贋物

@Hanakana

第1話

 目を覚ますと、雨の気配がした。

 淡い光が、カーテン越しに私の部屋の中を、暖かに照らしている。寝ぼけまなこのぼんやりした視界が、優しいオレンジに染まる。

 雨の日独特の湿った、体にまとわりつくちょっと嫌な陽気が、部屋の中で塊のようにどんよりと溜まっている。

 布団の中で、私の世界が完結しているような気がして、体が無意識に動くことを拒否していた。

 そのまま寝ていたい願望を何とか締め出して、わたしは無理やり体を数センチだけ起こす。すると、普段から全く使っていない腹筋が痛くなってしまって、体はすぐにベッドに落ちてしまった。

 体の芯が陽気の鈍い重さでだるくなっていて、指一本さえ動かないような気がした。私には自分の体を動かすだけの力すらない。自分の意思とは裏腹の動きをしない体に思わずイライラしてしまう。

 しばらくベッドに体をうずめながら、体を横向きにして、わたしは心の中で、えいっ、と掛け声を上げて、そこから体を起こした。

 目が完全に覚める。

 体を支点にして周りを見回すと、部屋のものが目に入ってくる。

ベッドの上に置かれたケータイ、太陽光で淡く光っているカーテン、飾ってある海の風景のポスター、三段ある大きめの戸棚の真ん中に鎮座するステレオ、その横に並んだブックオフで買った数枚の安物のCD、一段目に置かれた本箱に入った数冊の本、そして一段目にあるパソコン。そしてその棚の横に、無造作に置かれた冷蔵庫。目に入るわたしの部屋の中身はこの程度のものしかない。

わたしはベッドを降りて、立ち上がり窓のそばまでいってカーテンを手で掴んで、それを開いた。

窓の外は予想したように雨だった。

雨は小雨のようで、その雨粒の軌道を肉眼でとらえることは出来そうもない。でもわたしの住んでいるアパートの前のアスファルトにできた水たまりを揺らしている波紋で、どのくらいの降り具合なのかは分かった。

しばらく無心で水たまりを見ていると、急に外に行きたくなった。

特に理由があるわけではないが、おそらく今日が雨であることが原因だと思う。基本的にわたしは雨の日が好きだから。

戸棚に平面的に置いてあるわたしが何年も使っている腕時計を覗き込むと、6時30分を指している。

いつもならこれから朝食を作る時間だけど、今日は最初に外に出かけよう、と思った。

クローゼットを開けて紺色の少し地味なフード付きのコートを持ってきて、玄関先まで行って、わたしは靴箱から長靴を取り出す。

傘は紺色のコートにあわせて、明るい水色にしてみる。テンションが少し上がるのを感じられた。

それでも、体はまだ怠く、芯がはっきりとしない感じだった。そのため、わたしは興奮と倦怠が半々くらいに混ざった奇妙な気持ちになって、それから玄関のドアの取っ手のドアに手をかけてゆっくりと引いた。

ドアを開けて見えた景色は、雨の気配でいっぱいだった。霞んでいて、繊細な気配。それに誘われるように、わたしは部屋のすぐそばの階段を下りていった。

屋根で包まれている階段を下りきって、水色の傘をさす。傘は雨粒をはじいて、雨雲で隠れている淡い太陽の光を、制限して入れていく。

雨はやはり小雨で、傘は楽器みたいに音を立ててはくれなかったけれど、その表面でキラキラ輝いている雨粒は、とても綺麗だった。

傘を持ってアパートの外まで歩いていく。正面門まで着いてから、アパートを振り返らないで、わたしはアスファルトの水たまりに長靴を入れながらどんどん先に進んでいく。

 歩いていくと交差点にぶつかった。そこで信号を待つ間に、わたしは空を、首を真上に向けて眺めてみた。なんということはない、ぼんやりとした雨雲がいっぱいに広がっていた。

時々外に出たくなる時がある。大体は雨の日だけれど、晴れの日でも、外に出なければ、と思うような日がある。どうてそう思うのかは、よく分からないけれど、こう思った日には何かしらのインスピレーションが沸きやすいのをわたしはよく知っている。

 数分間歩くと、近所の公園に着いた。

公園には雨だから当然ともいえるが、子供の姿は一人もなかった。子供が一人もいない雨の公園の中に一人きりでいると、変な気分になってくる。悲しいような、切ないような、嬉しいような、わくわくするような、そんな不思議な気持ちだった。

