短編集 幽し者へ

NIKKA

第1話 我が家にて

第1話 我が家にて


 私は今でもあの子の不憫を思えば、居た堪れないのです。



 あの日はやけに蒸し暑く、昼を過ぎるまでは太陽ばかりが元気でありました。太陽の下で私達、人間という生き物は暑さに茹り、ご老人なんかは幾人か命を落としたりしていた記憶があります。顔も知らない人が十人や百人死んだところで、記憶は薄れ、一月、二月、三月と時が経てば忘れてしまうのが常でありましょう。だというのに五年も昔の「あの日」に関する記憶は今もありありと、鮮明に、色鮮やかに私の頭の中には残っているのです。

 二〇〇十一年八月十四日。午前九時頃、私は殺人的な暑さに、殴り付けられてしまいまして。その殺意に元々弱い気を握りつぶされたようで、ほとほと参っておりました。その暑さは机の上にて、筆を握り、書を認めるという私の生業の邪魔をし、私を涼へと誘うのでしたが、私の家には冷房などはなく、口に氷を含んだり、額に氷嚢を乗せてみたり、果てには浴槽いっぱいに溜め込んだ冷水に肩まで浸かるばかりでして、その度に冷たさに短く悲鳴をあげる私は白痴のようでありました。尤も前時代的な涼の取り方に粋を感じているのも事実、中々乙な物だと恍惚に浸っていた、というのも正直なところではあります。

 十一時頃、あれだけ殺人的な日差しを放っていた太陽は雲の裏に隠れてしまい、暗く淀んだ空はそのうち、ごろごろと唸り、ぴかりと輝き、ぱらぱらと泣き出しておりました。私は濡れ縁から外に出て、

「随分と早い夕立だ」

 などと空を嘲るように揶揄ったのを覚えております。何故、そんな他愛もない一言を覚えているかといいますと、私の家の庭、その囲い塀の前、越してきてから一回も開けていない倉庫の小脇で、激しい雨の中、白けながらぼうっと子供が立っていたからであります。不思議と人の家の敷地の中で何をしているんだという怒りのような物も沸き立たず、

「風邪をひくから家に帰りなさい」

 と、声掛けて私は濡れ縁の扉を閉じました。今思えば、何故それが子供だと思ったのかはよく分かりませんでした。私は目が悪く、眼鏡がなければ日常の生活も儘らないのです。かれは男なのか、女なのか、子供なのか、大人なのか、はたまた生きている者なのか、死んでいる者なのかも分からなかったのです。



 十五時頃、雨音に塗れた「恐怖の頭脳改革」などとふざけた名前の音楽を聞きながら、私はただただ惰性に身を任せるように筆を手に取っておりました。尤も筆などといっておきながら、私が使うのはコンピューターであり、キーボードが仕事における親友でありましたから、文筆家とは名前ばかりで打鍵家とでも名乗るべきなのでしょう。

 私がキーボードを叩く音に混じって、ふと廊下が軋むような音が一つ、二つしてきました。もう古い家でしたから、風が原因で家鳴りでもしているのでしょうと自身に言い聞かせて、知らぬ存ぜぬを決め込んでいましたが、その音は少しずつ近寄ってきているようでして、どうにも感覚も短くなってきているのです。しまいには壁や天井からそんな音がしてきて、少し薄気味悪く感じたというのが正直でありました。私はCDプレイヤーのボタンを二回、三回と押し、音を大きくしましたが「恐怖の頭脳改革」では誤魔化し切れず、もっと激しい音楽「血の雨」へとCDを取り換えた次第でした。十六分で刻まれた激しいギターリフから始まり、ボーカルの金切り声、悲鳴のような声、悲鳴のようなギターソロが私の気を紛らわせます。徐々に近づいてくる家鳴りは、そんな悍ましいともいえる音楽に驚き、恐れ戦いたのか、鳴りを潜めぱったりと止んでしまいました。私はそれに得も知れない意図のような物を感じ、恐れを抱いたのは言うまでもありません。

 十七時頃、盆だというのに郷に帰らず、墓参りの一つもしない友人と共に居酒屋におりました。休みともなれば、こんな早い時間から酔っ払っている方も多数おりまして、既に酒くささを漂わせながら、下品な笑い声をあげているのです。

 取敢えずビールと注文を入れる友人でありましたが、私は下戸なものでして烏龍茶を頼むという、全く面白味のない行動を取っておりました。先程の事を友人に話すと、彼は

「盆だからねぇ。この世の人じゃあないものも帰って来てるんじゃないのか?」

 などと私を脅すので、私は彼の肩を小突き、おかしな事を口走るなと戒めました。彼は肩を摩りながらへっへっへと、居酒屋の先人達のように下品な笑い方をしていました。いかにも助平そうな笑い方をする彼でありましたが、彼の品格を保つために弁明させてもらいましょう。彼は私と違い妻子持ちで、きちんと会社に勤めている確りとした良い方です。



