。すると、何年も使い古されて汚れのついた、たった一つの譲りものの靴が散乱していた。少年は不思議に思った。いつもは大切に揃えられているのに、と。

 でもそんなことより、少年はお母さんの顔が早く見たかった。喜ぶ顔を見たかった。いつものようにお母さんが迎えにきてくれるのを待った。

 だけど、しばらく待ってもお母さんは来なかった。仕方なく中に入っていった。


 お母さんがいた。

 お母さんはぐったりと力無く倒れていた。床の血溜まりが足につくのも気に留めず、少年は駆け寄った。だが、お母さんの顔がはっきりと見えてくるにつれ、その足取りは弱くなっていった。


 お母さんが起き上がる気配は全くなかった。顔は青白く、だけどお腹の周りの血は赤黒かった。優しい顔で、眠っているだけのように見えたが、もう動かないことも伝わってきた。


 少年は声を出そうとしたが、何も出なかった。何を言い、何をすればいいのか分からなかった。

 少年はお母さんの前で膝をつき、流れる涙を止めもせず、顔をくしゃくしゃにして泣き喘いだ。

 なぜ、なぜなんだ。お母さんと一緒にいたかっただけなのに。

 少年は寝ることもせず泣き続けた。

 床に落としたりんごは、血でより赤く染まっていた。



 どれほど泣いただろうか。ふと少年は思った。

 悲しい。

 どんなに泣いてもお母さんは戻って来ない。誰が憎いわけでもない。何が嫌いなわけでもない。ただ悲しい。心苦しい。

 またあの幸せな時間を過ごしたい。

 全てなかった事にしたい。


 全てを…昔から…



 やり直したい



 瞬間、目の前が真っ白になった。何を思う間も無かった、一瞬。

 何が、何が起こった?うろたえる少年がふと見上げてみると、お母さんの顔があった。


お母さんはいつもの優しい顔だった。いつも通りの、何も変わらない温かさだった。

 少年の中にたくさんの感情が湧き出てきた。こみ上げる安心感から、お母さんの肩に顔を埋めて涙を流した。ずっとずっとずっと、涙を流し続けた。

 流しながら、少年は誓った。もう失わない、絶対に、死んでもお母さんを守ると。

 少年はいつもより温かい涙を、ずっとずっと流し続けた。

 玄関には汚れひとつない靴が並んでいた。



*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*




少年は馬鹿にされていた。


 体を毎日洗えず、薄汚いと言われた。

 満足に食事をできず、やせ細って気持ち悪いと言われた。

 町に買い物に行くと、近寄るなと道端の人に殴られた。


 しかし、挫けなかった。

毎日毎日、どんなに罵倒されても、体を痛めつけられても、その全てに立ち向かった。


 その日、少年は家に帰った。いつも通りお母さんが迎えにきてくれる。そして優しく少年を抱いてくれる。

 それでも少年は前のようには泣かない。この優しさを、温かさを、この世界で一番大切な幸せを守るために。




 ある日、少年は家に帰っていく。右手にりんごを握りしめ、いつもよりずっと早い時間に帰っていく。少年は足早に家へと向かう。その足取りはしっかりとしていて力強かった。