 わたしは傘をさしたまま、休憩がてら、すぐそばのベンチに座ることにした。ベンチの上に白のハンカチを乗せて、その上に腰掛ける。固い木の質感がハンカチ越しに伝わってきて心地いい。

 子供が一人もいない不完全な公園で、わたしはしばらくそのままじっとしていた。そうしていると、無性に本が読みたくなってきた。誰かの思考を文字媒体で触れたくなった。

 手ぶらで外に出出来てしまったので、わたしは本をもっていなかった。

 なぜそう唐突にそうおもったのか、理由は皆目見当つかないけれど、きっとそれは雨の日のこの場所が不完全だからだろう、と漠然と思った。

 小説は不完全、雨の日の世界も不完全、雨の日の公園も不完全、そしてわたしも不完全。不完全なもの同士だからこそ惹かれあってしまうのだろう。難儀なことだ、と思った。

早く家に戻りたい、と思った。わたし自身家にたいした本は持っていないけれど、どうしようもなく本が読みたくなってしまった。雨粒が描く軌跡の列も綺麗だけど、今のわたしにとっては小説の文字列の方が綺麗に見えるに違いなかった。

お尻の下に敷いているハンカチをポケットにしまい、傘を手にしたまま立ち上がって、公園の出口まで少し速足で向かう。

数冊しか持ってない本がある家まで、10分くらいだろうか。わたしは気持ちをさらに急げた。

公園の出口を抜けると、外から見た公園の様子は自分が感じていたものより冷たかった。

傘、長靴、コート。わたしの着ているもの全部に光が当たって、反射して水たまりに綺麗な青を作り出す。

自分の全身は鏡を見ないと見れないが、きっと今わたしの全身はとっても鮮かなのだろう。

少しテンションを上げて、音楽を頭の中でかけて、そのリズムに乗りながら、水たまりを適当なステップで踏みつつ、雨の中、わたしはアパートに向かって歩き出した。



家に帰ると、わたしは食事の用意もしないで、本棚のところに行って、適当な本を一冊取り出した。本を手に取り、ページを開けると、活字とインクと紙のにおいで目の前がいっぱいになる。とても幸せな気分になった。

ブックオフに108円で売っていた、昨日買ったばかりのそんなに有名じゃない作家のミステリー小説。不完全で退屈なものだろうが、今日のわたしはこういうものを読みたい気分だった。

1時間30分くらいで読み終わった。やっぱり退屈だった。でも今日のわたしにとっては満足だった。

気づくともういい時間になっていた。朝食は作らないで昼食を作ることにしてしまうと、わたしは冷蔵庫からありあわせのものを使って、豚肉の生姜焼きとサラダを作った。

それらはおいしかったのだが、食欲は最近あまりなかった。好きな時間に好きなことだけをするという不摂生な生活をしているから、しょうがないと言えばしょうがないのだろう。

あっという間に午後になってしまった。太陽が出てないせいで、ぜんぜん昼っぽくないけど、時計の針は確かに1時を指していた。

(そろそろ、仕事の時間かな。)

漠然とそう思うと、わたしはパソコンを戸棚から取ってきて、それをベッドの上に広げてから、そこにあぐらをかいて、電源のスイッチを押した。

パソコンのホーム画面は雨の公園になっている。普段はあまり意識していないけれど、わたしは人より雨と公園という組み合わせが好きなのだろうか?

カーテンを閉め切らずとも、太陽の光は弱っているので、パソコンの画面を白くするあのまばゆい光を気にしないでいることが出来た。

パッドを用意してから、マウスをUSBのところに差し込んでバッドの上に乗せる。マウスを動かしてから、わたしはWordを開いた。

 一気に大量の文字列が私の目の前に現れる。もう数万字は書いた、わたしの作り出した世界がそこにはあった。

 わたしは、作家をやっている。

 言葉を人よりも少し知っているから、人よりもちょっと上手い文章が書けるから、そのくらいの理由でわたしは作家になった。

 だけど、自分では実感がないけれど、割とわたしは人気作家らしく、たまに行く書店では私の本が書店中央の大きな展示棚に平積みになっている。

 わたしは何も特別なことをしないで、この場所に立ってしまっていた。怖くないと言えば嘘になる。だけど下を向いているだけでは何も変わらない。

 だからわたしは毎日、本を書いている。止まるのが怖くて、書けない自分を考えたくなくて……

 キーボードを迷わないでたたいていく。言葉はわたしの中からあふれ出てきて、手は止まらないで文字を打ち続けている。

 文字がどんどん小説に追加されていく。登場人物が、風景が、どんどん展開していく。5,6時間かけて、一気に一万文字くらい書いてから、一度休憩を入れるまでの間、わたしはトイレにもいかなかったし、スマホも見なかった。

