1-08 トキの恩返し

「……助かった。今度こそ、死ぬかと思った」


 家に戻ると、居間でトキが正座をしてわたしの帰りを待っていた。

 無表情に澄ましているけど、頭頂部の髪がピンと立っている。

 わたしは、安心したのかあきれたのか自分でもわからないような息を吐いた。


「急にいなくなるからですよ。こんな遅くにどこ行ってたんですか?」

「それは……」


 トキは立ち上がり、着物の懐へ手を入れる。


「これを持ってきたんだ」


 わたしに差し出したのは、英語の教科書とノート。


「えっ、なんで?」

「これがないと困ると言っていただろう」


 お風呂に入る前の独り言を聞いていたんだ。


「で、でも、学校の場所、知ってたんですか?」

「お前の部屋に、学校の名前と地図が書かれた紙があった。あと、お前の名前やクラスが書かれた紙も。それを手がかりに探した」


 机の上に置いておいた、保護者懇談会のプリントには学校付近の地図が載っていた。健康診断の結果には、わたしの名前とクラスも書かれている。

 でも、地図はごく簡単なものだったし、クラスが書かれているといっても教室の場所までは記されていないはず。それに……。


「学校にはどうやって入ったんですか?」

「窓を調べたら、一カ所だけ四階の窓のかぎが開いていた」

「だれかに見つかりませんでした?」

「いや。外が騒がしいとは思ったが、ヒトには会わなかった」

「そう、ですか……」


 さすがに、四階から人の姿をした鳥が侵入するとは、学校も思わないだろう。

 それよりも、学校には何十枚も窓があるはずだ。それを一枚ずつ調べていったってこと?


「飛んでいけばすぐ行って帰れると思ったが、予想以上に時間が掛かった。だから、遅くなってしまったんだ」


 トキは何食わぬ顔でそう言って、わたしに教科書とノートを渡そうとする。

 よく見ると、トキの服や翼がほこりで汚れている。

 こんな、わたしのちょっとしたミスのために。

 明日、少しだけ先生に怒られれば済むだけの、宿題のために。

 どうして、そこまでして……。


「頼んでいないのに、勝手なこと、しないでください」


 気付けばわたしは、またとがった言葉を口にしていた。


「……そうか」


 はっとして、トキを見る。

 わたしの顔を見つめている、悲しそうなひとみ

 思わず、首を横に何度も大きく振った。


「ち、違うんです! そのっ……」

「少し疲れた。もう休む」


 けれどもトキは言葉を遮って、わたしから目をそらした。

 教科書とノートは机の上に置き、居間を出る。

 客間の戸を開け、ちらりとこちらを振り返った。


「部屋はのぞくな。絶対に」


 わたしは言葉を継げないまま、トキの揺れる翼を見ることしかできない。

 ……あれ、閉じた翼は白っぽいはずなのに、右の翼だけ赤みがかっている。

 トキが後ろ手で戸を閉める。

 右の翼から一枚の羽根がほろりと抜け落ち、わたしの足下にすべり落ちた。

 朱鷺とき色のはずのその羽根が、濃い赤に染まっている。

 これって、まさか……。


「……っ!? トキ!!」


 咄嗟とっさにわたしは、今さっき閉められた戸を全開に開けっ放した。

 そこにいたのは、顔をしかめながら右翼を左手で押さえ込んでいるトキの姿。


「なっ!? 覗くなって言ったばかりだろう」


 トキはわたしを見るなり、翼を隠すようにして身体をこちらへ向けた。

 わたしは構わず部屋に入り、トキにく。


「翼、怪我けがしてるんですか?」

「……」


 なにも言わずに目を泳がせるトキ。

 けれども翼は痛いのか、左手でぎゅっと強く押さえている。


「なんで怪我してまで、わたしの忘れ物なんかを……」

「それは違う。……怪我は、もともとしていたんだ」

「えっ?」


 トキは言いにくそうに、わたしから目をそらしながら、話し始めた。


「お前に会う前から翼は痛めていた。それで休める場所を探して、身を隠せる建物に入ろうとしたんだ。だが、暗くて網が張られているとは気付かずに、足が絡まり動けなくなった。そこへお前が来て、助けてくれたんだ」


 それじゃあ、トキは最初から怪我をしたまま、わたしに恩返しをしようとしてたってこと?

 怪我の痛みに耐えながら、わたしを手伝おうとしてたってこと?

 そんなの……、なおさら……。


「……ちょっと待っててください。今、手当てする道具を持ってきますから」

「いい。休めば、いずれ治るだろう」

「いいから座って待っててっ!」

「……はい」


 わたしは救急箱を持って、客間へと引き返す。

 鳥の手当て方法なんてわからない。とりあえず、今は人の姿だし人と同じようにすることにした。

 傷口を消毒して、市販の傷薬を塗って、包帯を巻いてあげる。


「痛っ……」

「あっ、動かないでください」


 トキはわたしから顔を隠すように目を背け、うつむいている。

 両手をぎゅっと握りしめ、奥歯を噛み締めているのが見て取れた。


「ねぇ、トキ?」


 わたしは翼に包帯を巻きながら、気になっていたことを訊く。


「もしも、この家にはた織り機があったら、トキはどうしていたんですか?」

「……決まっているだろう。この羽根を使って、反物を織るつもりだった」


 わたしは手を止めた。

 トキが、自分の翼に目をやりながら言葉を続ける。


「この色は、お前たちにとっては珍しい色なんだろう? かつてこの羽根を求めて、俺たちの仲間は乱獲されたと聞いたことがある。だったら、これを織り込んだ反物は、上質で高価な物になるはずだ。それを売れば、お前もきっと裕福に、」

「そんなことされても、うれしくないです」


 わたしは言葉を挟んだ。

 トキが驚いた様子で、わたしを見る。


「わたし、実はあの『つるの恩返し』の話、ちょっと嫌いなんです」


 わたしはトキを真っ直ぐ見つめて、話を続けた。


「だって……。鶴に反物を織ってもらって、おじいさんとおばあさんは裕福になって幸せになったかもしれない。けど、結局鶴は、羽根を抜いて、ボロボロになっただけじゃないですか。そんな、自分を傷つけてまで恩返しされても、わたしは、全然嬉しくなんかない」


 トキが突然いなくなって、怪我をしていたって知って、やっとわかった。

 これ以上後悔しないためにも、ちゃんと、トキに伝えよう。


「だからあなたは、もうこんな無理、絶対にしないでください」


 そう言って、わたしは残りの包帯を巻き始めた。

 トキは顔を伏せ、独り言のようにつぶやく。


「だったら、俺はどうやってお前に恩を返せばいい……」

「なら、元気になってください」


 包帯を巻き終え、わたしはトキにそう言った。


「怪我を治して、元気になって、空を飛ぶ姿をわたしに見せてください。それまでは、ここで羽を休めてていいですから」


 わたしにとって鳥は、双眼鏡を使って観察するほうが性に合っているから。

 特別な手助けや贈り物をされるよりも、そのほうがずっと嬉しい。

 トキが顔を上げて、わたしを見る。わたしはトキに微笑を向けた。


「なな」


 トキが初めて、わたしの名前を呼んだ。

 透き通った淡い黄色の瞳にわたしを映し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「俺は必ず、お前に恩を返す」



 ――これが、わたしとトキの出会い。

 そして、二つの糸が交じり合い、織り上げられる物語の始まりだった。


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