第2話 髪を切る
髪を切る日が来るなんて、幼い頃は思いもしなかった。
腰あたりまで伸びた長いそれはつやつやと美しく、下ろしても束ねてもきれいにまとまる自慢の髪だった。
毎日キレイにブラッシングして、トリートメントも欠かさず。普通に日課として髪と向き合ってきた。
3歳の頃からバレエに全てを捧げてきた私にとって長い髪は当然のことで、スタジオに入るときゅっと結い上げる。それがただの女子高生から1人のバレエダンサーへと変身する儀式のようなものだったのだ。
それなのに。
ついクセのように肩に手をやる。
さらさら流れ落ちる髪は、別れを惜しむように指に絡みついてきた。
「髪、切るんだ…」
他人事のようにつぶやいてみる。
口に出して初めて気づくことがある。そう、私はこれから髪を切る。
その感覚は、なんとも言葉で形容しにくいものだ。
寂しい、というのも何か違う。
あって当然のモノがなくなる、という空虚感。
ぽっかり、という言葉の本当の意味を私は初めて知った。
胸に空いた穴は、何にも埋められない。
それはこの半年で痛いほど味わった事実。
「短くしてください」
席に着くなり決死の思いで繰り出した言葉は、美容師さんにも結構な衝撃を与えたらしい。
「本当にいいんですか?」
繰り返されるそんな言葉にほとほと嫌気が差す。
「…お願いします。生まれ変わりたいんです」
思わず低くなってしまった声に、美容師さんもはっとしたようだった。
「分かりました。かなり印象が変わると思いますけど、でもきっと、ショートもお似合いになりますよ」
優しい色合いを帯びた言葉に、ほんの少し肩の力が抜けた。
正直、ショートが似合おうが似合わなかろうがどうでもよかったのだ。
八方ふさがりの今の状況から逃げたくて選んだ髪を切るという行為。
それでも、新しい髪型が似合うかもしれない、というほんの少しの楽しみが生まれたのを感じられた。それだけで、ごくわずかながら勇気が持てた気がするのだ。
「ありがとう。思い切りやってください」
シャキン、シャキンとハサミが鳴る。
そのたび毎に、ぱさっと束になった髪が落ちていく。
その黒い束を鏡越しに見ながら、ああ、終わるんだ、と改めて思った。
今日から私は生まれ変わる。
髪は、その決意表明だ。
誰に対して、というのではなくただ自分自身に対して。
ひたすら踊ってきた人生だった。
誰から強要された、というわけではなく、物心ついたときから踊るのが大好きだったのだ。
みんながテレビやアイドルに夢中になっていた時も、私はただ踊っていた。メイクや恋愛の話に花を咲かせているときも、舞台メイクのことは誰よりも知っていたし、舞台において疑似恋愛を繰り返していた。
そんな人生が続くと思っていた。
それが覆されたのは半年前。
脇見運転の車が歩道に突っ込んできて、そこを歩いていた男女3人を巻き込む事故となった。
2人は即死。
生き残った1人は、命は取り留めたものの
右足の自由を失った。
それが私。
たぶん、生きていることが奇跡なのだろう。
見舞いに来てくれた人たちは皆口々にそう言った。
分かる。分かるんだ。
たしかにあの惨状の中生きている私はとても幸運で、奇跡的に未来を与えられたのだ。
そんなこと分かっている。
それでも、どうしても思わずにはいられない。
なぜ生かしたのか、と。
踊れもしない体にしておいて、なぜ命を与えたのか、と。
踊れなくなった私に腫れ物に触るかのような態度で接してくる両親も、何事もなかったように明るく振る舞う友人も、何もかもが空っぽに見えた。
私を気遣う言葉。
労ってくれる優しさ。
分かってる。
私のためだって分かってる。
だからこそ虚しくて、だからこそ泣けなかった。
それから半年。
学校は休学中だ。
治療してリハビリして退院して。
通院でリハビリを続け、やっと杖を使いながら歩くことが出来るようになった。
でも、そこに意味を見出すことはいまだ出来ていない。
残ったのは空っぽの体と、長く伸びた髪だけだった。
バレエも学校も何もない私には、時間だけがあった。
何かを考えなければならないんだろうことは薄々気づいている。これからのこと、バレエを失った今の私ができること。
それでも、どうしても何も考えたくなくて、私は全力で知らん振りしている。
家に居ても、モノ言いたげな家族の視線がうるさくて、なんとなく居心地が悪い。
