第7話

 少女はベンチの上で膝を抱き背中を丸めている。視線は何処にも向いていない。あえて言うなら、少女は自分の中に向いている。

 待っても、待っても、声は起こらなかった。時間さえわからない。あまりにも一人で、何も感じなくなる。

 過去に存在があるとするなら、僅かでも意味があるとするなら、それは柱に凭れているモノだけ。

 可能性があるとするなら──


 時間の抱擁? それは優しいものだろうか。

 少女は亡骸なきがらの前に腰をおろす。

「言葉なんて……必要なくなっちゃうわよ」

 もしかして、最後の声で、最後の言葉かも知れないと思う。

 心で、自分だけにしか聞こえない声で話す。 

 ──まだ、あなたはいるのよ。質が悪いわ。そうやって自分一人で楽しんでるのよ。見えているのよね。あなたにだけ。

 ──私、まるで道化。あなたの暇つぶし。そうはさせないからね。私、何もしないし、言わないし、考えないから。あなたが根負けするまでこうやってじっとしとくの。

 確実に過ぎて行く時間。


 根負けしたのは少女だった。

 何度も俯仰ふぎょうを繰り返した。何も起こりそうな兆しはない。時間の感覚も完全に麻痺した。

 少女は髪をくしゃりとかき上げる。最初は軽く、片手で。段々と、やるせなさと憤りを表現するように、両手で荒々しく頭部をかきむしる。

 息が荒い。

 少女はたまりかねて、首を垂らした青年の亡骸ににじり寄った。

 白い顔がすぐ近くにある。もうすっかり眺め飽きてしまっている。

 心許なげに、かつて青年だった人形の頰に指を伸ばしてみる。

 指先が震えている。

「……ッ!」

 白い頬に指が触れ、少女は痛みを感じて咄嗟に手を引き戻した。

 あまりにも冷たすぎる。氷よりも冷たい。肌に刻まれるような冷気。

 少女は慌てて身を引き、立ち上がる。

 ──こんなの人形じゃない!

『そう、人形じゃない。俺から君に言うよ。サヨナラを』

 それはとても短い響きだった。声ではなかった。少女の内で鳴った鈴の音。イメージ。

 一瞬で永遠を知らしめる力のような、波。

 風の流れがにわかに早くなる。

 カタッ、という小さな音に、少女の視線が亡骸に向く。

 メスが独りでに抜け落ちたのだ。

 少女は目を見張る。

 変わってゆく。神の御手で彫刻されたような美しい顔立ちに、いく筋もの亀裂が走る。それは深い皺になる。青年の姿が、みるみる細くなってゆく。真珠さながらの白い肌が、浅黒く変色してゆく。髪が伸びてくる──そう見えたのは肉が殺ぎ落ちてしまった為だ──皮だけで覆われた眼球の形が露になる。青年の形を留めた人形、などと生易しいことを言っている場合じゃない。見るに堪えない。百年の時間が刹那のうちに駆け抜けたような、おぞましい形相だ。

 少女が目を離す間もないうちに、青年の魂の抜け殻は枯れ枝かと見紛う程に、憐れな姿に変貌してしまった。

 少女はまばたきもできない。瞳が乾き切って痛みさえ感じるのに。

「やめ……てよ……もう、いい……」

 声が震えている。

 目を覆おうとしているのに、その両手は頬のところでわなわなと揺れているばかり。力が出ない。立っていることも適わない。

 変貌はまだ終わらないのだ。

 完全に骨になる過程を少女は目撃することになる。

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