イーサン・クラークの場合
1.小さく狭い先進国の島国で
人の話し声。足音。
その他雑多な音がザワザワと右から左に流れていくほどには、日本国立病院は今日も混雑している。僕が治療のためにこの病院に滞在するようになってから、毎日、いつも、混雑している。
日本の医師は働きすぎだという話を聞いたことがあるけど、確かにそのとおりだな、と思いながら、背中を丸めてなるべく廊下の隅っこを歩いて一階を目指す。
比較的暇そうにしている総合受付に立ち、キレイすぎて感情のない笑顔を向けてくる女性に、雑巾から水の最後の一滴までしぼる勢いで心からギュッと勇気をしぼって口を開く。
「ガイ、シュツ。OK?」
「外出ですね。こちらの申請書にご記入をお願いします」
片言の日本語で外出がしたいと伝えると、スラスラした日本語で何か言われた。まだそんなに日本語に慣れていない僕には最初の『
僕は、日本語に囲まれた生活というのに慣れることができないでいる。
女性はこちらにタブレットを差し出してきた。最初から英語で明記されたタブレットには『外出許可専用』と書いてある。
見慣れた英字の並ぶ外出許可申請書の必要な部分に記入をし、最後に入院患者の証明書でもあるカードキーをかざす。『イーサン・クラーク』と確認で名前を呼び上げられて、癖で、辺りを窺ってしまう。
ここは日本で、日本だからこそ、僕はありふれた外国人の一人でしかない。誰も僕のことなど気にも留めない。目の前の受付の女性でさえ。
Yes、と早口に返事をすると、ピッ、と電子音がして、すぐに外出許可が下りた。
僕はタブレットを置くと、逃げるように受付に背を向け歩きだす。「時間内にお戻りください」背中越しに女性の声がしたけど、言葉の意味はよくわからず、そのまま病院の自動ドアをくぐり抜けて外へと飛び出した。
これで六度目の外出申請だというのに、いつまだたっても慣れることができない。そんな自分にがっかりする。
(…曇り……)
雨は降らないだろうけど、頭上にはそれなりの雲のある空。
日本の空は狭く、高層ビルやマンションが立ち並ぶ隙間から、肩身が狭そうな曇天の空がこちらを覗いている。
日本は狭く、小さいが、なんでもある国だ。
すべてが手に届くコンパクトさで所狭しと並ぶ様子は、外国人には人気だ。
僕も、電車の路線さえ間違えなければどこへでも行ける東京は好きな方だ。乗り過ごしても待っていればすぐに電車は来るし、どこでも英語で表記があるから僕でもわかりやすいし。
何より、この国は目を合わせて会話することを強制しない。僕が日本で一番気に入っているのはそこだ。
カフェに入ってもメニューを指差して英語で伝えるだけでちゃんと注文したものが来る。こちらの無愛想にも日本人は営業の笑顔を浮かべる。利用する側としてはとても楽だけど…働いている側からすれば、大変だろう。
(ふう)
敷地を出て少し歩いたところに国立病院発のバス停があり、待ち列に僕も加わった。
誰に注意されたわけでもなく行儀よく並んでいる日本人に混ざって並びつつ、待ち時間の間、さて、今日はどこへ行こうか、とガイドブックを広げる。
『Tourism Japan』のガイドブックは僕が愛用しているもので、お得な一日券のことや、隠れ家的な人気カフェのことが載っている便利な本だ。
たとえば、美術館に行くなら一日券があると二百円OFFになる…といったお得情報もある。長く滞在する僕にはそういった節約の積み重ねも大事なので、入念にチェックしては、今日の予定を組み立てる。
そういえば……外国人も多いからってスカイツリーなんかは避けていたな。そろそろ見に行くべきだろうか。展望台までのエレベーターの内装が『日本の四季が感じられる素晴らしいデザインだ』って絶賛されていた気がするし…。少し、高いと思うけど。観光シーズンに入って混雑する前に、行ってしまおうかな。
今日の予定は決まったけれど、暇つぶしがてら、僕はガイドブックを眺め続けた。
日本人はみんな自分の携帯端末に視線を落として、指先を動かしているだけ。
そうしていると、新種のゾンビが群れをなしてるみたいに、みんなの顔が死んでいる。顔というか、表情が。まるで感情のない人みたいだ。
そうかと思えば、急にほころんだり、眉間にしわを寄せて目を細くしたり、溜息を吐いたり。
『日本人は感情を切り売りすることに慣れている』なんて言われているけど、そうせざるをえない国になってしまったんじゃないかなぁ、なんて僕は思う。社会に要求されることが多すぎて、自分の時間も少なくて、感情すら節約しないと、やっていけないんだ。
この国の人が屈託なく笑うのは片手で足りる年齢の頃だけかもしれない…そんなことを思うと悲しくなって、目を伏せる。
日本は小さく狭くとも先進国。
その背景には、こんなふうに身を削って生きている人々がいる。だからこそ、利便性に長け、治安も維持された国の
(それは。幸せなこと、なんだろうか…)
ぼんやり考えながらガイドブックを眺めていると、出発時間の一分前にバスがやってきて、僕も含めた乗客が事務的に乗り込み、定刻になると、バスは東京駅向けてキッチリと出発する。たとえ今病院の門を出てこちらに小走りに向かっていた人がいても、容赦なく、時刻を守る。
僕の名前はイーサン・クラーク。
十二月の誕生日がきたら十九歳になる、どこにでもいる、平均的なアメリカ人だ。
今は『心の治療』のために日本の国立病院に入院中で、
好きなことは日本の観光。
特筆する部分もない、およそ平均的な僕は、今日も外出許可を取り、一人で東京観光をする。
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