 家に着いた。無意識のうちに顔を強張らせながら、玄関の扉を開けた。何年も使い古して汚れた靴が目に入る。その靴は散乱していない。

 でもそんなことより、少年はお母さんの顔が早く見たかった。見ないと何かを失いそうな気がした。もしお母さんが迎えに来なかったら…胸中に不安が浮かんでくる。

 すると、いつも通り、奥の部屋からお母さんが迎えにきてくれた。つい顔が綻ぶ。


 少年はお母さんにとってきたりんごを渡した。お母さんはとても喜んだ。少年も喜んだ。こうやって二人でずっと笑顔でいたい。ずっとこうしていたいと、少年は強く思った。


 その後も少年は気を抜かなかった。どこから誰がきてもお母さんを守れるように、神経を研ぎ澄ました。警戒し続けた。絶対に何かが来る、そう直感が告げていた。


 夜になった。もうすぐであの時間だ。少年は一層警戒を強める。

 お母さんは落ち着きのない少年を見ても何も言わず、ただ優しく見つめていた。そんなお母さんが無事なのを、少年は後ろを振り向いて確認する。


 と、その時だった。玄関の扉がガラガラッと開けられる音と共に、スタッ…スタッ… と静かな足音が聞こえてきた。


 少年は包丁を手に持つ。手が汗で湿る。足も震えている。でも、何が来ようとも、少年はお母さんを守るつもりでいた。

 もう失わない。この身に変えても守る。少年は決死の覚悟を持っていた。


 玄関の靴が蹴られる音がした。そして足音がだんだんと近ずいてくる。つられて少年の感覚も鋭くなっていく。

 そして姿を現したのは…少しぶかぶかの服を着た中肉中背の男だった。腰のベルトにナイフを2本下げている。左手に大きめの皮袋を持ち、頭を布で覆って見えないようにしている。敵の正体は盗賊だった。

 男はまだこちらに気付いていない様子だ。奥にあるタンスを見ている。


 少年は足に力を入れて、踏み出した。両手で強く握った包丁を男めがけて突き出す。

 その切っ先には、寸分の迷いもなかった。

 絶対に守る。その強い思いが少年の動きをより鋭いものにしていた。


 男はすぐに気付き、驚愕の表情を浮かべた。慌てふためきながらも玄関の方へ転がったが、胸のあたりの服が切り裂かれているのを視認すると顔を青くした。動揺のあまり腰のナイフの存在さえ忘れていた。


 少年は、間一髪回避されたことに憤りを感じつつも、男を逃すまいと眼光を迸らせていた。部屋の方から何か甲高い声が聞こえた気がしたが、どうでもよかった。

 そして少年は足に力を込め男の懐へと飛び込む。鋭利な切っ先を心臓のあるであろう場所に突きつけて一気に押し込んだ。

 男は声をあげる暇もなく少年に殺され、僅かにもがいたのちに動かなくなった。


 荒い呼吸をしつつ、少年は立ち上がった。

 血が付いた手と男の胸に刺さったままの包丁を見て、人を殺したということを改めて感じた。が、お母さんを守れるならば、どうでもいい事だった。


 これでまた一緒に……。

 少年は微笑みを浮かべながら、玄関から部屋に戻っていった。


 部屋に戻った。

 お母さんが倒れていた。

 窓から外へと出ていく人影が見え、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。盗賊は二人いたのだろうか。