 画面に紡がれていく言葉は流れをもって、水みたいにそれ自体は形を持たず、意味というぼんやりとした枠組みを作り出す。

 これで4分の3ぐらいが進んだことになる。頭がボーとしてきたわたしは、軽く肩を回してからベッドからゆっくり腰を上げると、冷蔵庫から炭酸水を取り出してきて一口だけそれを飲んだ。

 炭酸水はわたしのお気に入りの飲み物だ。何の味もなくて、口の中で弾けるだけの飲料物。何の主張もせず、口の感覚だけを刺激するこの飲み物は、頭をリフレッシュさせるのに最適だと個人的には思っている。あと、カロリーがないのも女子的には嬉しいところだったりする。

 頭が喉を通ってくる炭酸水のおかげで少し覚醒する。でも、雨のどんよりとした湿気と数時間パソコンとにらめっこを続けていたせいで、ぼんやりした頭はまだ少し靄がかかっている。

 今日の目標にしていたところまで進んだので、わたしは少し外を散歩することにした。やっぱり人間、外に行かないと活力もやる気も湧いてこない。わたしはさっそく外出の準備に取り掛かった。



 交差点。

 十字路にたどり着いた。

 わたしはいつも外に出るときは、必ず行ったことのない道を通るようにしている。迷子になるのは嫌だから、この町の地図を持ち歩いて通った道はマーカーで印をつけていく。そしてマーカーのチェックが入ってない道を選んで歩いていく。だから今、私の地図は何色ものマーカーで鮮やかな色彩を作っている。

 人に話すと、変わった趣味だね、とよく言われるが果たしてそうだろうか。毎日に新鮮さ求めるのはそんなに変わったことなのだろうか。新しい道に入ると、新しい景色、新しい空気、自分の人生で一度も見たことないものを見て感じることが出来る。

 変わらない日常はつまらない。斬新さのないところにインスピレーションは存在しない。人は変化のなかでないと、どんどん緩み、慣れていってしまう。慣れ、という状態こそ人が最も恐れるべきものだと思う。停滞は退化と同義語なのだとよく思う。人類よ、変化を恐れるなかれ……

 そんなことを考えながら道に印をつけながら気の向くままに歩いていくと、まあまあの大きさの十字路の交差点にぶつかった。その交差点で信号の色が変わるのを、ボーとしながら待ちながら、何の気もなしに周りの人たちをキョロキョロ見てみる。

 そこで気づいた。女性で誰かと一緒ではなく一人だけでいるのは、わたしだけだということに……

 周囲の女性達は皆、男の人と一緒か、友達であろう同性の子と一緒にいて楽しそうに会話をしていた。交差点の待ち時間を、一人で人間の停滞につい考えることに費やしている人はわたしだけのようだった。

 いつも疑問に思ってしまう。なんで人は誰かと話さなければならないのだろう。

確かに何ヶ月もの間人と話していないと、言葉がしゃべれなくなるという。言葉がしゃべれなくなるのは不便だ。お腹がすいて出前を取るときとかに大変なことになってしまう。でも言葉が話せなくなるのは、家に引きこもって対人関係を持たず、人間を恐れるようになってしまうからだとわたしは思う。

現にわたしは、人と話す機会をほとんど持っていない。素性を一切明かさないで執筆活動をしているから、人に会う機会自体がそもそもほとんどない。でも、もしこの場で見知らぬ人と数分話せと言われれば、わたしは話せてしまうだろう。

日常会話なんて言ってしまうと、相手のことに興味さえもってしまえればいくらでも話題を作ることが出来る。なんでそんなものを壊さないように、まるで陶器を扱うかのようにみんなが大事にしているのか、わたしにはよく分からない。

