回覧板を届けにとなりの異世界まで
赤井ケイト
ふたつの故郷
第1話
「常識的に考えて、どちらのクライアントを優先させるか分かるでしょ」
はい、申し訳ございません。
「足を動かすのが営業って言っても、もう少し頭も動くようにならないかな」
はい、申し訳ございません。
「先輩たちが休日返上で出社してるのに、病欠したいとかどういう神経してるんだ?」
はい、申し訳ございません……
着けていないはずのネクタイが、喉に食い込む感触が蘇る。
耐えていれば続けられるはずの生活のなか、耐える意味もわからなくなった。
自分のすべてに評価が下されることに疲れてしまった。
『なんのために僕は頑張っていたのかな』
ガタンッ!
狭いダッシュボードに置かれた回覧板が跳ね上がった。
刹那のあいだ仄暗い過去に浸っていたことに気付き、
目的地に続く道は舗装されておらず、運転している軽トラックは車高も高いのでよく跳ねる。
「……ユウくん、ここはもう少しゆっくり走ろうよ。うしろの荷物が潰れちゃう」
助手席に座るフィオナが抗議する。
色艶の良い彼女の茶色い髪が、頭の上に生えた耳と一緒に、柔らかそうに揺れた。
彼女の耳はいつも垂れており、それが子犬のようで可愛い。
「ごめん。まだ運転に慣れてなくて」
3速から2速にギヤを落とす。
ここ数週間でようやくスムーズにクラッチ操作できるようになっていた。
エンストなど格好悪いところを見せたくない。
特にフィオナの前では。
「
ピスピス、と鼻を鳴らしてフィオナは笑ってみせた。
「ユウくんに乗せてもらって本当に助かったわ。自転車だとフォレストンまで荷物が重いから」
フィオナが乗ってきた赤い自転車は荷台に載せられている。
裕太の実家である酒屋まで、彼女は自転車で買い物をしに来たのだ。
酒屋にはわずかながら食料品も並べられており、彼女は自分のお店で使う食材を買いに来ていたのだった。
「回覧板も周ってきてたし、僕も配達の仕事があったから丁度良かったよ。
――フィオナ、もしかして座席が窮屈?」
彼女は座席から少し体を捻って、腰を少し背もたれから離すように座っていた。
「ああ、うん。私ほら、尻尾があるから。深く座るとお尻が窮屈になっちゃうの」
言うとフィオナは、白い毛並みが美しい尻尾を少しだけ振ってみせた。
毎朝ブラッシングを欠かさない彼女自慢の長い尻尾が、今はくるりと膝の上にのせられている。
「そっか」
さり気なく彼女を見ると、目に飛び込んできたのはベルトが食い込んだ彼女のふくよかな胸だった。裕太は視線を前に戻す。
「――なんか、ごめん」
「うん?そこまで狭くないから平気だよ」
裕太は少しの罪悪感に苛まれたが、気を取り直して運転に集中することにした。
舗装されていない坂道を登りきると、裕太が暮らす
一見しただけでその集落は小さいことがわかる。
家のほかには田畑が広がっており、日本の田舎としてはテレビなどでよく見るような風景だった。少なくとも裕太自身はそう思っている。
軽トラックは神社の前を通り過ぎ、側道に入っていく。里山の頂上へ続く道である。
ただし、裕太たちの目的地は山の頂上ではない。
「そろそろ『
フィオナに言われると、裕太はGパンの左ポケットを軽く叩いてみせた。
「もちろん。この間、これを忘れて怖い目にあったばかりなんだ」
「ダメだよ。このお守り忘れると、向こうの森の虫がわんさか寄って来るんだから」
耳を立てながらフィオナは言う。
そんな彼女に裕太は苦笑いを返した。
杉林が続く山道のなかに白いアーチが見えてきた。
白樺に似た真っ白な木が道の両脇に立ち、どちらの木も高い位置にある太い枝が、道の中心に向かって伸びている。二本の白い枝が道の真上で重なり合い、ひとつのアーチとなっているのだ。
