After shattered

静翠

第1話


ある日突然、毎日はとんでもなくつまらないものになって。

待ちわびていた日は、最低でどん底な一日になって。

何を失ったのか、何を知ったのか、それさえもわからなくなって。

すべては消えてしまえばいいと、本気でそう思った。


ホテルの庭の、ビーチに突き出したプールサイドの陰にある岩場。どれくらい座り込んでいたのかもわからない。確か日は沈みかけていたんだ。ここに来た時。今は真っ暗で、ビーチさえ見えない。肌寒さに気づいて溜息が落ちた。そう、ずっと溜息さえついてなかった。

岩場の下、足元に見えていた砂浜は、ただの真っ暗な闇にさえ見えて。立ち上がりかけて手元に目を落とした。見つめてから、何も考えずにそこにあるベルベット青い小さな箱を力なく突くと、闇に吸い込まれるように落ちて目の前から消えていった。


世界はもっと輝いて見えるはずだった。

そう信じて、今日を待ちわびてここに来た。

今は、そう闇に消えていったあの箱のように、何かに吸い込まれて。

消えてなくなったみたいに。


力なく立ち上がるとぼんやりプールサイドを過ぎて、中庭からホテルに入るドアへ足を向けた。

「あの」

誰かの声。誰もいないはずのプールサイド。そう知っていて、今部屋に戻ることを決めたから、面倒くさい気持ちで声に振り向いた。

「これ、落とさなかった?」

誰なのかもわからないまま、その声の主を見るより先に差し出された手を見る。そこには、あの時闇に消えるように落ちていったあの青い小さなベルベットの箱。一瞬息を呑んだ。まるで、消えてさえくれないかのようにそこにある。その手を伝って顔を上げる。茶色い髪の長い同じ年頃くらいに見える女性。顔を上げても、オレを見て何の反応も示さない彼女にどこか不思議な気持ちのまま、まじまじと顔を見る。

「あの・・・?」

ためらいがちに、どこか困ったようにそういう声。

「あげる」

唐突にそう言った。彼女は、え、とつぶやいた。でも次の瞬間目を細めてオレを見た。

「いらない」

さらに手を差し出してそう言った。また箱に視線を落とした。


ずっと大事に持っていたんだ。今日の今日まで。ずっとずっと大事に。だから。


「オレもいらないから」

何とかそうつぶやく。オレの言葉は、どうやって彼女に届いたんだろう。彼女は差し出していたその手を引いた。目の前から遠ざかる箱をただ見た。

「ここに泊まってるの?」

少しの沈黙の後、彼女の声がした。その答えは簡単じゃなくて。普通の質問でも、オレにとっては誰にでも答えられることじゃなくて。少し目を上げた。

「君・・・オレのこと知らないの?」

そう尋ねる。一瞬、彼女は考えるように目をしかめる。

「会ったことあった?」

その言葉は、そう・・・知らないんだ、少なくともそのフリをしているとしても、オレの名前を叫びださないことは間違いない。うつむいて小さく首を横に振った。

「泊まってる」

つぶやくと、小さく息をつく音が聞こえた気がした。

「そう。じゃあ、預かっておく。明日、酔いがさめているころに持っていくから」

その言葉にもう一度顔を上げた。でも、何を言えばいいのか思いつかない。今、箱をこれ以上渡そうとしない彼女と、明日の話を議論する気にもなれなかった。化粧っけのない顔。茶色の長い髪。見つめ返す少し栗色がかった瞳は、強い意思を感じて。その手にある箱は、もう一度オレの手に戻ってくる気がした。理由は、わからないけど。

「Alicia」

突然聞こえた声。彼女の名前だとわかるのに、少し時間がかかった。目を上げてじっとオレを見る視線に

「Dean」

つぶやいた名前。それが彼女に何かを思い出させることがこわかった。でも、彼女はオレが名前を言ったことに、少しホッとでもしたように微笑んだ。

「Bye Dean」

両手で青い箱を握り締めて向けられた背中。一度捨てた箱を握り締めた名前しか知らない誰かの手を、見えなくなるまで立ち尽くして見送った。




ホテルのレストランに入る。ぐるっと見渡して、そして見つけた。ブロンドの短髪。背中が昨日呼び止めたあの彼のような気がして、でも確かだと思える自信がなくて、テーブルに近づくと前に回りこんだ。コーヒーカップを手にしたまま座っている姿。その表情は昨日と同じに沈んで見えて、そしてやっと確信した。

「Hi Dean」

彼の視線は、ぼんやりと上がって私を見た。でもまるで私を見ているのかわからないような目で、でもひとしきり私を見つめた後やっと顔をしかめた。

「誰?」

何の感情も持たないように、興味さえ持たないような冷たい声がした。

「覚えてないの?」

そう答えるしかできなくて、でも彼は

「知らない」

と言って目をそらした。なんなんだろう、いったい。傷ついているだろうことはわかっていた。だからこんな箱を捨てたりするんだ。見ず知らずの誰かに「あげる」とか言い出すんだ。でも、だからってまるで見たくないものを見るような、遠ざけるような顔。顔をしかめたいのはこっちのほうだ。

「昨日、会ったよ」

やっとそう答えた。彼は面倒くさそうに目を上げる。

「知らない。誰?」

睨むような視線。面倒くさいのは私のほうのはずで、不機嫌な視線にどこかでいらっとした。彼にどんなことがあったかなんて、私の知ったことじゃない。これ以上、こんな視線に睨まれている理由はもうない。自分の名前を言って説明して昨日のことを思い出させる気にもならずに、結局持っていた箱をコーヒーのソーサーの近くに置いた。感情任せに力強く置かないように気をつけた。

「これ、返したかっただけだから」

彼が目を細めて、そして視線を落としたのが見えた。カップを持つ手が止まったのを見て

「さよなら」

そうつぶやいてテーブルを離れた。


私には関係のないことだ。

エンゲージリングを捨てるようなつらさも。見知らぬ誰かにあげたくなるような惨めさも。

声をかけてくる誰かは、すべて敵に見えるような傷の深さも。

ただ、少し気になっただけ。それほど傷ついたあと、人はどうなっていくのか。


あのときの私のように。

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After shattered 静翠 @yun_purple

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