 あんまりにも早い時間から飲みだしたものでして、私達は二十時頃には解散した次第でした。彼は酔わない程度に飲むのが美徳と豪語する方でして、素面と大して変わらず、この人は普段から酔っ払っているのではないだろうかと私は一抹、疑問を抱きましたが、口に出す事はせず彼と別れ、帰路へつきました。夜風は生温く、じっとりと私の体に纏わりつくようでして得も知れない不快感に顔を顰めながら、歩き続けていました。街頭に照らされた私を見た近所のご婦人は動揺して散歩させていた犬の尻尾を踏んだりなどと頓狂な事をしておりましたね。まぁ、それも致し方なかったのかも知れません。当時の私は髪を長く伸ばし、生来の面倒くさがりな性格も由来して、ぼさぼさの頭だったのです。それが夏特有の嫌な湿気を含んで膨らみ、また夜風を受けてざんばらと乱れておりましたから、宛ら恐怖映画の心霊、物の怪の類に見えたのでしょう。

「ごめんなさい、すみません」

 と愛想笑いを浮かべてみたら、ご婦人は私だと気づいたようでばつが悪そうにして笑い、犬のリードを引っ張って夜の中へと消えていったのです。別に気にする事もないのに、と私は苦笑いをしていたような記憶があります。

 そろそろ、と足音もなく歩む事ものの三分といった所でしょうか。家へと辿り着いたのです。玄関に立つなり、私は昼間の出来事を思い出し、ぶるっと身震いをしながらも自分の家の前で立ち尽くしていました。これではただの不審者にしか見えないと言い聞かせ、鍵を鍵穴に差したのです。ですが、どうもおかしく鍵穴は厭に軽くてですね、私は鍵を締め忘れたか、不用心だなと一人笑いながら家へと入り、今度は玄関の鍵をきっちりと閉めたのでした。私は靴も揃えず、居間へとまっすぐ入り、ようやく帰ってきたかと不機嫌そうな愛猫の頭を指先でつつくように触れた後、少しアルコールが回って気怠さに苛まれた身体をソファーの上に投げ出して、目を閉じました。暫くすると睡魔が襲ってくる訳ではありませんか。私の天敵である睡魔は、私の意識を何時の間にか食らい尽して、闇へと誘うのでした。



 時刻にして深夜二時頃でありましょうか。草木も眠る丑三つ刻に私は目を覚まし、何の気もなくぼんやり窓から外を眺めておりました。外灯の少ない街は暗く、眠らない二十三区とは大違いだと改めて実感させられながら、静寂に耳を傾けておりました。

 ――かたり、かたり。――かた、かた。と闇の中から物音が一つ、二つ。

 ――ざり、ざり。と身を擦るような物音が一つ、二つ。

 それは何故か私に近づいてきているような気がして、うそ寒い思いを抱きながら私はカーテンを閉めて、居間と廊下の境界となるドアを閉じ、閉鎖された空間の中でその妙な音をやり過ごそうと息を殺したのです。だというのに、それは私の匂いを嗅ぎつけたかのように一つ、また一つと音をたてて近寄り、終いにはずりずりと引き摺るような音まで聞こえ、それは遂にドアの前で止まっては、引っ掻くような音を立てドアノブを回そうとしているのです。それはまるで四つん這いに伏せた人間が、なんとか上体を反らせ、腕を伸ばし、ドアを開けようとしているかのよう。身を打つような音を響かせ、それが私の恐怖を引き立てていくのです。なんとか、ドアが開かないようにと自分の足で突っ張れば、ドアの向こうのそれは察したのか、発狂したようにドアノブを執拗に回し、体重を掛けてきているのか僅かドアが軋むのです。開けてなるものか、と私も歯を食いしばりながらドアに体重を掛ければ、次第にそれはその狂っているかのような、一種の執念すらも感じさせる凶行を止め、辺りは静まり返っていくのでした。不安げに私を見据える愛猫の黒い瞳が少しずつ落ち着きを取り戻させてくれる事に一抹、感謝しながらふとドアから離れた時、ドアのガラスに拳を二つ繋げたくらいの大きさの黒点がべったりと張り付いているのです。それは次第に大きくなり、人の頭程になると私へ目掛けて語るのです。か細く消え入りそうな幼い声で「――さがして」と。

