2-11 わたしが好きなのは

「トキ、お待たせしました。食べ物持ってきましたよ」


 わたしは家に戻り、客間を開けた。トキは変わらず、おでこに冷却シートが張られたまま、布団の上で横になっていた。おとなしく寝ていてくれたんだ。


「なな? 泥だらけだな……」


 トキは目を開けて、驚いた様子でわたしを見た。呼吸はさっきより落ち着いている。わたしは少し安心して、傍らにひざを折って座った。


「わたしは大丈夫です。それより食べ物、これでいいですか?」


 持っていた金魚鉢をトキの前に置いた。鉢のガラス越しからトキが中を見て、こくりとうなずく。

 ちなみに金魚鉢からあふれる量だった食べ物は、カーくんがりすぐってちょうどいい量にしてくれた。わたしはカーくんの後ろで、両手で顔を覆って震えていたけど。


「実はこれ捕るの、カーくんが手伝ってくれたんです」

「カラスが……?」

「はい。あっ、でも、カーくんを許したわけじゃないですよ? トキに謝るまで、出禁って言っておきましたから」


 今も玄関先でほおを膨らませながら立っていると思う。あんな場所にずっといられても困るんだけど……。


「別に、俺はあいつに謝られたいとは思っていない……」


 トキはまゆをひそめて、半目でぼそりとつぶやく。


「そういう問題じゃないんです。まぁ、カーくんのことは後にして。今は食べてください? 起き上がれますか?」


 トキはこくりと頷き、敷き布団に手をついて上半身を起こした。

 内心ほっとする。昔お母さんがしてくれたみたいに、スプーンですくってあーんとか、したほうがいいかなって思っていた。ドジョウをすくってあーんとか……、正直無理だと思っていた。


「なな……?」

「い、いえ、なんでもないです。今日は、この部屋で食べていいですよ。また、しばらくしたら来ますね?」


 わたしはそう言って、立ち上がろうとした。


「待て。きたいことがある……」

「えっ?」


 わたしは立てた足を戻した。トキの目は、翼の包帯を見て、金魚鉢の中を見て、そしてわたしのひとみへ移る。真っ直ぐにわたしを見つめて、口を開く。


「なぜ、俺を助ける……?」


 澄んだ淡い黄色の瞳に、トキを見つめるわたしの姿が映っている。

 トキはゆっくりと話を続けた。


「前に言っていた……。ななは、恩返ししてほしくて俺を助けたわけではないと……。それなら、なぜ網に絡まった俺を助けた……? あの時だけじゃない……。今だって、どうして自分を犠牲にしてまで俺を助けようとする……?」


 落ち着いて、感じた疑問を投げかけるようにトキは話す。そして視線をわたしからずらし、目を伏せた。


「恩返しをしに来たのは、俺のほうだ……。迷惑をかけているのなら、追い出しても構わない……。俺はそれで、お前を恨みはしない……」


 もしかして、この前お風呂場でわたしが言ったことを気にしているのかな。そう思った瞬間、トキの目がわたしに戻った。わたしの瞳の奥を見据え、わずかに声を落として言う。


「それとも、俺が珍しいからか……?」


 言い終わると、トキはゆっくりとまばたきをして、また目を伏せた。右手が首もとのストールを、いや、その奥の首飾りを握る。

 そばの金魚鉢の中から、水の跳ねる音が鳴る。しばらく、部屋が静寂に包まれた。


「確かに、トキは珍しい鳥です」


 うつむいたままのトキから目をそらさずに、わたしは言った。

 トキは一度日本で絶滅し、保護の活動によって今やっと数が増えつつあるという。けれども、そのほとんどは佐渡にいて、本州ではめったに見られない。ましてやこんな田舎町で目撃されたら、新聞沙汰ざたになること間違いない。

 わたしだってあの日、網から助けた鳥がトキだと知って、うれしくてたまらなかった。

 そんな希少な鳥。日本にいる鳥の中でも、特別な存在。


「でも、わたしはそんな理由で、あなたを助けたわけじゃない」


 トキが顔を上げて、わたしを見た。

 珍しいとか、きれいとか、大事か大事じゃないとか、そんな理由じゃない。


「好きだから」


 トキの唇がかすかに動き、瞳が揺れる。

 ただただ、単純に、バカ素直に。


「わたしは、鳥が好きだから」


 この想いを、トキに伝えた。

 トキは固まって、わたしを見つめた。

 わたしは微笑んで、話を続ける。


「例えば、あの時網に絡まっていたのが、スズメでもハシボソガラスでもキジでもホシムクドリでもヤンバルクイナでも、わたしは助けてました。それが、トキだった――あなただったんです」


 大好きな、鳥だったんですよ。


「今だって、たいした理由なんてありません。鳥が苦しんでいるのが嫌だから。鳥のためになにかができるのが嬉しいから。人の姿になってこんな近くに来て、戸惑ってひどいこと言っちゃう時もあります……。でも、わたしは鳥が好きで、好きな鳥のためになにかしてあげたい。そう思ったから……」


 人の姿だからって、鳥を勝手に家に住まわせたり怪我の手当てをしたり食べ物を与えてもいいのかと言われたら、正しいかどうかなんてわからない。

 けれど今、こうやって触れることも話すこともできる相手を、ましてや、わたしのために一生懸命恩返しをしようとしてくれた相手を、放っておくなんてわたしにはできなかった。

 自己犠牲でもない。ただただ、なにかしたい、やりたいと思ったから、やっているだけ。


「そんな理由じゃ、ダメですか?」


 わたしはトキに尋ねた。

 トキは動かないで数秒わたしの顔を見つめた。そしてゆっくりと目を閉じ、首を横に振る。


「そうか……」


 目を開けてささやくように言った。右手を首もとから離し、金魚鉢を両手で持ち上げて、膝の上へ置く。


「さっき、ななに腕をつかまれた時、昔のことを思い出した……」


 金魚鉢の中に視線を落としながら、トキはおもむろに話を始めた。


「俺がヒナだった頃、ヒトに食べ物をもらっていた時期がある……。もうほとんど覚えていないが……。体が柔らかい手に包まれ、身動きできずに押さえられていた……。その感覚だけは、今も残っている……」


 トキの顔から、はっきりとした表情が見とれない。懐かしい思い出を振り返っているのか、不快な記憶を呼び起こしてしまったのか。判然としない、曖昧あいまいな顔。


 ――トキは、人が好きですか?


 訊こうと思ってやめた。バカな質問だと思った。それに、答えを知るのが内心怖かった。


「早く食べてください? 冷めは、しないですけど、鮮度が落ちちゃいますよ?」


 そう、わたしは話を変えた。

 トキはわたしを見て、こくりと頷く。金魚鉢の中へ手を入れ、真っ先にドジョウを捕まえる。トキって、ドジョウ好きなんだ。そういえば、栄養もあるってカーくんが言っていた。器用に指とつめで逃げないように押さえつける。

 ビッチビッチ跳ねるドジョウが、開いた口へ――。


「待って!? その姿だけはわたしに見せないでーっ!!」


 いくら鳥が好きだからって、どんな姿も好きだとは言えない。見ないほうがいいものだってある。ぼーっと見ていたわたしが悪いのだけれども!

 いきなりの大声に頭頂部が逆立ったトキを置いて、わたしは逃げるように客間から出て行った。

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