ネロ・バリスタ

服部匠

ネロ・バリスタ(前編)

「『異次元からの侵略者が現れるとき、これをもって立ち向かうべし』ですか。やっと訳せました」

 アフリカ某国の、とある密林地帯。

 昆虫によく似た異形の生物と、それに立ち向かう不思議な衣装の人物、そして絵の説明らしき文章が描かれた壁画の前。一人の日本人の青年が、興味深げな顔でそれを眺めていた。

 彼の名前は、荒尾薫。遠路はるばる調査にやってきた若手の考古学者だ。

「異次元、侵略者……不穏な言葉ばかりです。なぜ、こんな魅力的な場所が今まで発見されなかったのか……その前に、地元住民がなぜここの存在を知らなかったのか。謎ばかり、です」

 期待でうわずったひとりごとが、静かな遺跡の中に響く。

 壁画に記された言葉や絵、存在とこの遺跡は謎だらけだ。しかし、地元の住人でさえ知らなかったこの遺跡に、なぜ彼はたどり着いたのだろうか?

 壁画のある通路へ進むと、少し広い部屋に出た。部屋の中央には台座が備え付けられ、そこには四角い石箱が置かれていた。

「これは……?」

 彼は吸い寄せられるように台座に近付き、箱のふたを開けた。ためらいはなかった。それは、この場所に「行こう」と決めたときと同じだった。

 ある日眺めていた世界地図の中で、どうしても気になる場所があった。それが今彼がいる国であり、この遺跡であった。

 ――そう、彼がこの遺跡を見つけたのは、「直感」という非現実的な方法だったのだ。

(今思えば、直感というよりは、抗えない力に導かれてここまで来た……というほうが正しいのかもしれない)

 彼は期待に胸を膨らませ、箱の中をのぞき込んだ。中には、土塊のこん棒のようなものが一本、入っていた。先端には平べったい円筒が付いていて、一体どういう道具なのか、一見しただけは分からなかった。

「……まさか、これで『立ち向かうべし』ですか?」

 思わず気の抜けた声が出た。

 仮にこん棒だったとしても、相手は『異次元』からの『侵略者』である。これを残した人物は、相当の豪傑だったということか。

 こん棒になにか秘密があるのだろうかと手に取った瞬間、手の中にころん、となにかが落ちた。

「おや?」

 それは真っ赤な実だった。つやつやとしたその姿は、アフリカという土地柄かコーヒーの実――コーヒーチェリーにも似ていた。

 彼はその実をじっと見つめた。禍々しいほどに赤いそれを見つめていると、とたんにのどの渇きを覚えた。思えば遺跡に入って半日、興奮で水分以外はなにも口にしていなかった。

 遺跡にあったはずの実はみずみずしさにあふれ、彼は居ても立っても居られなくなって――実を口にした。

「!?」

 かんだ瞬間に広がるのは、えも言えぬ甘味。体を溶かされるほどの甘みと、今まで感じたことのない酸味の爽やかさが彼の全身を駆け抜けた。

 多幸感に酔いしれる彼は、そのまま実の中心にある硬い種をかじる。その瞬間、今度は体が燃えるように熱くなった。

「あっ……あっ!?」

 急激な体の変化に、彼はその場に膝をつく。苦しさの中、自分の体が比喩表現ではなく本当に燃えていることに気が付いた。

「――!」

 気づいた瞬間、彼は声を上げることもできず、その場に倒れた。

 遺跡の中には、なぜかローストしたコーヒーの香りが漂っていた……。


 ***


 良く晴れた日の、午前九時。革帯市かわおびしの歓楽街にあるコーヒーショップ『イマジンビーンズ』店内。

「こりゃー、事件に新展開だねえ」

 カウンターに座る常連の老人、ショーがつぶやいた。彼の手元にあるのは、吸いかけのたばこと、『革帯市の連続通り魔事件、謎の怪物が犯人か!?』という見出しのスポーツ新聞。