自分が人と違う価値観を持っていることは分かっている。だからわたしは一人になることを選んだ。集団の中に入ってしまうと異端者は徹底的に排除されるのが世の常。だから高校生になって、この考え方を持つようになってから、わたしはいままで友達を一人も作ってはこなかった。

一人は気楽だ。よく人間は一人では生きていけないという、これは事実だと思う。しかし常に親しい誰かの存在を意識して繋がりあって、依存しあって生きていく人生は果たして本当に意味を持っているのだろうか。

人に興味をもって、人のことを嫌わないで、自分が人間として存在していることを素直に喜べるなら、別につながる必要はないと思う。だって人は無意識下のほうが深く人を意識し、感謝することが出来るからだ。言葉なんて曖昧なものでつながる関係をわたしは信用できないし、したくもない。

信号の色が赤から青に変わる。人波が動き出すのに合わせて、横断歩道を渡っていく。

十字路の中心辺りまで行ってから、辺りを少し見まわしてみる。四方八方が人の姿だらけで、この世界にこんなに人がいるのか、と思わず感嘆の声をあげたくなる。

雨はもう降っていないけど、足元の濡れた地面から、何やらじとじとしたものが沸きあがってきていて、それに感じる倦怠感で体が重く感じる。けれど、この重たく感じる体も私のもの、自分が自分である証。そう考えるとこの怠さが心地よい、誇らしいものに感じられる。

交差点が、私の背景になって意識から消えていく。すると、また新しい建物や人が視界に入ってくる。意識していないけれど、私たちの周りは常に変化であふれている。

 道路に沿って綺麗に並んだ街路樹の横を歩きながら、葉っぱと土と雨の匂いが混在している木に囲まれた空間で深呼吸をしてみる。泥臭さと生ぬるさが一緒になって、わたしの体の中に入ってくる。

 この匂いは嫌いではないけれど、いつまでも嗅いでいたいと思えるような類のものではない。だから、わたしは少し急ぎ足で並木道を通り過ぎた。

 目的地は決まっていない。帰ろうと思うまで、あてもなく今まで通ったことのない道を探して、歩いていく。

 アパートを出てから20分くらい経っただろうか。少し足が重たくなってきたので、どこかで一休みしようと思って、辺りをキョロキョロ探してみると、こじんまりとした図書館が見つかった。

 こんなところに図書館があったんだ、と少し驚いた。市営の大きな図書館にはよく原稿を書きに行く。いろんな本に囲まれて作業するのは、個人的にはとても幸せなことだと思うし、よく集中できる。

 でも、こんな辺鄙な場所に図書館があるなんて知らなかった。地図にも確かに名前が書いてあるが、とても小さい。これではよっぽど意識してみないと見つからないだろう。

 図書館の入り口まで行って中をこっそり覗いてみると、人の姿は一人も見当たらなかった。明かりはついているので開いてはいるのだろうが、なんだか入りにくかった。

 結局、この日わたしは図書館には入らないでアパートに戻ることにした。何となくあの中に入るとファンタジー小説のような不思議な経験をしてしまいそうだった。そういう怪しい気配をあの場所に感じた。(霊感なんてものと無縁のわたしの勘なんてあてになるものではないだろうけど……)

 変化はいつもわたしたちの傍で息づいているけれど、大きな変化をわたしは求めていない。目の前の光景が変わっていくぐらいの変化で、わたしは十分満足している。

 ……摩訶不思議な経験など、いつも見る夢の中の世界で間に合っている。そう思った。



 ――誰かが、わたしの目の前にいる。

 ――周囲は真っ白で何もない。――目の前の誰かの輪郭だけが認識できる。

 ――女性だろうか、男性だろうか。――そのことすらよく分からない。

 ――頭はぼんやりと蜃気楼の中にいるみたいになっていて、何も感じない。

 ――目の前の誰かがわたしに向かって、手を伸ばしてきた。両手を伸ばしてきて、まるで骨董品を触るみたいに繊細に私の首に手を添える。――そして、いきなり強い力で絞め上げてきた。

