林檎の輪

遠名しとう

林檎の輪

真っ白になった肺が、この期に及んでまだ息をしようとしている。


「もういいかい?」

「まーだ、だよ」


不自然ばかりが充満するこの部屋に、私はもうこれ以上居るわけにはいかなかった。


「ねぇ、どうして泣いているの?」

「どうしてって……」


ボロボロになった唇を八の字にして、彼は赤い林檎に手を伸ばす。

そうして慣れた手つきで皮を剥いて、兎の林檎を卵色のボウルに盛り付ける。

私はそれをなるべく小さく咀嚼して、喜ぶ振りをする。そうすれば彼の口角が不器用に上がるからだ。


「あと少しだから。まだ、だよ」


そう言って彼は薄氷を触るように私の手を握る。

彼が言う「あと少し」が無いことを私は知っていた。いや、知っていたというよりは感じていたに近い。


「あと少しね、頑張るわ」


実際は頑張ろうとはしていない。もう今すぐにでも呼吸すら止めたいのだ。


「私、神の足として生きていくわ」 「そんな悲しいこと言わないでよ」

「じゃあ私のくるぶしにキスをして」

「……」


こうして彼を困らせることが、最近の私の唯一の娯楽だった。本当に質が悪いと自分でも思う。

困った顔をして彼は私の不完全を見つめる。


「そういうこと、もうやめよう?」

「ごめんなさい。今のは忘れて」


水縹色のドレスがすっかり様になってしまった私は、週に3日、何故か会いに来てくれる彼とこうして話をしている。彼自身も仕事が忙しいだろうに、欠かさず話に来てくれることは、私にとって幸福と言うほかに無かった。


「今度何か買ってきて欲しい物とかある?」

「そうね、神の足が欲しいわ」

「だからさ……」

「冗談よ」

「笑えないよ……」

「いつも通り、林檎でいいわ」

「わかったよ。じゃあまた来るから」


ぎこちないスーツの後ろ姿と、振り向いて手を振るこの7秒間に、いつしか私は恋をしていた。






8月も終わりを迎える頃。

彼はまたこの部屋に来て、兎の林檎を差し出した。


「3日ぶりだね」

「そうね。林檎、美味しい」

「それは良かった」


今日の私は機嫌もよく、いつものちょっとした悪意も湧いてこなかったため、彼もなんだかリラックスしているように見えた。


「今日も会社の人に怒られちゃったよ」

「こんなに早く退社するからよ」

「……だってさぁ」


なよやかな彼の態度に急に腹が立った私は、結局、いつものように困らせてやろうと少しばかり眉を鼻に寄せた後、わかりやすい声色で

「嫌ならもう来なくて良い」と言い放った。

これが案外効いたのか、彼は汚れた靴先を暫く見つめて、壊れた玩具のようにただ謝ることしかしなくなった。

なんだかまた悪いことをしてしまったと思うのと同時に、羨ましいと感じていた。汚れた靴先が美しいと思ってしまったからだ。

せめてもの慰めのつもりで私は


「そうして汚れているのも素敵よ」


そう告げると、彼は悲しそうに「ありがとう」と一言吐いて、5秒もせずに部屋を出ていった。






それから彼が来なくなって1週間が経った。私は多少心配はしたものの、仕事が忙しいのだと繰り返し自分に言い聞かせていた。

彼が来ない間に湧きだした、この空腹に似たナニカを満たすために、ちっぽけな私が出来た対処法は散歩をすること。ただそれだけだった。今日も呼ぶと直ぐに現れた看護師だったが、いつもの笑顔は見せずに何故か困った顔をした後、チェックのブランケットで私の未完成をすっぽりと覆った。

私はこの姿が醜くて嫌いだった。

機械仕掛けの揺りかごに乗り、私はきいきいと音を立てて辺りを彷徨う。

遠くで聞こえるテレビの音。

嗄れた声で話すおじさん。

謝罪する淑やかな声。

愚図る子供に折り鶴をプレゼントして、喜ぶ姿に目を細めるお婆さん。

そんな光景がとても微笑ましかった。


良い気分転換になったと上機嫌な私は部屋に戻ることにし、番号も見ずに車輪を回し入れる。

しかし、いつもと違う視線と香りに自室とは違う部屋に入ってしまったことに気づくと、直ぐに私は蚊の鳴くような声で「すみません」と頭を下げ、戻ろうと目線を上げた。するとそこには、ぐっしょり濡れたハンカチを持った恐らく50過ぎであろう夫婦と、その娘らしき腫れた目の少女。中心には棒のように横たわった彼がいた。

見知らぬ女性はその場で固まっている私に気がつくと、ややくぐもった声で馴れ馴れしく、


「やっと来れたのね……。聞いていると思うけれど、これを息子があなたにって」


そう言って私に静かに近づき、湿った右手で銀の輪を手渡してきた。


全く意味がわからなかった。


なのに何故か涙が止まらなくなった私は、音のない声で

「ありがとうございます」とゆっくり彼女にお辞儀をした後、自室へと戻った。


私は溶けきった脳のままベッドに身を投げて、彼が残した銀の輪を左手薬指に嵌めた。

そうして直ぐに、冷蔵庫の裏に隠して

おいた果物ナイフで自分の鼠径部そけいぶを左右交互に目一杯突き刺すのを

何度も何度も何度も何度も。

何度も何度も何度も何度も。

息を殺して繰り返した。

警告音が遠ざかる。


「私、知っていたわ。あなたが私を不完全にしたこと。それでも愛しているわ」


透明な一本線で目尻と枕が繋がった瞬間、私は静かに呼吸を止めた。

深海となった部屋の中で、林檎の輪だけが哀しく光っていた。

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林檎の輪 遠名しとう @too14

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