「あら、なにが新展開なんですか?」

 カウンターの中に立つ店員、鐘洞かねほらくるみは、エスプレッソマシンでミルクを泡立てている最中だったが、ショーの言葉に思わず顔を上げた。

「ほら、あの連続通り魔事件だよ、カネちゃーん」

 ショーはしゃがれてはいるが愛嬌のある声音で、鐘洞のことを「カネちゃん」と愛称で呼ぶ。

 鐘洞はミルクピッチャーをくるくると回すと――泡を均一にさせているのだ――今度は真剣な手つきで、エスプレッソの入ったカップにミルクをゆっくりと注いでいく。

 カチ、カチ、とカップのフチにミルクピッチャーがぶつかる音だけが響く中、ショーは好々爺の微笑を浮かべ、鐘洞の様子を眺めていた。

「いやだわショーさん。そんなマンガか小説みたいな。っていうかそれ、スポーツ新聞じゃないですか。はい、ご注文のカプチーノです」

 ミルクを注ぎ終わった鐘洞は、出来立てのカプチーノをショーに差し出した。ツヤのあるフォームドミルクがフチのぎりぎりまで盛られ、泡できれいなハート型が描かれている。

 見事なラテ・アートに、ショーの目尻が下がる。

「おっ、ありがとありがと。いつもながら美味そうだなぁ」

 ショーはカップに口を付け、カプチーノをすする。唇の上にミルクの泡を付けた無邪気な様子に、鐘洞はくすりと笑って「ショーさん、お口にミルクが」とささやく。ショーはこほんと小さな咳払いをした後、照れくさそうにナプキンで泡を拭った。 

「でも、怪物だなんて非現実的だと思いますっ。おおかた、ヘンなかぶりものでもしてふざけてるんですよ。まったく、バカバカしい!」

 二週間前から、世間を騒がしている連続通り魔事件。殺人までは至らないものの、軽傷から重傷まで被害は広い。しかし目撃情報が「虫のような頭をした怪物」や「キチキチと鳴く怪物」といったあまりにも非現実的なものが続いているため、捜査は難航しているらしかった。

「ま、カネちゃんも夜道は気をつけなよぉ。そうだ、誰かに一緒に帰ってもらえばいいんじゃないか、たとえば……荒尾あらびくん、とかさぁ」

 含みのあるショーの言葉に、鐘洞は眉を思い切りひそめる。

「荒尾くん? そんなの論外です! 頼りになんかならない……」

「おはよーございますう」

 間延びした声が聞こえる。スタッフルームから姿を現したのは、一人の青年だった。野暮ったい太いフレームのメガネに、目が隠れるほどに長い前髪、直す気などこれっぽっちもなさそうな、ひどい猫背の青年だった。

 清潔感の必要な飲食店の店員としては、やや不合格に近い見た目の彼は、あくびを殺しながら、カウンター内にふらふらと入り込む。

「お、おはよう、荒尾くん……」

「おー、荒尾くんおはようおはよう。おい知ってるか、最近怪物がほっつき歩いてるんだってよぉ」

「怪物? ああ、あの通り魔事件ですかね。へへへ、実は僕もネットニュースで読みましたっと……うわああっ!」

 青年――荒尾あらびかおるは、だらしない笑みを浮かべた瞬間、足元に置かれた未整理の荷物に足をつまづかせ、転んだ。

 どんがらがっしゃーん。コントかなにかのように派手に転んだ荒尾に、二人は目を丸くする。

 ショーは楽しげにくつくつと笑いを漏らしたが、鐘洞は冷たい視線を荒尾に投げかけていた。

「……出勤したら毎回毎回毎回転ばないと気が済まないのかしら、あなたは」

「いや、あの、そのっ! そういう訳ではっ!」

 冷たい鐘洞の声に、荒尾は勢いよく立ち上がり、弁解する。しかし、鐘洞の表情は変わることはない。

「カネちゃん落ち着いてくれよぉ、せっかくのかわいい顔が台無しだよぉ」

「もう少し足元を注意しなさいって、何度言ったら分かるのっ!」

 ショーのフォローも無視し、カッ、と大きく目を見開き、怒りに眉をつり上げる鐘洞。荒尾はヒッ、と小さな悲鳴を上げた。

「すすすすみませんっ、ぼ、ぼ、僕、在庫の豆取ってきまーす!」

 鬼のような鐘洞におびえた荒尾は、逃げるようにして後ずさり、またスタッフルームへと消えていった。

「逃げたわね! あのダメ店員!」

「あ~あ、カネちゃんは後輩に厳しいねえ」

「荒尾くんはもう、ドジだし、格好もあんなのだし、ラテも……まあ、その、あれだけは、まあまあだけど……どうしてマスターが彼を雇ってるのか! 私には分からないですっ」

「言いたい放題だね。後輩育てるのも先輩の役目だよぉ?」

「うっ、そりゃそうですけど……」

 ショーの言葉に言いよどむ鐘洞。すると入り口のベルが鳴り、客が入ってきた。 鐘洞は助けに船といった様子で、表情を一転させた。

 笑顔でいらっしゃいませと客を出迎え、流れるような動作で席まで案内する。笑顔のままスタッフルームのドアの前に行き、逃げた後輩の呼び出しにかかった。

「荒尾くんっ! お客様よっ! 出てきなさい!」

 マスターは用事で外出中だ。帰ってくるまでは、嫌でも荒尾とこの店を回さなければならない。こぢんまりとした店だが、それでも混雑時には三人でも忙しいほど。たとえ半人前の荒尾であっても、この店では貴重な戦力だ。

