04 猫の料理店でたらふく食事して元の世界に戻ってきた
排気ガスと、湿った土のニオイが夕風に運ばれておれの顔を舐めた。
「あ……」
見慣れた住宅地。
おれの家の、すぐ近くの場所だ。
「ここ、は……」
思考が追い付かなくて呆然としていれば「にゃ」と再び短い呼び掛け。
探す必要もなく、そいつはいた。
「猫……」
猫が一匹。
道のど真ん中に座っていた。
数秒見つめ合う。
気まずさを感じ、そろりと後ろを確認した。
知っている町並みが、当たり前の顔をして穏やかに並んでいる。
呑気な夕焼け空。
少し先の十字路を、車が忙しなく走っている。
頭の中に色がつく。
一気に、現実に引き戻された。
猫に向き直る。
猫は、まだいた。
「……オーナー?」
恐る恐る吐き出した言葉は、鼻を鳴らしてぞんざいに一蹴された。
目の前にいる猫は顔を洗う。
オーナーの靴下柄とはまったく異なった薄汚れた毛並みだ。
「オーナー、じゃない?」
なによりオーナーはもっとやわらかい雰囲気の、お人好しそうな猫だ。
こんな風にプライドが高そうな、玉座にふんぞり返ってそうな王様みたいな態度は取らない。
顔を洗い終えた猫は立ち上がる。
「四足歩行……」
深紅の首輪についた鈴をチリンと鳴らして、普通の猫は軽やかに駆けて塀の上に飛び乗った。
そのまま知らない家の敷地内に不法侵入していって「おわっ!」
ププーッ! と派手な音。
おれは飛び退いた。
「あっぶねー!」
端に避けたおれの隣を、車が不機嫌な速度で走っていく。
「あれ?」
おれは視線をおろした。
「……足、ある」
おれの両足がしっかりとあった。
クラクションを鳴らされて驚いた心臓も、激しく存在を主張している。
五体満足。
透明でもない。
店ではなかったリュックも、いまなちゃんと背負っていた。
「生き、てる」
オーナーの台詞が脳髄に木霊する。
――――お客さまは死んではおりませんよ!
同時に、それをかき消す嫌な言葉が浮上した。
「っ――!」
白昼夢とか、幻とか、そんなのはいやだ。絶対にいやだ!
こういう場合、時間が立てば跡形もなく記憶が忘れてしまうと相場は決まってる。
無駄な足掻きかもしれない。
それでも、少しでも形に残そうと、なぜか元のポケットにしまわれているスマートフォンを取り出し、いつも利用しているメモ帳アプリを焦燥感に突かれながら開いた。
「ん?」
開いて、目が丸くなる。違和感。
「なんで?」
何度も確認して、確認して、数秒沈黙してから「ぶッ!」
おれは吹き出した。
「マジかよ!」
住宅地の真ん中で、大口を開けて腹の底から笑い声を上げた。
「うわっ、うわあ……!」
鳥肌が立つ自分を抱き締め、興奮のあまり身を捩り、地面を強く踏んで、飛び跳ねる。
補導されても文句を言えない挙動不審ぷりを披露しつつ、どうにか奇行がおさまるまで誰にも声をかけられずにすんだ。
「はあーあ……っ」
笑いすぎて喉が痛い。
深呼吸をしてから、おれは改めてスマートフォンのメモ帳を見た。
「うん。やっぱり、ない!」
スマートフォンのメモ帳に書いていたおれの小説が消えていた。
消した覚えはない。
誤って消さないようにロックもかけていた。
なのに、ない。
オーナーに食材として差し出した異世界転移の小説のみが、きれいさっぱりと消えていた。
小説が消えた悲しさ以上に、失ったことによっておれがあの幻想的な料理店に確かにいたという証拠が見付かったことへの歓喜と高揚感の方がずっとずっと強かった。
白昼夢でも、幻でも、おれの妄想でもないと言い切れる自信がある。
これは忘れる出来事ではない。
確信した瞬間。
ほわりとあのやさしいミルフィーユの甘味が口の中に漂った。
「よし!」
おれは意気込む。
新しい話を書こう。
次は異世界転移でも転生でもない。料理話だ。
異世界料理ものは書いたことがないけど、いまなら書ける気がする。
取りあえず、タイトルは――――
「異世界転生すると思ったら猫の料理店でたらふく食事して元の世界に戻ってきた。で、いいかな?」
もちろん、主役である料理店のオーナーは靴下柄の猫だ。
【END】
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