 少年は弱い足取りでお母さんの元へと向かう。そして力無く膝をつき、お母さんの顔を覗き込んだ。


 お母さんはまだ息があった。少年の顔を見つめて、それからふとほほえんだ。優しく温かかった。それだけで、少年の頰に悲しみの涙が流れた。


 お母さんのお腹の周りは血が滲んでいた。だが、血が付くことも躊躇わず少年は抱きついた。お母さんの胸にうずくまり泣き続けた。

 しばらくして、お母さんの体からは力が抜けていた。



もういやだ……


こんなのはいやだ……


昔に…戻りたい…



やり直したい




瞬間、少年の目の前が真っ白になった。




 顔を上げるとお母さんがいた。優しい、温かいいつものお母さんの顔だ。少年はお母さんに抱きつき、声も無く泣いた。心の中には何もなかった。

 玄関には汚れひとつない靴が並んでいた。




*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*



 少年は馬鹿にされていた。


 毎日罵倒され、暴力を振るわれた。

 しかし、少年はあまり何も感じなかった。何も感じないまま、毎日過ごした。



 ある日の昼下がり、少年はりんごを片手に家に帰ってきた。玄関の扉を開けると、使い古され汚れのついた靴が並んでいた。

 少年はお母さんが迎えに来るのを待つことなく、すぐに奥へと向かった。


 部屋にはお母さんがいた。少年が来たのに気づくと優しく微笑みかけてくれた。


 少年は無言のまま、右手でりんごを、左手でお母さんの手を掴んで裸足で外へ出た。その時並べてあった靴を散らかしてしまったが、少年は気にしなかった。


 お母さんは少年に手を引かれても何も言わず、ただ少年を優しく見つめていた。


 少年は走った。どこまでもどこまでも走った。お母さんの手を引いて無我夢中で走り続けた。何度も転んで膝を擦りむいた。それでも走った。


 どれぐらい走り続けただろうか。気付けば木々に囲まれた場所にいて、日も落ちかけていた。近くに丁度山小屋があった。少年はお母さんと入っていった。


 奥の部屋に椅子とテーブルがあったので、お母さんに座ってもらう。お母さんは無言だが、優しい笑顔を浮かべていた。そんなお母さんを見て、少年の瞳からなぜか涙が流れてきた。

 悲しくも嬉しくもないはずなのに、お腹の底から湧き出てくるものがあった。


 少年はお母さんに抱きついた。何も考えず抱きついた。




 少しして、少年は小屋の周りを見るために外へ出た。日は沈みかけていて周囲は薄暗くなってきている。

 さすがにこんな時間まで森の中にいる人はいないだろう、と少年は考えた。が、万が一を考え持ってきた包丁はいつでも使えるように持っていた。


 と、その時。後ろでガサッと音がした。

 少年は、本能的に、包丁で自分の後ろを横薙ぎに一閃する。


 すると、見覚えのある男が驚愕の表情を浮かべ倒れる。前見た、盗賊の男だ。ベルトにナイフを一本だけ下げている。


 嫌な予感がした。


 少年はすぐに小屋へ向かう。玄関の扉を開けるとお母さんの元へと駆けた。


 お母さんがいた。

 お母さんはテーブルに寄りかかるようにして倒れていた。テーブルには血溜まりができており、床に滴り落ちている。


 驚きと、哀しみと、様々な感情が少年の中で渦巻く。


 少年がおぼつかない足取りで近づくと、お母さんの背中にナイフが刺さっているのが分かった。


お母さんはこちらを見ると、優しく微笑んだ。


 少年は呆然と立ち尽くした。お母さんの方を見ている。が、目の焦点が合っていない。いや、もう少年には、目を合わせる気力も残っていなかった。


 少年は思った。

 どうしてなんだ……どうして!何度も何度もやり直しているのに、どうしてお母さんは…!

 もう…これ以上辛いのは嫌だよ………ずっと一緒にいたいだけなのに、なんで、、。…なんでなんだよ…!