二本の木の幹周りは二メートル、高さが十メートル程はあるだろうか。
連ね木と呼ばれるそのアーチの下を、軽トラックはゆっくりと進んだ。
するとアーチの中の空間が、水面のように波紋を立てた。
小さな波は虹色の光沢を放って広がり、アーチの枠に当たって跳ね返る。
同じような現象は車内でも起こっていた。
その水面に触れるとき裕太はいつも、服を着たまま水に濡れた感触を思い出す。
冷たくて、でも心地の良い感触。
それは一瞬で過ぎ去り、次に目に飛び込む風景は先程とはまったく変わっていた。
見慣れている田舎果村の杉林は消え、代わりに広葉樹の森が現れる。
いずれの樹木も幹が太く、この森が古くからあることを思わせる。
樹木をかき分けるようにして、土がむき出しになった道が続く。
森が開けると、高い青空が広がっていた。
地平線に目をやると、ここからでも見えるほど巨大な木がそびえている。
雲と同じ高さに枝葉を広げるその巨大な木は、ここでは神の住まう場所として崇められていた。
そこから隣に目をやると、昼間に見える白い月がふたつ、寄り添うように浮かんでいる。
そして大地には、田舎果村とはまったく違う集落があった。
鋭角な屋根に煙突が立ち、灰色をしたレンガの壁の家が並んでいる。
遠くでは風車が気持ちよさそうに回り、小麦畑が穂を揺らし、牧草地には牛が群れを作っている。
ここはフィオナの住むフォレストン村。
場所はマルセシル王国の東の果て。
彼女のような獣人族や、エルフ族などが暮らしている。
フォレストン村は異世界にある、田舎果のとなり村だった。
フィオナの家はフォレストンの東端、連ね木から近い場所にある。
田舎果村から来て最初に目にする民家が彼女の家だった。
赤い屋根からは煙突が伸び、二階には小さなベランダ。
白いレンガの壁には四角形や円形の窓が並ぶ。
家はまるで、絵本の中から出てきたかのように可愛らしい建物だった。
彼女はここで暮らしながらカフェを営んでいる。
この辺りでフィオナの店といえば、誰でも知っている憩いの場だった。
軽トラックをフィオナの家の前で停めると、裕太は幌付きの荷台から彼女の自転車と荷物を降ろし始める。
段ボール箱の荷物には、彼女が今日のランチメニューとして使う食材などが入っていた。
箱を持ち上げながら、フィオナは裕太を振り向く。
「ありがとうユウくん。少し寄っていかない?バーニャさんから美味しいお茶をいただいたの」
彼女の自転車を引きながら裕太は少し考え、申し訳なさそうに応える。
「ごめん、まだ配達が終わってないから」
「あ……そうだよね。ユウくんはお仕事の途中でした」
彼女の尻尾がうなだれているのに気づき、裕太はしまったと思った。
とくに犬の獣人に多いのだが、表情や言葉よりも正直に、尻尾に感情が現れてしまう。
口で話して尻尾を見よ、とはこの異世界の
「――フィオナ、今日のランチメニューはなんだったかな」
「えっと。揚げナスとベーコンのパスタ、マルセシル産トマトソースのパスタ。それから……スモークチキンのサンド。どれもサラダとスープをつけるわ」
「揚げナス!僕、揚げナスが好きなんだ。あとでお昼を食べに寄らせてもらうよ」
思ってもみない裕太の言葉に、フィオナの尻尾がパタパタと動き出した。
「それじゃあ!ランチタイムは十二時。メニューは数に限りがあるから早く来てね。
上機嫌で話すフィオナを見て裕太も頬がほころぶ。
「腕によりをかけて待ってるわね。ユウくんもお仕事がんばって!」
彼女の元気をくれる言葉に、片手をあげて応える。
『なんとしてもランチに間に合うようにしなければ』
そのために裕太は、もっとも気の重い配達場所へ、先に向かうことにした。
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