第107話 愛のしるし(2)

「無事に送り届けてきただろうな。」

社に戻ると志藤にいきなりそう言われた。


「ちゃんとご自宅まで送りましたよ。」

夏希はまだ疑っている、と心外だった。


「でも、本当にステキな人ですよね~。 絵梨沙さんって。 もうピアノを弾いている姿もきれいで、」

夏希がうっとりとして言うと、


「ま、そやろな、」

当然、と言ったように彼はうなずく。


「だけど。」


夏希はさっきのことを思い出した。




志藤はタバコを灰皿に押し付けて、手元にあったコーヒーを一口飲んだ。


「元々、ウイーンの音楽院で同級生やった二人はまあ、自然に惹かれあってつきあうようになったらしいけど。真尋の話によると、最初はもう、あいつとは比べ物にならないくらい彼女は学校内でもトップの存在やったらしいで。」

ゆっくりと話し始める。


「エリちゃんはコンクールでバンバン賞取ったりしてたけど、真尋はコンクールってのが苦手で。 うーん、なんて言うか・・コンクール向きの演奏家ちゃうねん。 そういう型のはまった演奏がでけへんねん。エリちゃんのが先にウチと契約して。 学校が夏休みの間なんかに日本で売り出してな。 も、あの美貌でピアノの実力もあるんやから。 こっちでコンサートもしたし。 CDも出して、けっこう売れたし。 で。学校に指導に来ていた有名な指揮者に真尋のピアノが認められて。 でも、学校を卒業して、エリちゃんは本格的にピアニストとして活動しはじめようかって時から彼女がおかしくなってしまってなあ。」

志藤は遠くを見つめた。


「いろいろあってな、夢見ていたピアニスト生活が送れなくなって。 一方対照的に真尋は海外からもバンバン大きな仕事来るようになって。 コンクールで大した成績は残していないけど、ウイーンで地道な演奏活動していたことが認められてきたと言うか。 彼女は誰よりも真尋の才能を信じていて、どんどん自分のことよりも真尋を支えるのが生きがいのようになってしまって。」


夏希は黙って志藤の話を聞いていた。


「ピアニスト沢藤絵梨沙としては。そやなあ、半ば引退したも同然やったんやけど。 こうやって日本に戻ってくる時に少しずつ仕事してな。 主婦向けの雑誌や、ファッション誌の仕事なんかもしたり。 だけど、一流ピアニストとして骨身削ってた時よりも、今の彼女はほんまに幸せそうやし。 おれはな沢藤絵梨沙の才能をこのまま埋もれさせてええんかって、ずっと思ってた。 だけど、今の彼女を見たら。 これでよかったんかなあ、と。」


本当に

彼女のことを思う気持ちが伝わってくる。


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