少年は天に喘いだ。

声にならない声を轟かせ、赤く染まったりんごを強く握りつける。


もう嫌だよ…お母さんとずっといたいよ…


昔に…


昔に戻りたい




瞬間、目の前が光で覆われた。

少年は眩しさに目を瞑る。


…少しして目を開けると、優しく温かいお母さんの顔が見えた。いつものお母さんだった。


 少年はもう何も考えたくなかった。

 玄関には汚れひとつない靴が並んでいた。



*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*



少年は繰り返した。


何度も、

何度も、

何度も、

何度も何度も何度も何度も何度も。


 お母さんの笑顔を見るために、

 ずっと一緒にいるために、


 少年は繰り返した。













…何度目だろうか。

目の前を光が覆った。


 暫くすると光が弱まり、はっきりしてくる。


 顔を上げると、いつも通りの優しくて温かいお母さんの顔があった。


 だが、少年は立ち尽くしたままだった。涙を流すことも、お母さんの肩に顔を埋めることもなかった。


 少年はもうお母さんに抱きつくことはなかった。



*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*



少年は馬鹿にされていた。


 体を洗わず、薄汚いと言われた。

 ほとんど食事を取らず、やせ細って気持ち悪いと言われた。

 町に一切出向かずにずっと道端で座っており、からかわれ殴られた。


 毎日蔑まれ、血反吐を吐くような暴力を振るわれた。

 しかし、少年は何も思わず、感じず、考えなかった。

 何もしたくなかった。


 その日、少年は家に帰ってもお母さんに抱きつくことは無かった。お母さんの優しさも温かさも感じなくなっていた。笑顔も見せなくなった。

 お母さんは悲しげに少年を見つめていた。



 ある日の夕暮れ、辺りが暗くなった頃、少年は家に帰る。おぼつかない足取りで、のらりくらりと帰路を進む。手には何も持っていなかった。


 家に着いた。玄関の扉を開けると、何年も使い古されて汚れのついた、譲りものの靴が散乱していた。

 少年は少し靴に視線を向けたが、また少しして視線を外し、奥の部屋へと歩みを進めた。



 お母さんが倒れていた。周りには血溜まりができていた。

 顔は青白く、お腹の周りは赤黒かった。ただ眠っているようにも思えたが、もう動かないことも伝わってきた。お母さんは、少し悲しそうな顔をしていた。


 倒れたお母さんを見た少年は、だが何も感じることは無かった。

 逆に少年の心は空っぽになっていった。

 色のない目でお母さんを見た少年は、踵を返して部屋を出た。もう振り返ることはなかった。


 少年は玄関へと戻っていった。

 外へ出て、開けっ放しにしていた扉を閉めて、どこへともなく歩いていった。

 玄関にある汚れた靴は、少年が履いていった。


*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*



幾日か経った。


 少年は町の外れの方にある墓地にいた。少年は墓地の端の方にある墓石に寄りかかるようにして座っていた。


 少年は分からなくなっていた。

 自分は悲しいのか?悲しくないのか?苦しいのか?苦しくないのか?