 背筋が凍り付くような悪寒に襲われ、私はその場から動けず、へたり込むばかりでして、なんとも情けない姿ではありましたが、誰でもこうなってしまうと思うのです。目の前に超常の理解を超える物が居て、それが意味ありげな言葉を吐いてきたならば、誰だって恐怖に戦く事でしょう。腰が抜けたまま、立ち上がれない私はその黒点がガラスから離れて、どこかへ立ち去っていくのを見送るばかり。やはり身を擦るような物音をたてて、それは居なくなったのです。



 あの出来事から暫く経って、私はこの出来事を友人に話してみましたが、酔っ払ってたんだろとか、変な夢でも見たんだの一点張りで笑われて終いでした。変な物を見ただとか、ましてやそれが心霊の類だなんて事は信じてもらえそうになく。私はほとほと困ってしまい、家に帰るのも恐ろしくなってしまいました。それでも今すぐに引っ越すような余裕もなく、こうして家に帰り筆を握るしか能はない訳であります。なんとも情けない話です。

 ふと、その日の事を思い出した時、雨が降っていたというのに家に帰る様子のない子供の事を思い出しました。私が濡れ縁から「風邪をひくから家に帰りなさい」と声を掛けあの子です。一度見ただけでしたから、いまいち顔や服装を思い出す事が出来ませんでしたが、何故かあの子の事が気になったのです。あの子が声を発したなら「さがして」というあの厭にか細い声が出てくるのではないだろうか、と思えて仕方がないのです。かれは一体どこにいるというのでしょうか。この家の中に私よりも先に住んでいたというのでしょうか。ただ一人、だれかに見つけてもらえるまで待っていたのでしょうか、寂しく、ひとりで此処に居続けたというのでしょうか。私はそんな事を思うと空恐ろしさよりも寂しさのような、形容し難い感情に突き動かされ、家の中を探ったのです。屋根裏から床下、濡れ縁の下。草だらけの庭。それらを一頻り見回した後、残されたのは一度も開けていない倉庫だけでした。錆び付いた南京錠は開かず、金槌で鍵を打ち壊したのですが、立て付けが悪くなってしまった引き戸はそう簡単に開いてくれず、まるで中を見られたくないと何らかの意思が働き、私を拒んでいるかのようでした。故に私は渾身の力を以てして打ち破り、大きく穴の開いた引き戸へと、身を屈めて入り込んだのでした。中は厭に黴臭く、埃が舞い。そして――床一面になにやら黒ずんだ染みのようなものがあったのです。その中心には山積みにされた黒い年季の入ったごみ袋が一つ、二つと幾つも並べられていて、何やら妙な感じがしたのです。ごみ袋の下に敷かれた新聞紙には昭和五十四年九月五日と記されていて、もしごみ袋が新聞紙と同じ年代の物だったなら、これはかなり昔から此処にあったのでしょう。私は胸騒ぎを覚えましたが、一つだけごみ袋を開けた所、子供の服のような布切れが床と同じくして黒く染まった状態で出てきたのです。ぱらぱらと赤黒い欠片が落ち、それを目で追ったならばその下から、小さな白骨が顔を覗かせたのです。声をあげる勇気もなく、全身に鳥肌が走り、一抹の悪寒に身を侵されながら私はその服をごみ袋に戻し、

「みつけましたよ」

 と、一言だけ短く呟くばかりでした。



 白骨を見つけてからもう五年ばかり経ちましたがね、未だにかれを見てしまった日には、濡れ縁に如何にも子供が好きそうな菓子やジュースなどを供えるのですが、かれは私に姿を見せてくれません。いえ、姿を見たいという訳ではないです、むしろ二度と見せてくれなくて結構です。

 どうにもかれは三十年以上も昔に行方不明になっていた子供らしくてですね、警察曰く、両足を縛り付けられて死んでいたそうです。この事が世間に知られてからは、暫くニュースで取り上げられていましたが、今では綺麗さっぱり忘れ去られてしまったようです。顔も知らない人が十人や、百人死んだところで記憶が薄れていくのが世の常であります。三十年も昔に死んだ一人の子供の事なんて、すぐに忘れられるのが当たり前でしょう。ただ、私だけは忘れられないと思うのです。

 ある物書きは作中の一節に「この世には不思議なことなど何もないのだよ」と記しましたが、私はそんな事はないと思うのです。この世には説明がつかない事が山ほどあり、私が体験したあの晩、あの日の出来事はその一葉にしか過ぎないと思うのです。

 あなたの人生に、説明がつかない事はありませんでしたか? あるのなら、その怪異は貴方に何か伝えたかったのかも知れませんね。無かったのならそれはとてもいい事です。なんせ心底恐ろしいですからね。ただ、私は――。



 今でもあの子の不憫を思えば、居た堪れないのです。

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