 ――頭では抵抗しようとするのに体は金縛りにあったみたいに動かなくて、されるがままになってしまう。

 ――視界がだんだん薄暗くなっていく。――酸素が頭に回らなくなってるのかな、と思う。――痛みは感じないし、苦しくもない、五感自体が麻痺してしまっているみたいだ。

――目の前の誰かの口が、三日月の形に歪むのを見てすぐに、わたしの視界は真っ暗になった。


 目が覚める。

 またいつもの夢。これで何回目だろうか。

わたしは見慣れた自分の部屋の中で、首がつながっていることを手で触れて確認してから、ため息をついた。

カーテン越しに見えるまぶしい光で今日が快晴なのが分かった。周りを見ると見慣れた部屋の光景が広がっている。

カーテンを、手を伸ばして開けると、まぶしい光で思わず目を閉じてしまう。目が少し慣れてから、窓から入ってくる光をぼんやり眺めて、もう一度ため息をついた。

ここ2カ月、晴れの日限定で、わたしはこの奇妙な夢を見続けている。

雨の日や曇りの日は、何の夢も見ず、晴れの日だけは例外なくこの夢を見てしまう。何もない真っ白な空間で誰かに首を絞められる夢。

始めは心配になって病院にも行った。けれど、たいした異常は見られず、見つかったのは不摂生な生活が原因の軽い高血圧だけだった。

なにかの予兆かとも考えたが、2カ月たっても周囲に何の変化もないところを見ると、何かの未来を示している夢ではないのだろう。

体に不調をきたすほど激しい夢ではないので、別段問題はないのだけれど、どこか不気味でこの夢が早く終わってしまうことを、わたしは望んでいた。

だから、最近は天気予報で晴れのマークを見ると気持ちが沈み、雨のマークを見ると心が踊る。

よく分からない無意識下の世界の出来事を考えていてもしょうがない、とは分かっていてもこう何度も続くと何かしらの意味があるような気がしてならない。けれど、わたしにはほとんど他人との関わりがない。したがって首を絞められるほど関係の深い人物の当てがそもそもない。

あの夢がわたしに、何かを伝えようとしている気がしてならないけれど、当てが全くないので、手の打ちようがないのが現状だ。

考えても仕方ない。最近はこうやって割り切るようにしている。何か起きたらその時に考えればいい、そんな風に今のわたしは考えている。

だから、深呼吸をして、気持ちを切り替える。

よしっ、これでいつもの私!

さて。今日も書かなければならない。いつものようにここまで良いペースで来ている。作品が出来るのもあと少しだろう。

そう思って、今日もいつも道理に、わたしはパソコンの前に座った。

でも、何だろう。体が重い気がする。

なんだか違和感を感じながら、当たり前のように文字を書こうとする。

あれっ…

パソコンのキーボードの上に猫みたいに、指を乗せながら20分ほど私は固まって、それから

「書けない……」

 と一言だけ呟いた。言葉は部屋の中に霧散して、後には力の抜けたまま座っている私が残った。


外に出て、ふらふらと当てもなく、わたしは歩き続けていた。

結局、自分が文章を書けなくなった、と気が付いてから、2時間くらい私はパソコンの前で悩み続けていた。しかしテキストは一文字も書くことは出来ず、気分転換と称して外へ飛び出した。

どうしようもなく心細かった。書けないわたしはここに居てはいけないのではないかと思った。いつもわたしを支えていたのは、わたしが自力で作り出していた文章だった。書ける、ということがわたしの存在価値だとずっと考えていた。書けなくなったらどうしよう、という恐怖が現実になってしまった。

わたしは今、本当の孤独の中にいるように感じられた。自分の選んだものでなく、失ってしまい強制的に与えられる孤独。それはわたしにとってとても恐ろしいものであった。

どうして書けなくなってしまったのだろう。自問自答を続けていた。しかしいくら考えても答えが見えてくることはなかった。

こんな経験は初めてだった。いつも何を考えてわたしは文章を書いていたのだろうか。

わたしは頭の中に浮かんでくる文章をただ書き写していた。文章は無限に湧き水のように永遠とあふれてきて、その理屈も考えたことはなかった。どうやって文章が浮かんできたのか、普段は当たり前に思っていて気にも留めていなかったけど、書けなくなってようやくそのことの不思議さに気が付いた。わたしとは何なのだろうか。