「荒尾くん、早くっ!」

「っはいっ、はいっ、ただいま!」

「遅いわ――あぶしっ!?」

 ばあん! と派手に開けられた扉が、鐘洞の顔面に勢いよくぶつかった。

「先輩? あれ? どこにいるんですかー?」

 ぶつけた本人は心底不思議そうな顔で辺りを見回し――やがて、ドアの向こう側で、怒りに震える鐘洞の姿を見つけた瞬間、表情を固まらせた。

「あ・ら・びくーーーんっ!」

「ひええええええ申し訳ありませんんんっっ!!」

 顔面蒼白の荒尾は、ただただ謝るだけであった。




「はあ……疲れた」

 夜。鐘洞は帰路で、盛大なため息をついていた。

 今日もさんざんだった。主に荒尾がいろいろとくれたおかげだ。皿やカップを割るのはお手のものだし、オーダーミスも頻発。

 極めつけは、あまりに慌てたのかエスプレッソの粉を詰めたホルダーを足に落としたことだ。思い出すと、彼の「ぎゃー」という間の抜けた悲鳴が鐘洞の脳内でリフレインして、頭が痛くなった。

 鐘洞のストレスはハンパなく、お客さんから見えないところで荒尾にカミナリを落とす、落とす、また落とす――の繰り返し。

 ――一カ月前、マスターの知人からの紹介でこの店に来た荒尾。一応考古学者らしく、世界中を転々としていたと聞く。帰国し、生活費のためにアルバイトでこの店に入ることになった……のだが。

 初めて顔合わせをしたとき、ヘラヘラと子供のように笑う彼に仕事ができるのだろうかと、とても不安になったことを思い出した。

「フォローするこっちの苦労も分かってよー……」

 しかし素直で腰が低いことや、若いからか常連のおばちゃんにアイドル扱いされているし、子供の面倒をみるのもうまい。おじいちゃんやおばあちゃんからは、ほっとけないからなのか、孫のような扱いさえ受けている。

 いささか不安な立ち回りはともかく、知識と技術の飲み込みは早いし、何よりも一所懸命な所は、好感が持てる青年ではある。

 取り立てて美青年とは言えないが、笑うと人なつっこい、愛嬌のある荒尾の顔を思い浮かべる。

(なんだか、あの顔見てると実家で飼ってるゴールみたい)

 鐘洞は実家の飼い犬・ゴール(ゴールデンレトリバーの♂)を思い出した。

(頭をなでると、さらに身を寄せてくるような愛らしさ……って、犬に例えてどーすんのよ、私)

 はあ、と二度目のため息が夜の空気に溶ける。

 とにもかくにも、苦労するのは変わらない、と結論づけて、鐘洞が足を早めたそのときだった。

 キチキチキチキチ、と、なにかが弾けるような、虫の鳴き声のような音が聞こえてきたのだ。

 周りにそびえる街灯の音かと思ったが、再び耳を澄ませても、そんな音はしない。

(……気のせいかな)

 歩みを進めるうち、鐘洞は、曲がるべきはずの道をそのまま真っすぐ進んでしまった。

(あっ、やだ、さっきのところで曲がるのうっかり忘れた)

 きびすを返した瞬間、鐘洞の前にだれかが現れた。

「あっ、すみませ……」

 目の前の人影を見た瞬間、鐘洞は言葉を失った。鐘洞の前にたたずむ人影は、かろうじて人の形をしていたが、見るからに怪物と分かる、異形の姿――例えるならば、触覚がグロテスクな昆虫が、人間の形に進化したような姿だったからだ。

 二本の触覚が揺れる。

 口元のようなところから、キチキチキチキチ、と耳障りな音が聞こえてくる。

 禍々しい雰囲気が漂っている。

 紅い光を帯びた目が、鐘洞をギロリとにらんだ。

 ――ショーの話が頭によぎる。世間を騒がせる通り魔、謎の怪物。全身が凍り付くような恐怖が鐘洞を支配していた。 

「あ……あ……」

 逃げなければ。頭の中にそう浮かんでいるのに、足がすくんで動かない。

 怪物がキシャアアアアッ、と叫び声を上げ、腕を振り上げた。振りおろされると同時に、鐘洞は目をつむる。もうだめだ! そう思った刹那だった。

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