2-02 水も滴る濡れ羽色
私の名前は
三日前、わたしは家の近くで、網に絡まっていたトキを助けた。するとなんと、そのトキが人の姿になって恩返しにやってきた。
けれどもトキは翼を
「トキー、もう開けていいですか?」
「あぁ」
返事を聞いて、わたしは客間の戸を開ける。部屋には着替えの終わったトキが立っていた。
白シャツに、ワインレッドのチノパン。グレーの
「うん。お兄ちゃんのお
あの白装束をずっと着ているわけにもいかないから、お兄ちゃんの部屋から見繕って持ってきてあげた。本当は朱鷺色の服とかあれば、よかったんだけど……。ますますトキっぽくなくなってしまったのは、内心ちょっと残念。
「俺はカッコウじゃない……」
「鳥のこと言ってるんじゃないです。あれ? 背中、穴開いてました?」
背中に目をやると、肩の下から腰の上辺りまで、ハの字に二カ所の切れ込みがあった。シャツもロングカーディガンも両方穴が開いていて、肩甲骨が見えている。
「翼が出せないから、切っておいた」
そう言うと、トキの背中からふわりと翼が現れた。右の翼には昨日わたしが手当てした包帯が巻かれている。
そういえば、洗濯した白装束にも切れ込みが入っていた。
「そうですか……。どうりで切る物ほしいって言ってたわけだ……」
お兄ちゃんのお古とはいえ、勝手に引っ張り出してきた物なんだよね。まぁ、
「あっ、もうこんな時間! それじゃあ、わたし学校行ってきますね!」
「昨日、言っていたところか?」
「そう。夕方には帰ってきますから。わたしの言ったこと、ちゃんと守ってくださいね?」
「わかっている」
トキがこくりと
「玄関の
「わかった」
「そんなところかな……? それじゃあ、行ってきます!」
わたしは
玄関を出て鍵を掛け、軒下に置いてある自転車にまたがって家を出発する。
「言い忘れたことないかな……。ガスの元栓は閉めたし、裏口以外は窓も全部閉めたし。まぁ、トキもやるなと言われたことはやらないだろうけど」
昨日もわたしの話を真面目にこくこく聞いていた。顔には出さないけど、漏水とか水風呂とか、やらかしたことを反省していたみたい。だから、帰ったら家の中がめちゃくちゃになっていたってことは、たぶんもうないだろう。
「ななちゃん、おはよう」
「あっ、ゆうちゃん、おはよう」
朝は田んぼ道を通らずに、歩道のある国道沿いに出て駅へ行く。途中、ゆうちゃんと合流し、家のこともすっかり忘れてわたしたちは学校へ向かった。
* * *
学校が終わり、日が西に沈む頃。
わたしとゆうちゃんは、朝と同じ道を帰っていた。友達と一緒だから、今日は田んぼ道でのバードウォッチングはお預け。自転車を走らせながら談笑をしていると、ゆうちゃんが思い出したように話を変える。
「そういえば、先生が朝に言ってた、学校に不審者が出たって話、怖いよね?」
「えっ!? う、うん、そうだね……」
朝礼での話を思い出す。昨夜、校舎内で不審者が目撃され、警備員が出てちょっとした騒ぎになったらしい。結局、不審者は捕まえることができず、目立った被害もなかったという。わたしたちには、私物の紛失や不審物があったらすぐに連絡するようにと伝えられた。
「私はなにも盗られてなかったけど、机とかロッカーの中とか、もし見られてたらって思うとなんか嫌だよね?」
「うっ……うん……」
「ななちゃん、どうしたの? まさか、なにかなくなってたの!?」
「いやいや! 大丈夫! 全部あったよ!」
正確に言うと、英語の教科書とノートが机の引き出しからなくなっていた。その不審者が家に持ってきてくれて、今は鞄の中にあるんだけど。
……もう、トキは人に会わなかったって言っていたのに。たまたま捕まらなかっただけみたい。わたしのためにやったことだから、責められないけど。
「ななちゃん?」
「なんでもないよ! そ、それじゃあね、ゆうちゃん!」
十字路まで来て、わたしは自転車を止めて手を振る。ゆうちゃんはここで右に曲がって真っ直ぐ、わたしは左へ国道を横断して真っ直ぐ行けば家に着く。
ゆうちゃんは首を傾げながらも、手を振り返してくれる。けれどもなにかに気付いて、わたしのさらに後ろへ視線を移した。
「あれ、なにかな? あそこの田んぼに変な人いない?」
「えっ?」
わたしは振り返って、ゆうちゃんの指差すほうを見た。
今から通ろうとする道。両側には田んぼが並んでいる。その一画に人がいた。もうすぐ田植え時期だから、
「なにしてるんだろう? 農家さんじゃなさそうだよね……」
肉眼で遠くからだから、はっきりとは見えない。それでも識別できたのは、細身の身体、赤毛の前髪、首に巻かれた朱鷺色のストール。
間違いない、トキだ。
「も、もしかして不審者かな? ななちゃん、あそこ通るの危ないよ!?」
ゆうちゃんが不安そうにわたしに言う。
ここでわたしは、「あの人は最近うちに来た鳥のトキだよ」と伝える勇気を持ち合わせていなかった。
ので。
「見えない」
「……えっ?」
ごめん、トキ。そして、ゆうちゃん。
わたしはしらを切る。
「わたしには見えないよ! ゆうちゃん!」
「えぇ~っ!? で、でも、私には見えて、」
「きっと疲れてるんだよ! 今朝の先生の話聞いてから、ゆうちゃんすごく怖がってたじゃない? わたし、ゆうちゃんを家まで送っていってあげるよ!」
「えっ? えっ? でも、でも……」
「ほらほら、早く帰ろう! ね? ね!」
ゆうちゃんを急かしながら、わたしは右の道へと自転車をこぎ始めた。ゆうちゃんは何度も後ろを振り返りながら、わたしについてくる。
トキを背に、家とは反対側の道を進んで、わたしはゆうちゃんの家へ向かった。
* * *
「もう、トキ、あんなところでなにやってたんだろう?」
ゆうちゃんを家に送り届け、わたしはトキがいた場所を目指していた。
国道を横断し、自宅へ続く道を行く。けど、さっきの田んぼにトキの姿がない。代わりに、道の傍らにグレーの布が畳んで置いてあるのを発見する。
「これって、トキにあげたカーディガンだ」
自転車を降り、辺りを見回した。
人の姿はない。わたしはトキの名前を呼ぼうとした、その時。
「くっ、この唇と手、どっちがドジョウを捕まえるのに適しているんだ!?」
近くで
いつもバードウォッチングをしている田んぼ道。その道に沿うようにして流れる水路がある。幅は両手を広げて二つ分、高さはわたしの背を隠すくらい。その中から声が聞こえた。
わたしは橋から身を乗り出して、下を
ピシャアッ。
そこには、膝下まで水に浸かり、背を向けて立つ青年いた。
水の滴る黒髪が、濡れ
首を振ると、無数の水滴が光を散らした。
わたしに気付いて、こちらへ見返る。
淡く輝く黄色の
そして、わずかに開いた口元には――。
ビッチビッチと跳ねるドジョウがくわえられていた。
「いやぁあああああああああっ!!」
わたしは、人生最大の悲鳴を上げる。
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