ふと、気が付くと、わたしは昨日と全く同じ道を歩いていた。昨日は何にも考えないで歩いてきたけど、感じる。わたしはこれと全く同じ道を歩いていたと。

信号に着いた。対向車線の人たちの顔が一人一人、通り過ぎる車の隙間から見えてくる。

足元を見ている人、スマホを見ている人、何も見ていないようなボーとした人。いろんな人が一瞬一瞬見えてくる。

十字路の信号の色が変わると一斉にそれぞれの進路にむかつて人々が進みだす。でも、わたしは動けないでいた。後ろの人が迷惑そうにわたしの横を歩いていくのが分かった。でも動けない。目が回ってしまったみたいだった。金縛りになって、そのまま回転したように、くらくらと眩暈がした。

信号が赤になるまで動かないで、もう一度青になるのを待つころには眩暈は落ち着いていた。信号を渡り終えると、どっと疲れが出てきた。どこかで休みたかった。

辺りを見回すと昨日通り過ぎた図書館が見つかった。なぜだか、あそこにわたしは行かなくはならないと思った。そしてわたしがここまで来たのもあの図書館に行くためだろうと感じた。理屈ではなく、直感だった。でも何故かこれがわたしにとって一番良いことなのだろう、と信じられた。

図書館の前までふらふらしながらたどり着く。そのままわたしは正面玄関の取っ手に手をかけた。

スウッ、とドアは音もなく開いた。明かりは昨日と同じようについていて、中に人の存在感がまったく感じられなかった。

というより、ここには人が使った気配が全く何もないのだった。

ふらふらした視界で、辺りに何があるかと思い、探すと、一台のソファーがあった。というか、その図書館にはソファーが一台しかいないように見えた。

いよいよ参ってきたな、と思って、わたしはそこまで歩いて行って、ようやくそこに腰掛けることが出来た。

ソファーの座り心地はとても良くて、気が付くとわたしの両目はしっかりと閉じて、意識も夢の世界に入り込んでいった。


 ――いつもの夢の中だった。――真っ白な世界。――現実のくらくらした状態を引きずったままだったわたしには、情報量の少ないこの世界は疲れないから少しだけありがたかった。

 ――人影が見えてくる。――いつもと違って思考はクリアなままだったので、その人影が女性のものであることは分かった。――目の前まで彼女がやってくる。

「……わたし?」

 ――目の前にいるのは、わたしだった。――姿かたち、全く変わらないわたしがそこにいた。

「昨日ぶりね、もう一人のわたし」

 ――彼女はそう言った。――昨日ぶり?

「あなたは、何?わたしは、さっきまで図書館のソファーで寝ていたのだけど……」

 ――この異常の状態にわたしは、意外なことのそこまで驚いていなかった。――なぜだか目の前に自分と全く同じ顔を持っている人がいることが自然なことだと感じていた。

「わたしは、わたし……。あなたもどこかで分かっているのでしょう。ただそれが嫌で目をそらしているだけ。」

――なぜだか、わたしの中にはその答えがあった。――いつもの夢の中でわたしの首を絞めているのが誰なのか。――なぜ現実のわたしが文章を書けなくなったのか。――初めから当たり前のものであるように、それらへの答えが頭の中に入っていた。

「……わたしは、心の中でわたしを許せていない。現実から逃げて、才能に頼り切っている自分が……」

 ――この言葉を自分が言ったのか、それとも目の前にいる本心のわたしが言ったのか、よく分からなかった。――自分の本心が形となって目の前に存在している。そんなありえないことがこの世界では当たり前に成り立っていた。

「わたしは、わたしが嫌い。わたしはわたしにいつも嘘をついている。自分の本心を隠して、自分の生き方を変えないで、形だけを変えて自分の芯を変えないわたしのことが本当に嫌いなの。」

 ――話しているのはどちらでもなかった。わたしと、もうひとりのわたしの間には表面というものがなかった――言葉はなく、お互いの中身がさらけ出されていて、わたしは本心のわたしの中身に、本心のわたしは表面のわたしの中身に、どんどん入り込んでいく。――言語化できない意思疎通の現象が目の前にはあった。

【わたしは、自分の言葉が自分を作っていると思っている。そしてそれが嘘であることも分かっている。ただそれを真実だと信じ込もうとしている。自分の才能が自分を救うと思っている。でも、文章は自分を一切助けてくれないことも知っている。孤独であることが自分の才能を広げさせていると勘違いしようとしている。でも、本当はわたしは自分が嫌い、完全な存在なんかじゃないって知っている。自分を芸術家っていう肩書で飾って、自分を美しい存在だと思い込んでいる、わたしのことが大嫌い。】