 自分はなぜ生きているんだろう。何のために生きているんだろう。何をして生きてけばいいんだろう。

 いつしか少年は、答えのない迷路を彷徨うようになっていた。




*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*



幾日か経った。


 その日、ふと少年が街道に目をやると、一人の少女がこちらを見ているのが見えた。

 すぐに少女は視線を外し、見えないところまで行ってしまった。だがなぜか、少年の脳裏に少女の姿が焼き付いて離れなかった。



幾日か経った。


 その日、少年は少女と出会った。墓石に寄りかかるようにして座り込む少年。少女は、その少年の顔が前に来るように、地面に座っていた。

 少女は何も喋らずに、ただ少年を不思議そうに見つめていた。


 ふと見ると、少女は微笑んでいた。

 少女の微笑みは優しく、温かかった。

 少年は唖然とした。自分でも分からない感情、そして今は無い、昔感じた何かが溢れてきた。

 意味も理由も無く、少年の頰を涙が伝った。


 少しして、気付けば少女はいなくなっていた。

 だが、涙が止まることはなかった。少年は少し温かい涙を流し続けた。




幾日か経った。


 その日少年は、少女が座り込んで泣いているところを見た。少女の体にはあちこちにあざがあった。少女はとても辛そうにしていた。

 何も感じないはずの少年は、自分の胸が少し締め付けられたように感じた。




 ある日少年は、少女がりんごを持って歩いているのを見た。少女はどことなく嬉しそうな、楽しそうな表情だった。

 少年はなんとなく、本当になんとくなくだが、少女について行きたくなった。


暫く経った。


 少年は、前方に少女を見据えながら街を歩いていく。少女の足取りは軽く、心が浮き立っている事が伝わってきた。


 少女はある家の前で止まった。お世辞にも綺麗とは言えない家で、少年の家と同じぐらいに貧相だった。

 少女は顔に喜色を浮かべながら玄関を開けた。そして何かを待つように立っていた。

 暫くすると、少女は不思議そうな表情をしながらも、中へと入っていった。

 少年はまるでそこが自分の家であるかのごとく、自然に玄関の中へと足を運んだ。

 行かなければいけない気がした。


 少年は玄関に入った。少女の姿は見えなかった。すでに奥に部屋へ向かったようだ。

 少年は周りを見渡す。すると、少女が履いていた靴が目に入った。適当に脱ぎ散らかしたのだろうか、靴は散乱していた。

 少年はじっと靴を見つめた後、なんとなく靴を揃えて置いた後、奥の部屋へと足を進めた。


 少女がいた。少女は床に膝をついて泣き喘いでいた。その側に、小柄で痩せ細った、優しい顔つきの男がいた。

 男は倒れていた。手には力がなく、お腹の周りから流す鮮血を床に広げていた。それでも、優しい顔つきで微笑んでいた。眠っているようで、それなのにもう一生動かない事も伝わってきた。


 少女は泣いていた。膝に血がついても、顔がくしゃくしゃになっても、泣きすぎて目が赤くなっても、鼻水をすすることもなくただただ泣き続けていた。


 少年は思った。こんなとき自分は何を思っていただろう。何を感じ、何を考え、どうしていただろう、と。


 いつの間にか、少年は少女の元まで歩み寄り、優しく、温かく、少女の小さな体を抱いていた。

 少女は驚き少年を見るが、少年は全く気にせず考える。


 こんなとき自分はどうしたか?

お母さんを見て何も思わなかったのか?

———違う。思っていただろう。悲しみ、苦しみ、様々な感情を持っていただろう。


 少年は思う。

 自分は何をすべきなのか。

 このまま、ずっと静かにしているだけなのか。本当にそれでいいのか。


———違う。


しなければいけない。

やらなければいけない。




昔に、戻さなければいけない







瞬間、目の前を光が覆った。



 気が付けば、少年は墓地にいた。

 いつものように、墓地の端にある墓石に寄りかかるようにして座っていた。


 目の前には少女がいた。

 少女は唖然とした顔で、少年の前に立ちすくんでいた。何が起こったのかわからない様子だった。

 少女はただただ少年を見つめ、無言の中で少年に答えを問うた。


 少年は何も語ることなく、昔自分がしてもらったように、優しく温かい微笑みを浮かべて手を広げた。


 少女は迷いを浮かべて僅かにたじろいだが、すぐに少年の胸に飛び込んだ。少年の肩に顔を埋めて泣いた。

 ずっとずっと温かい涙を流していた。


 少女が泣き止むまで、少年は温かく少女を包み続けた。



*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*


終章:リセットフルマラソン




 幾日か経った。


 少女は毎日、少年の元へくるようになっていた。

 少女は、泣いている日もあれば、笑っている日もあった。だがどの日も少女の体にはあざがあった。

 そしてどの日も少年が優しく笑みを浮かべて手を広げると、少女は少年の肩に顔を埋めて泣き続けた。


 幾日か経った。


 ある日、少女はりんごを手に持っていつもより早く少年の元へときていた。少女の顔は少し強張っているように見えた。


 少女は少年を見つめた。

 少年も少女を見つめた。

 少女の目はあどけなく、頼りなく、助けを求める様な光を灯していた。


 少年は決意した。自分は何をすべきかを。何を守るべきかを。

 この少女の運命を守るためならば、何度でも二人で共にやり直すと。

 永遠にやり直してでも、それが少年の生きる意味である限り、少女を守ると誓った。


 少年は力強く立ち上がると少女に微笑みかけ、少女と手を繋いで歩きだした。

 少年の心には、優しく温かい、消えることのない強い光が灯っていた。

 少年はもう泣かない。これから流すのは温かい涙だけにすると、決めた。


 二人は、いつもより明るく、眩しく感じる町へと消えて行った。



 墓石には、りんごと使い古された靴が並べられていた。



End.

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