第106話 愛のしるし(1)

「よかったんですか? 曲を変えるなんて・・」

楽屋に戻った絵梨沙に夏希は言った。


「大丈夫よ。」

彼女は笑顔で言う。


「も、ほんっとわがままじゃないですか? 進行表自分で見忘れたくせに、」


「若いうちはなかなか妥協ができないものよ。」

嫌な顔ひとつせずにそう言った。


そして収録が始まる。

結局、さおりのリハが押してしまい、絵梨沙はろくにリハをすることができなかった。


あんまりだ。


夏希は憤慨するが、絵梨沙は落ち着き払っていた。


『モーツァルト幻想曲二短調』

さおりの本番が始まった。


夏希はクラシックにはまるで疎かったが、彼女の圧倒的な存在感を感じ取っていた。

周囲の人々も彼女の音に魅了されていた。

表現力も瑞々しく、テクニックも素晴らしく。

さすがだな、と言う空気が漂う。


そして。

絵梨沙が本番用の黒いドレスを着て現れるとその場の空気は一変した。


深いローズ色のルージュが白い肌に印象的で。

志藤が言っていたとおり

まるで女神が光臨してきたような

そんな輝きだった。


きれい…。


夏希はもう彼女がこの世の人ではないのではないか? とさえ思えた。


彼女が奏でる

ショパンのワルツは

どこまでもどこまでも

美しかった。


しなやかで

まるで音が体に優しくまとわりついてくるかのような。


さっきまで彼女はもう終わった、などと囁いていたマスコミたちも思わず息を呑むような

そんな彼女のピアノだった。


「も、ほんっとすっごい良かったです~! 感動しちゃいました~!」

夏希は収録を終えて楽屋で帰り仕度をしている絵梨沙に言った。


「リハもろくにできなかったのに、」


「ショパンはわりと得意だから。」

静かに微笑む彼女はやっぱり美しい。


「ほんっと。 生意気な感じでしたよね、」


まだ興奮している夏希に絵梨沙は笑いながら、


「若い頃は何にでも自信満々で。 迷いもなく。 彼女はまだまだ伸びる人だし。」

さおりを庇う余裕もあった。



「あのう。」

夏希は車を運転しながら絵梨沙に言った。


「え?」


絵梨沙はルームミラーで彼女と目を合わせた。


「どうして絵梨沙さんはすごいピアニストだったのに、自分のことよりも真尋さんの奥さんであることを優先しているんですか。」

素直な気持ちだった。


「あたしはピアノのことはよくわかりませんが。 絵梨沙さんは学生の頃に海外のすごいコンクールでも優勝したことあるって、南さんから聞いていたし。」


絵梨沙はミラー越しに夏希に笑いかけ、


「私は。一流ピアニストにはなれない、」


そう言った。


「え?」


「それを夢見ていた時もあったけど。 でも、それよりも真尋という『天才』を全力で支えてあげたいの。」


真尋さんのピアノを聴いたことはないけれど。

いくらダンナさんとはいえ

自分を犠牲にしようと思うだろうか。


夏希は解せない思いでいっぱいだった。


あんなにステキなのに。


もう

胸がいっぱいになるくらい

すごいピアノなのに。


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