誰もが何かを失くしてる
マフユフミ
第1話 金魚が死んだ日
金魚が死んだ日、私は三泊四日の出張を終えて帰ってきたところだった。
「ただいまー」
無人の家に声を掛けながら靴を脱ぐ。
なれないパンプスを履いていたものだから、もう足の先が限界だ。
ふぅー、と軽いため息をついてリビングの灯りをつける。
真っ暗だった空間が急に明るい世界となり、どことなく場違いな感覚をおぼえる。
明るい色の木目のフローリングにドサッと荷物を投げ出して、ソファにドサッと腰かけた。
テーブルには出ていったときのまま郵便物が放り出されていてちょっとうんざりする。
慣れない展示会周りで精神的にもかなりつかれているらしい。
自分以外誰もいない空間、というのが久しぶりで、なんとなく慣れない。
ホテルの明るさ、にぎやかさがないのが不思議な気がする。
人の慣れというのは恐ろしいものだ。
もう何年も一人暮らしで、一人の空間なんてものは当然のごとく身に沁みついているはずなのに、数日の現実逃避が調子を狂わせる。
「へんなの」
ぽつりとつぶやく独り言。夜のこの空間に妙に響く。
しかしこのソファ、相変わらずふかふかで座り心地がいいなあ。
今度カバーを洗濯しなければ。
だんだん現実に思考が追い付いてきて、ああ、帰ってきた、と今さらながら思う。
静かな空間に、エアレーションのぽこぽこいう音が響く。
「そうだ、金魚」
留守の間放置していた金魚の水槽へと向かう。
暗い間は寝ていると思うけれど、もしこの明るさのせいで目覚めたなら餌をあげなければならない。
金魚がウチに来て、もう3年近く経つ。
なぜか会社の同僚にもらったのだ。半分以上押し付けられる形で。
なんでも子供がお祭りですくってきた金魚が繁殖し、水槽内が大変なことになっているらしい。
「頼む!初心者セットも一緒につけるから!」
なんて頼み込まれ、わけのわからないまま頷けば、次の日曜日にはもう家中にぽこぽこ音が響きわたり、3匹の金魚が悠々と泳ぐ水槽がリビングの端に据え付けられていた。
「なんか生臭い…」
たいして乗り気ではなかったため、あまり好意的には見られなかった金魚たち。
それでも、ぼーっと眺めては餌をやり、気づけば餌をほしがるときにはバタバタと催促され、近づくと向こうからもこちらへ向かって泳いでくるようになり、なんとなくの疎通が図れるようなるなるころには、ふんわりした愛着のようなものがわき始めていたのだった。
ソファから水槽は、ちょうど死角になっているため見えない。
「よしっ」
軽く気合を入れて立ち上がると、水槽へと向かい歩きはじめた。
「ただいまー」
金魚に向かって呼びかけたその時。
「えっ!?」
私の目に飛び込んできたのは、全身に白い斑点ができ、腹を見せながらゆらゆら水面に浮かぶ金魚たちだった。
「うそ…」
出かける前は何事もなかった。
いつも通り、近づくと寄ってきてバタバタと全身で餌をねだり、パクパクと大きな口で食べていた。
食べ終わったころに電気を消し、「いってきます」と声をかけて家を出て鍵を閉めた。
そんな全く普段と変わらないバイバイだったのに。
「なんで死んじゃったの?」
エアレーションが起こす些細な波にゆらゆら流されている姿は、完全に生きているものとは異なっていた。あの力強い尻尾を揺らして泳ぐ姿はもうない。
3匹が3匹とも腹を見せ、ただぷかぷか浮かんでいる。
呆然とそんな様子を見る。
白い斑点が出ているということは、きっと何らかの病気だろう。
4日前、出かけるときにはなにもなかったのに。
餌も一緒、水も10日前くらいに替えてしばらくたっているから安定しているはず。
病気の侵入する可能性なんて考えられなかったはずなのに。
「私が出かけていたから?」
これまでも出張や旅行で家を空けるときはあった。
なのになぜ今回だけこんなことになってしまったのだろう。
後悔とかなんでとか嘘でしょとか、いろんなことが頭をぐるぐる回る。