そんなときは、ただひたすら街を歩くことにしている。
ぽんやりと、のろのろと歩く杖をつく女子高生の姿はなかなかに目立つらしい。心配げな眼差しを向けられたり実際声を掛けられたりもするけれど、それすらもうざったい。
「リハビリなので」
その一言で、みんな黙り込む。半分本当で半分嘘の、魔法の言葉。
毎日毎日無意味な散歩を繰り返す間に出会ったのが、この美容室だった。
こじんまりしたその美容室は、黒を基調としたシックな造りで、女の子特有の明るさがみじんも感じられなかった。そしてそれは、今の私にとってとても落ち着いた印象を与えるものだったのだ。
「いいなぁ…」
はしゃぐことない外装と、それでもキレイに飾られている内装とのバランスが、とても美しく見えて、思わず足を止めた。
そして、不意に思ったのだ。
髪を切るならここで、と。
それからもしばらくは、最低限の生活と散歩の日々だった。ただ食べて、寝て、歩いて。何も変わらないまま、何も見いだせないまま。
そんなある日のこと。いつも通りぼーっと歩いていた私は、前から全速力で走ってくる自転車と接触し、転んでしまった。
自転車はそのまま行ってしまうし、周りには誰も居ない。 飛んでいった杖を拾うため、這うようにして道を進む。
やっとのことで杖を拾い、傷だらけのまま立ち上がったときに目に入ったのは、交差点の隅に供えられた花だった。
そこできっと、誰かが亡くなったのだろう。何かの空き瓶のようなものに挿された花は、大方茶色く枯れてしまっている。
残っている花も、水が足りないのか、萎れてうなだれてしまっていた。
あまりにも寂しい景色。
でも、気づいてしまったのだ。花を供えられていたのは、私だったのかもしれないことに。
花を手向けられても帰らない肉体。
そしてその死を悼む心すら、年月が経つにつれ風化していってしまう。
忘れ去られていく存在。
ほんの少しのズレで、私がそうだったかもしれないという現実。
目を上げればそこは車の行き来する交差点だ。笑いながら道を渡る人の声。車のクラクション。生きている音がそこには溢れていた。
今ここに立っているのは生きている私。
辛うじて私はこちら側に残ったのだ。
今まさに、その奇跡を実感する。
みんなが口々に言った奇跡のありがたさ。
失ったモノが大きすぎて、今まで見えなかったけれど、私はまだ、ここにいる。
そう思ったとき、事故以来初めての涙が頰を伝った。
生きている喜び、失った右足、そしてバレエへの哀しみ、言葉にならない思いが涙になって溢れてくる。
泣いて泣いて、泣き疲れたころに、滲む信号の青いランプを見ながら思った。
「そうだ、髪を切ろう」
ダンサーという肩書きを失った今、その象徴だった長い髪は必要ない。むしろ、歩き始めるならここで、過去を断ち切りたい。
そして、私はあの美容院に行くことを決心したのだ。
「お疲れ様でした」
美容師さんのそんな声にふと意識を現実に戻せば、鏡の中には新しい私が居た。
「どうぞ」
手鏡を渡され、後ろの長さを確認。あらわになった首筋がほんの少し寒い。
「これでいいです。ありがとうございます」
お礼を言ったら、美容師さんは微笑んでくれた。
「とてもよくお似合いです」
その言葉が本心からなのか社交辞令なのか私には分からない。それでもその言葉は、新しい私を後押ししてくれるには充分だった。
お会計を済ませ、ガラスの扉に手をかける。
今ここには、これまでの私と全く違う自分がいる。
このまま外に出てしまうのが怖くて仕方ない。
髪は私にとっての鎧のようなものだったんだ、と気づいた。
でも、と改めて思う。
私にはもう鎧はいらない。
これまで生きてきた中で作り上げた全てを脱ぎ捨て、裸のまま歩き出す。そう決めたから。
お店の中から一歩踏み出す。
さあ、ここからが未知の世界。
失ったモノはもう還らない。
どんなに願っても、祈っても。
それをこの半年でイヤというほど知ったから。
失くしたのなら、探せばいい。
見つからないなら、生み出せばいい。
そうやって、私たちは何かを求めて転がり続けるのだろう。
店に入る前に感じた胸のぽっかりは、今、何やら温かいものに満たされている。
だから今、私は挑戦者の目で言うのだ。
「よし。かかって来やがれ」
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