第10話
「それじゃあ終着駅には行けないな」
声がした。少女の丸めた背中のすぐ後ろで声がした。
思い出になった声。思い出せる声。少女が覚えている声。……忘れない、声。
「あなたッ……!」
わかっている。振り返るより早く思い出せる。死んで、骨になり、粉になった、黒い衣装を纏った青年だ。
思い描いた存在と同じ存在が立っていた。
「やっぱり、あなたいたのね。どこかで見ていたのでしょう?」
「見てたよ。ずっと」
「私で何人目?」
「………」
「いいの。そんなことはどうでもいいわ。あなたがいてくれて、本当によかった」
少女は俯いた。足許に眼を遣り、青年の顔にまた視線を戻した。
「本当によ。どれだけよかったと思っているか、わかる?」
「………」
「あのね、この夜の空すっかり昼間に変えられそう! ……って思うぐらい、よかったって思ってるの」
言って、少女はやにわに青年の手をとった。
「ちゃんと確かめないとね。幻ということもあるから」
「幻かも知れないぞ」
「そうかも知れないわね。でも、それでもいいと思うわ。……多分。こんなにはっきりとしていて言葉を話す幻なら……淋しくないでしょう」
出て行くものが変わったと少女は思っている。すっかり出ていってしまったらどうなるのだろう。からっぽになる。からっぽになれば、それはとてつもなく〈無〉で、〈孤独〉な空間だと思っていたのかもしれない。だが〈無〉になってしまった所から新しく出て行くものは、とても清々しい。
「君の手は温かいな。俺の手は冷た過ぎる」
少女はその青年の瞳が哀しげだと思う。
「私走ったのよ。……あのね、ここはとても便利なのよ。一方方向にどこまででも走れるわ。障害物もないし、決まって同じ地点に戻ってくるから、戻らなくていいの」
「改札口のことかい?」
「そうよ」
「永遠に出られないということだぞ」
「いいじゃない。出られないように仕組んである所をみすみす出て行たって、いいことないわよ」
「永遠にここに留まる気か?」
「幻と一緒なら飽きないかも……。けど、断定はしないわ。でもいずれ飽きたとしても、後悔はしない……たぶん」
笑う。少女はなんとなく笑いたいと思っている。その思いは既に笑顔になっていた。
「……もういい」
「え?」
「手だよ。君の手が冷えるだろ」
「私の手が冷えることはないわ。あなたの手が私の手の熱を奪ってゆくのよ。ちょうど同じ温かさになるんだわ」
青年は黙って俯いたままで、暫く少女に両手を握られていた。
「少しは温かくなったでしょう」
少女は青年の両手を掴んだ指を解いた。
「……ああ」
青年の存在が戻った。ただそれだけ。後は何も変わりはしなかった。改札口はやはり抜けれない。永遠の夜空の下に捕らわれて、終着駅から外には出られない。その全ては一切変わらない。
「ずっとこうしていたの? 誰もいないのに、淋しくはないの?」
少女はベンチにのけぞり、頭の後ろで指を組んだ。
「淋しい……か」
青年がホームの柱に凭れて言う。少女の位置から見る青年は、横顔で、鼻で笑ったのがわかった。
「おかしい?」
「君には無理だと言ったろう。時間の抱擁とは、決して優しくないんだ」
「そうね。……こんなに短い時間なのに、私はとても耐えれそうになかったわ」
また青年は笑った。視線を下げて哀しげに。
「私ね、ずっと探してる物があったんだと思うわ。なかなかそれは見つからなくて、すっかり諦めたような気がする。……だって、諦めるって、とっても強いことだと思わない? まるで希望を捨ててしまうのよ? 本当は欲しくてたまらないものでも、いらないって言って捨てちゃうのよ。尋常じゃなくて、生易しいことでもないの。それができると思っていたの。だから、そんなもの探さなくたって、見つけられなくたって平気って、思ってた」
夜の中に白く浮き立つような青年の姿を、今改めて美しいと少女は思う。それは人形でないということでもある。眼には見えない時間の中で存在する一人として美しい。少女の記憶に様々な姿で残る者として美しい。少女の知らない言葉を話す人間として美しい。
「饒舌だな……君は」
「だって! あなた哀しげだもの……」
少女はハッとする。哀しげだから、何なのだろう。哀しませないように、とでも思ったのだろうか。そんな無意味なことを……
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