とにかく、金魚が死んだ。
今確かに私に分かるのは、それだけだ。
衝撃と疲れとで、まともな思考ができない。
それでも動かなければ。
取り立てて今しなければならないのは、この3匹の金魚たちをなんとかしてやることだろう。
そこまで思って、別の問題点にたどり着く。
「どこに埋めてあげたらいいんだろう」
私が住んでいるのは五階建ての、大家さん的にはマンション、世間的にはアパートと呼ばれているような集合住宅だ。当然庭なんてものはない。
となると、考えられるのはどこかの公園か。しかしこの辺りには、近くの大型マンションの敷地内にある、コンクリートの上に小さな遊具が置かれている程度のものしかない。
さてどうするべきが。
とりあえずスマホを手に取った私は、金魚の埋葬法について検索を始めた。
まず挙がっていたのが私の考えつくのも同じように、庭先に埋めるのと、どこかしらの公園に埋めるというもの。
妥当なアイディアではあるものの、先程述べた理由により却下。
意外に多かったのは、ゴミ箱に捨てるというもの。でもそれは、どうにも気が進まない。
だって、さっきまで生きてたんだから。買ってきた切り身の魚などではなく、生活を共にした仲間なのだ。ゴミ扱いはできないので却下。
それと、これがどうにも信じられない方法。なんと、トイレに流す人がいるというのだ。
信じられない。川ならともかく、自分の排泄物を流すところへ突っこんでしまえるその感覚。
「なんで…」
ぷかぷか浮かぶ金魚たちを横目で見て思う。
確かに家族だった3年間。
それをトイレで終わりには、絶対にしたくなかった。
「ああ、もう!」
全ての策を却下して思う。
こうなったら、食べてしまおうか。
金魚とは言え、魚だ。
そのままいただいてしまうにはかなり抵抗があるけれど、埋められる場所もなくゴミ扱いとか排泄物扱いが許せないなら、もういっそ体内に取り込んでしまえばいい。
たとえば焼いてしまう。
身は少ないだろうけれど、魚料理の基本。すぐになんとかしてあげられる。
もしくは揚げてしまう。
小さな体だから素早く火が通るだろうし、骨ごと食べてあげられるんじゃないだろうか。
改めて水槽に近づく。
水槽の壁に手を当ててみても、もう寄ってくる姿はない。
夜に響くエアレーションの音。
ゆらめく三つの死骸。
ぽこぽこぽこぽこ、命が溶けていく。
「本当に、死んじゃったんだね…」
ぽこぽこ、ぽこぽこ。
やっぱり、食べる事なんてできない。
水槽掃除の時に使っていた網で、3匹をそっと掬いあげる。何重かに敷いたキレイなティッシュペーパーに寝かせてみたら、改めて大きくなっていたことに気づく。
「おっきくなったね…」
つぶやけば、涙が一粒転がり落ちてきた。
そのままそっと包んで丁寧に持ち上げ、ベランダへの窓を開けた。
五階のベランダからは、壮観というには至らない程度の夜景が見える。
見知った町の、いつも通りの灯り。
部屋から漏れる光とその灯りを頼りに、私は唯一置いてある鉢植えの土を掘り始めた。
庭はないし広い土の場所もないけれど、やっぱり命の宿らないことが決定してしまった体は土に還してあげたくて。
根っこが邪魔でスムーズには掘り進められなかったけれど、悪戦苦闘しつつ3匹分のすき間をあけた。
ティッシュにくるんだ3匹を、そっと土の上に載せる。ぴくりとも動かないのが哀しくて、でもどこかで「ああ、もう命はないんだな」とひどく納得した。
元通りに土を戻した。
この根元には、金魚たちがいる。とてもそんな風には見えなくて、ほんの少し笑った。
「ありがとう」
家族になってくれて。
一緒に生きてくれて。
たった3年間だけど、そばにいてくれてありがとう。
部屋に戻ると、夜に響くエアレーションの音。
そのスイッチをそっと切る。
静けさが辺りに広がって、私は夜の中また1人になった。
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