 ――言葉でない、脈絡のない思想が入り込んでくる。――正直、怖い。――嘘偽りのない自分の姿が、嘘をつかないわたしを鏡にして見えてきてしまうのが、自分のすべてを否定されるのが、たまらなく嫌で、怖い。――でも逃げちゃいけない、と思った。――ここで本物のわたしに向き合えなければ、夢かもしれないけど偽りのない自分から逃げてしまえば、いずれ自分の支えとなる才能が本当になくなったしまったとき、本当にわたしはこの世界でいられなくなってしまう、と思った。

【わたしは、世界から拒絶されている。わたしの言葉は文字ならみんなから認められるのに、口に出したとたん否定されるの。それが嫌なの。だから言葉の世界に閉じこもっているだけ。それの何がいけないの。生きるって嘘をつくことでしょ。言葉っていう嘘で自分の思考の表面だけを伝えて、それが通じてもいないのを分かっているのに、その事実を次の嘘をつくことで隠しているだけ。みんなそのことを知っているのに、理解することを拒絶しているのよ。そんな噓だらけの言葉が作り出す場所に何の価値があるの。人との会話に何の意味があるのよ。わたしは世界、人間のことを十全に伝えることが出来ないわたしの言葉、周りの言葉が大嫌いなの、辛いのよ。言葉をわたしが作っている、確かにそう。でもわたしが言葉を作るのは、文字で書かれる言葉が初めから嘘としてみんなから受け入れられるから。だからわたしは綺麗な言葉なんかじゃない、不完全な汚い嘘を作っているだけなの。分かるでしょ、もうひとりのわたし。わたしは理解されない真実を隠すための嘘を言うのが耐えられないの……汚れたくないのよ。嘘の色に染まって、そのことを当たり前に受け入れることが嫌なの……】

 怒鳴っているわけではない(言葉をしゃべっているわけではないから)のに、体の中の血が沸き立つのを感じた――嘘のないことを生まれて初めて誰かに伝えることが出来た興奮からだろうか。――言葉のいらない会話でなければ、この気持ちを伝えることなんてできない。――これを口から発してしまえばそれも嘘になってしまう。――だから誰にも言えないし、わたしの作品の中でも書くことが出来なかった。――文章は決して私を救ってはくれない。――だってわたしが文章なんか信じていないからだ

「……知っているわ、そのことをわたしは痛いくらいに知っている。でもわたしは、そんなわたしを受け入れちゃいけないの。わたしは嘘で満ちた人間社会に生きている。嘘をつかないで、汚れないで、生きることを、この世界は生きるってみなしてくれないの。不合理で、不条理だけど仕方ないのよ……」

 目の前のわたしが呟くのが聞こえた。――そのつらそうな声を聞いて涙が出そうになってきて、それから思わず笑いそうになってしまった。――だってここまでのことは全部わたしの独り言のようなもの、自作自演のようなものなんだ。――初めから分かっていた。――でも抗いたくなってしまっただけのことなんだ。

「ありがとう。もう一人のわたし。わざわざわたしに真実に向き合う機会を与えてくれて……。でも、もういいのわたしはこの世界にいていい存在ではない。人を、自分を、世界を、言葉を、芸術を、何も信じることが出来ないわたしには、生きる理由がないの。本当の気持ちなんて初めから分かっていた。わたしは、だれかに認められたかっただけなの。でも、いままでは糸きれみたいに細いつながりを世界に持っていたけど、もういいの。わたしがこの世界にいる理由はない。そのことが分かっただけでいいの。……つながりなんていらないのよ」

 ――もう一人のわたしに背を向けて、わたしは前に向かって歩き出した。ちょっとだけ進んで振り返って後ろを見ると、――そこには誰もいなかった。――わたしは一人きりだった。



……夢がそろそろ覚めるころ、だからここからはわたしの話ではない、だってわたしは世界から生きているとみなされていない、だからここまでは嘘の話。そしてこれからが本当の話。嘘だらけの世界での本物の話……


「本日未明、S県Y町に住んでいる作家のZ氏が自宅で遺体として発見されました。警察は遺体の状態から、彼女が自殺を図ったものとして捜査をおこなっています。また……」

 テレビのニュースからアナウンサーの声が淡々と流れている。言葉で事実を語っている。そこに意味はないし、何の感傷もそこには起こりえない。どこかの場所で自分と関係のない誰かが死んでいる、ただそれだけの話。嘘で塗り固められている言葉の世界の他愛もないお話だ。

