2-12 カーくんとなな

 なながオレに初めて声をかけたのは、木枯らしの吹く秋のある日だった。


 オレは柿の実を食べるために、一軒の家に降り立った。

 あの頃のオレは、群れでの順位も低く、うまい飯にありつけないことが多かった。でもこの場所は、だれにも知られていない。オレにとって、秘密の場所だった。

 柿の木に飛び移り、熟れた実を食べようとした。その時。


「うぅ……ひっく……」


 足下で物音がした。見ると、家の軒先にヒトがいた。木でできたベンチに座り、うつむいている。


「なんで……あんなこと……言われなきゃ……ならないの……。わたしは……鳥観てた……だけなのに……」


 ヒトはブツブツとつぶやきながら、目元を手で何度もこすっていた。今なら泣いているとわかるが、あの頃のオレはなにをしているのか理解できなかった。

 しばらく様子を見ていたが、オレに気付くことなく俯いている。襲ってくる心配もないと思って、柿を食おうと思った。

 けどその時、オレは見つけてしまった。


 ――でっけぇ、旨そうな虫!!


 ベンチの上、ヒトの隣にでかいイモムシがもぞもぞ動いていた。秋の暮れに、あんな大物は滅多にお目にかかれない。食いたい、すごく食いたい。

 ヒトはオレにもイモムシにも気付かずに下を向いている。オレはなるべく音を立てないように、地べたに降りた。視界に入らないように遠回りをして、ベンチへと近づく。ヒトから一番離れたベンチの端に飛び乗り、くちばしを目一杯伸ばす。


 ――あと、もう、少し……。よしっ、捕まえた!


 イモムシをくわえ、頭を起こした。その瞬間、オレの目にヒトの目が映った。


 ヒトが顔を上げ、オレのことをガッツリ見ていた。


 ――うわぁっ!?


「きゃぁっ!?」


 慌てて柿の木のてっぺんに飛んで逃げる。正直、ビビった。死ぬかと思った。いや、たぶん死ななかっただろうけど。本能的にめちゃくちゃヤバいと感じてしまった。


「ビックリした……。こんな近くまで、ハシボソガラスって来るんだ……」


 ヒトは俯かなくなり、目元もぬぐわなくなった。ずっとオレを見上げている。まさか、襲ってきたりしねぇよな。イモムシをくちばしにくわえたまま、オレはチラチラと様子をうかがった。


「もしかして、わたしのこと慰めてくれた? なんて、そんなことないか」


 ヒトはなにか言って、立ち上がる。一歩、木に近づく。

 オレは身構えた。もう一歩踏み出したら、逃げようと思った。

 けどヒトはそれ以上足を動かさずに、言った。


「でも、ありがとうね。そばに来てくれて、なんか嬉しくなっちゃった」


 ヒトの言葉なんて、あの頃のオレはまったくわからなかった。でも、目を細め、ほおを上げて口元を緩ませた顔が、オレの目に焼き付いた。

 あの時のあいつの笑顔は、今でも忘れられないものになった。


 それからも、オレはあいつの家に行った。柿の実がなくなったら、地面で虫を探したり、耕された土から生える草や実をつついたりしていた。


 あいつの家は、いつもにぎやかだった。


「ハシボソガラスくん、今日も来てくれたんだ! ……ハシボソガラスくん? う~ん……。ハシボソ……、ハッシー……、カラス……、カラ……、カー……! カーくん! 君の名前、カーくんにするね!」

「プッ、安直すぎるだろ、なな?」

「げっ!? お兄ちゃん! いつからいたの!?」

「最初から。てか、なに鳥に話しかけてんの? お前がそんなイタい子だったとは……」

「うるさいなー! お兄ちゃんのバカ! ほっといてよ!」


 あいつは「お兄ちゃん」と呼ぶ男と、ヒヨドリみたいにギャーギャーわめいている時もあった。


「おばあちゃん、今年もトマトたくさんなったね。あとで収穫していい?」

「あぁいいよ。でも今年は、カラスに突かれてねぇ。ほら、このトマトなんて穴だらけ」

「あ~、本当だ。おばあちゃんの作った野菜、美味しいからね。カーくんも大好物なんだよ」

「そうかい? なら、とって食ってしまいたいねぇ?」

「……えっ? 今おばあちゃん野菜のこと言ったよね? それとも……?」


 一瞬、背中がゾクリとしたのは、気のせいか……。

 あいつは「おばあちゃん」と呼ぶ老婦人と、柿の下にある耕された土の上で、ほのぼのと話している時もあった。


「カーくん聞いて! いよいよ公園に冬鳥が来たよ! コガモとかヨシガモとかホシハジロとかヒドリガモとか! 今年もヒドリガモの群れの中から、アメリカヒドリを探す旅に出ないと……!」

「こら、なな! 早くご飯食べて、学校行きなさい!」

「あっ、お母さん!? 今の聞いてた?」

「いいから、パジャマのまま外に出ない! 早く家に入りなさい!」

「はーい……」


 朝からハイテンションで飛び出てきたと思ったら、「お母さん」と呼ばれた女の一声で、肩を落として家の中へ入っていく時もあった。


 あいつはオレを「カーくん」と呼び、オレに向かってわからない話を勝手にしゃべっていた。オレはいつも柿の木の上から、そんなあいつを見ていた。

 周りから「なな」と呼ばれる少女のことを、ずっと見ていた。


 そして、季節が何度も何度も巡った、ある日。


「カーくん、今日も来てくれたんだね」


 ななはオレと目が合い、柿の木のそばへ近づいてきた。

 ここ最近、なぜかななはオレがいても気付かない日が続いていた。

 ベンチに座り、かばんを肩から下ろして、オレを見上げる。


「カーくん聞いてよ? 家事って大変なんだね。普段手伝ってなかったわたしが悪いんだけど。せめて料理くらい、お母さんに教わっておけばよかった……」


 そういえば最近、ななが「お母さん」と呼ぶ女を見なくなった。いつもはその女が洗濯物を竿さおに干していたが、近頃はなながその仕事を朝からやっている。

 それに、いつもななと言い合っていた「お兄ちゃん」という男もしばらく見ていない。「おばあちゃん」という老婦人もずいぶん前から姿を見なくなって、耕されていた土はすっかり雑草が生い茂っている。


「出向で二、三年は帰ってこないか……。まぁ、県内で、そんなに遠くはないんだけど……。でも……」


 ため息が吐く声が聞こえた。そして耳に入った、ななのつぶやき。


「独りって、結構寂しいね……」


 そう言うと、ななはうつむいた。しばらくなにも言わなくなった。

 木の上からだと表情が見えない。下に降りようか迷っていると、ななは急に立ち上がった。木の下からオレを見上げる。


「ねぇカーくん、約束して? カーくんは、どこにも行かないって……」


 うわずった声。潤いを帯びたひとみ。かすかに震える重なった両手。

 今までいろんな顔のななを見てきたが、あんな表情は初めてだった。


「お願い。ずっとここにいて……。ずっと、わたしのそばにいて……」


 ななはそう、約束を切望した。

 ピーチクパーチクとヒバリが鳴き始めたうららかな春のある日だった。

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