第4話 冷たいココア

それはきっと恋だった。

あの人を思うと心がふわっとあたたまり、隣に立って歩きたい、同じ景色を見ていたい、手をつないでみたい、目と目を合わせてみたい、そんなやわらかな願いで満ちた日。

それはきっと恋だった。


だから思う。

私がなくしたのは、そんなふわふわしたもの。形はなくて、ただなんとなく温かい、心地の良いもの。

だって、手に入れたはずのないあの人を、失うことなんてないから。

手に入れたはずのないぬくもりは、なくしたのではなくもともとこの手になかっただけだから。

私がなくしたもの、それはきっと恋だ。


2人で行ったカフェに今、1人で座っている。

一緒に頼んだアイスココアは甘くてどこか温かかったのに、今1人で飲むホットココアはホットのくせに冷たくて。

八つ当たりのように生クリームをかき混ぜれば、甘やかな白が苦い茶色へと消えていく。

甘いはずのココアが、苦しいくらいに苦い。

この苦味に、いつか慣れる日が来るのだろうか。

1人で飲むココアがこんなに冷たくて苦いなんて、これまでの私は知らなかった。


大好きな人がいて、離れていても心が繋がっていると信じていた日々。

その温度は、切なくなるほど私を甘やかす。

しかしそれを失ってしまえば、外はもうこんなに寒い。そんなことさえ、今の今まで忘れていた。

どれくらい私は、この恋に自分自身を捧げてきたのだろう。

自分が1人の生き物であること。

自分の人生を生きる一つの命であるということ。

そんなことも分からなくなるなんて、恋の魔力は計り知れない。

情けなくなるくらい、今独りでいる私は無防備だ。

私の周りにはもう何もない。

自分自身ですら、空っぽであると思えてくるほどに。


まだ2人が付き合って間がない頃、夜の道をゆっくり歩きながらいろいろな話をした。

これまで過ごしてきたそれぞれの人生とか、将来の夢とか。

別の人生を歩んできた2人の人間が、近づき理解し共にこれからを歩むため、飽きることなく話をして。

たぶんこれからもこうやって過ごしていくんだろう、なんてなんの根拠もなくそんなこと思って。

ただ手をつないで歩く時間が、何物にも代えられない大切なものだった。

そして歩き疲れてなんとなく入ったこのカフェで、頼んだのがアイスココア。

一口飲むとほどよく甘くて、歩いた疲れなんて一瞬で飛んでいった。 

優しかった日の思い出。

なくしてしまえば、ただツラい思い出でしかないけれど。


なくした恋は、3年ほど2人で温めていたモノだったから、なくしかけていると知ったときはかなりショックだった。

完全に失う前になんとかしようとあがいて、願って縋り付いてつなぎ止めようとして。


なんて無様。


私が大好きだったあの人は、やさしくて暖かい人だったけれど、恋を失う前にはそれはそれは冷ややかに私を見ていた。

気持ちが離れていくというのは、残酷なことだ。

2人の間にどんどん距離が開いていくのが見える。目に見えて分かるほどの隔たりが生まれている。

それでも、温かかったあの頃の残像だけが、私をあの人へと執着させる。 

2人が同じように恋をして、手を取り合ったあの頃のように、また再び温め合えると無理矢理信じ込んで。

そんな私に対して、あくまであの人は冷静だった。冷静に、過去の女である私をいいように扱った。

そして、それを私は受け入れた。

それも一つの愛の形だと言い聞かせて。


ああ、なんて無様。


ポロリと雫が落ちる。

全くもって無意識のまま、冷たいココアに涙が落ちて混ざっていく。

重く沈んでいく涙をぼんやりとした視界で見送って、ああ泣いてるんだ、と思った。

哀しいとか寂しいとか、そんな言葉じゃ表せない感情が全身に渦巻いている。

1番近い言葉でいうなら、それは「空っぽ」で。

空っぽから涙が出るなんて予想外すぎて、少し呆れた。それでも涙は次から次へと溢れてきて、どんどんココアを薄めていく。

しょっぱいココアなんて、隠し味にもなりやしない。

でも、決壊した涙腺はいうことを聞かなくて。

ダラダラ涙を流す私は、さぞかし滑稽に映ることだろう。

ただ恋を失っただけで、人はこんなに傷だらけになるのだ。


本当に、そう?

本当に失ったのは恋だけ?


ぶれぶれの視界で、ぐらぐらの心で、ただひたすら思う。

大好きだった。

それはもう、心から。

好きで好きで、全身であの人を好きだと叫んでいた。

あの人のことなら、どんなことでも全て受け入れてしまうくらい。

どんな理不尽な願いも叶えてあげたくなるくらい。

だから、どれだけあの人が私を都合良く扱おうと、私とつないでいたはずの手でほかのどんな人に触れようと、あの人の願いならそれで良かった。

馬鹿みたいに盲目的。

間違った形の恋。でもそれしか知らなくて。


ドツボにはまっていけばいくほど、それは愛から遠ざかる。


見て見ぬふりしてきた寂しさと、甘えてみたいという願い。

知らずに募ったその思いが、いつしか恋を終わらせて、愛が欲しいと言う口を冷たい手で押さえられ、感情のない笑顔を浮かべたあの人は、静かに姿を消していた。


それでも、好きだったんだ。


どんなに取り繕おうと、どんなにただ恋を失っただけだと思い込もうと、私の前から消えたのはあの人で、大好きだったあの人で、柔らかかった日の思い出で。


本当は全部分かっていた。

なくしたのは恋ではなく、恋人と、恋人とのこれから。

それでも、私が傷付こうが何しようが恋人だったあの人は一切痛くない。

分かっている。分かっているから。

だから今日だけは、泣くのを許して。

いっぱい泣いて、優しかった頃のあの人を思うのを許して。

冷たいココア。

温かい甘さをまたいつか感じられるように。

おいしいと、笑顔で言えるようになるために。


ボロボロ泣く私を、目の前のココアだけがじっと見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る