……さて、では、ところで、今この話を書いているわたしは一体、誰なのだろうか。

 いままで嘘ばかりを書いてきた、この小説の主人公は夢の中で死んでしまった。嘘の中で生きることに疲れて、誰にも相談しないで死んでしまった。

 わたしは語り手……

 彼女が自らの死を決めたあの図書館の案内人にして、この本当の話の、本物の話の紡ぎ手だ。この主人公の裏面の存在であり、彼女の本心をあの場所でさらけ出していく、そんな役割を持った存在。

 わたしは彼女の宇荒免である一方で、誰でもないし、誰でもある。何でも知らない一方で何でも知っている。だからこそこの意味のなさそうな話の意味も、ほんの少しは分かっているつもりだ。よければ彼女の手向けぐらいに聞いてほしい。

 この物語の主人公、つまるところのZ氏はわたしの予想では死なないはずだった。更生してくれるはずだった。

 何を言い出すのかと思うかもしれないけれど、聞いてほしい。本当はこの話の主人王は最初からわたしであるはずだったのだ。

 嘘ばかりつく彼女の裏面にいるわたしの物語でなければならなかった。

 これは初めから、自分のいままでの本心を隠していた女の子が、自らの裏面を知ってそこから更生する、これはそういうお話のはずだった。

 でも彼女は自分の裏面を本当の自分であると思ってしまった。人間は表裏であるけれど、そのどちらかが真実ということだけはあり得ない。そのことはわたしが一番よく分かっているはずだった。ところが彼女は死んでしまった。自ら生を捨て去ってしまった

 では彼女は何の意味を持ってこの世から、消えていってしまったのだろう。

 結論から言うと彼女は書くことが出来なくなったから死んだのだ。

 嘘をつくことでしか彼女はあの場所にいることは出来なかった、ということだ。

元の世界に戻っても、夢から目覚めても、どうしたって彼女生きることと、書くことが同期してしまっていた。

 では、嘘つきのわたしがわたしに残したメッセージでこの場を閉めたいと思う。嘘つきの本心なんてどこまで行っても嘘でしかないのだから。だからこそわたしは最後くらいは本当の嘘で彼女を終わらせてあげたい、まっさらな嘘で終わらせてあげたい。


 ――拝啓――

 わたしは、嘘をついていました。ここまでの文章はすべて嘘です。わたしの嘘は言葉の嘘であり、真実の隠蔽です。本当のわたしはあんな崇高な考えなんて持ってなくて、どこまでも浅薄で何も知らない存在です。死んでいるくらいがちょうどいい存在です。

 きっとたくさん齟齬があるような気がします。いくつもの嘘で塗り固めても、嘘は嘘でしかありません。すべては明るみにされてしまう運命になります。

 でも、わたしにとっては書くという行為だけは真実です。書けないわたしは死んでしまったほうがいい、これだけは真実です。どうか、この手紙を読んでいただいているあなただけに知っておいてほしい。これだけが真実で、後のことはすべて嘘偽りで構いません。

 あなたは何をしている人ですか、何をしたい人ですか。こんなわたしの残したどうしようもないメッセージを少しでも受け取ってください。

 嘘だらけのこの話は真実を全く持っていないかもしれませんが、嘘はひっくり返せば真実になります。だからこの話はすべて真実でできているかもしれません。この話で語ったわたしの言葉がすこしでも何かの答えにつながっているかもしれないのです。

 そう考えると言葉とはどこまでも嘘である一方で、真実をどこかに内包しているものなのかもしれないのです。

 このことを、名前も知らないあなたに知ってほしいと思います。どんな言葉にも嘘があります、下手するとすべてが嘘かもしれません。

 でもあなたが口にする言葉すべてが、書きだした言葉がすべてが嘘だったとしても、そこから逃げないでほしいのです。

 嘘つきであるから逃げ出してしまった、こんな私から言われても説得力がないかもしれませんがお願いします。

 こんなところでわたしも筆をおかなければならなくなりました。いい加減書けなくなった言葉で何かを作り出すことが辛くなってきました。

 それでは、このあたりで失礼します。またどこかでお会いしましょう。あなたがこのまま生きているのなら……この話もすべて嘘なのかもしれませんから。

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