第9話 杏ちゃん
有馬が死んだ。
大阪で死んだ。交通事故だったらしい。詳しいことは知らない。
ボクは学校に行っていた。留守の間におばさんから電話があって、母さんが伝言を聞いていた。もしよかったら、渡したいものがあるから、明後日の日曜日に来てもらえないか、そういうことらしかった。
有馬が死んだ? 同級生の有馬が死んだ? 病気でも何でもなく、さっきまで元気でピンピンしていたはずの有馬が死んだ? 突然死んだ? ボクにはそのリアリティーがわからなかった。
ボクは何もわからぬまま、山下に電話してみた。山下は知らなかった。電話口で大声を出して驚いた。何度も何度も嘘だろ! と繰り返すばかりで、話がちっとも前に進まなかった。
みゆきにも電話してみた。みゆきと有馬はほとんど接点はないが、みゆきを通じて杏ちゃんにこのことを知らせて欲しくて電話した。やっぱり、嘘っ! という言葉しかなかった。本当に驚くと、嘘としか言えないものなんだなと思った。
あとは誰に電話すればいいんだろう…… いろいろ考えたけど、山下にも連絡が入っていないとなると、ボクには誰に電話すればいいかわからなかったので、もうあとは考えないことにした。
有馬が死んだ…… 嘘だろ…… 急に力が抜けた。
小学6年の時にひいばあさんが死んだことを思い出した。ひいばあさんは90歳を超えていたし、ばあさんは露骨にホッとした顔をしていたから、親戚中泣くなんてことは全然なかった。大往生という言葉を初めて聞いたのはあの時だった。
中学2年の時には若い叔父が死んだ。まだ2歳でしかなかった従弟が可哀そうだと親戚中が泣いていた。でも、その時もボクは泣いた記憶がない。
有馬の死は、その身内の死とは全然違ったことのように思えた。自分と同じような身体をもった同じ年のひとりが、焼かれてこの世からいなくなることを初めて具体的にイメージした。死とは、焼かれて灰になる事、そういう強烈な印象がボクを襲った。
ふと気づいて、みゆきにもう一度電話した。杏ちゃんにこのことが伝わったかどうか気になったからだ。
「杏ちゃんに言ってくれた?」
「うん、伝えたよ」
「なんて?」
「ん? 特に何も。なんで?」
「そうか…… 」
「有馬クンって、杏ちゃんと仲良かったっけ?」
「うん…… まあな」
「ふ~ん…… お葬式は終わってるんでしょ?」
「そうらしい」
「じゃあ、もういいんじゃない?」
「うん、もういいよ…… 一応さ、杏ちゃんちの電話番号教えといてくれる?」
「うん、いいけど…… なんか、杏ちゃんもどうしたらいいの?って感じだったよ」
「そうだよな…… 何かあったらボクから直接連絡するからいいや」
「あのさ…… 余計なことだけどさ…… 有馬クンってちょっと評判悪かったしさ、あんまり…… 杏ちゃんも困るんじゃないかな……」
「…… そうだな」
そうだなと言いつつ、ボクはちょっと納得できてはいなかった。
(死んだんだぞ…… 大阪に行くとか、そういうのとは訳が違うんだぞ……)
そう思った。何がどう違うのか説明できなかったが、みゆきにそれは違うんじゃないかと言いたい気持ちが半分くらいあった。でも、もう半分はみゆきの言うとおりかもしれないと思った。
日曜日、ボクはひとりで有馬の家に行った。彼の家は、新しく宅地開発された丘陵地の一角にあった。中学生の頃、杏ちゃんに告白する練習と言って、彼の部屋に何度も遊びに来たことを思い出した。玄関の雰囲気は当時のままだった。休日だからか、玄関脇の駐車スペースには白いフェアレディ―Zが停めてあった。
「まぁ、神原君、よく来てくれました……」
おばさんはボクの顔を見るなり、もう泣き出してしまった。
おばさんは綺麗だ。昔から綺麗だ。うちの母さんのようなおばさんじゃなく、綺麗なお姉さんみたいな感じで、いつも化粧していて、いい匂いがした。2年前のあの頃と、ちっとも変っていなかった。
家にはおじさんも、有馬の兄貴もいる気配はあったが、ボクが行っても出てくる様子はなかった。それはむしろボクにとってはありがたかった。おじさんに何か言われても、ボクには何をどう答えてよいかわからなかったから。
仏壇の前で手を合わせた。白い板前姿の写真が飾ってあった。いつも見ていた有馬の笑い顔だった。別に特別な顔なんかしていなかった。死というのはごく当たり前に、いつもの隣り合わせにあるんだなと思わせた。
「あれからね、亮ちゃんの部屋をね、少し見てたの。そしたら、いろいろノートが出てきて、神原君がよく遊びに来てくれてたから、おばさん、思い出しちゃって、亮ちゃんのために神原君をここに呼んであげようと思ったの。ごめんなさいね」
そう言って、おばさんはまた泣き始めた。きっとおばさんはもう何日も何日も、こうやって何かを思い出しては泣いているんだろうと思った。
部屋の中からは、有馬が大切にしていた木刀とかヌンチャク、それから赤いラジカセはなくなっていた。大阪に持っていったものはまだこの部屋には戻っていないのだろう。ただ古い教科書を乗せた机とノートが何冊か置いてあるだけだった。
「亮ちゃんは全然勉強してなかったのね。ノートを見ていたら、ほとんどまっさらで綺麗なままだった」
おばさんは、泣き笑いの顔でそう言った。そして、そのうちの一冊を取り上げると、ボクに見せてくれた。その一冊は、ボクは中身を見なくても何が書いてあるかわかるものだった。
「おばさん、全然知らなかったけど、亮ちゃんはガールフレンドがいたのかな? それとも、これからガールフレンドになってもらおうと思っていたのかな? このノートだけ、色々書いてあって……」
おばさんはまた声を詰まらせた。17歳の息子を亡くすということの意味が少しだけわかった気がした。もし、有馬があと数年長生きしていたら、このおばさんはこのノートの存在も知らず、このノートに描かれている相手とは違う誰かを、息子のガールフレンドかお嫁さんとして迎えたかもしれない。
死んでしまったら、もう何も始まらないだろ…… 有馬!
それから、おばさんは有馬の大阪での修業時代のことを色々話して聞かせてくれた。そのいくつかのエピソードはボクも知らないわけではなかったし、おばさん、それはちょっと話が違うかも、と思うことがいくつかあったけど、ボクは黙って聞いていた。おばさんは、息子のことを話す相手がいなかったのかもしれないと思った。
30分くらい話を聞いていただろうか。おばさんも少しは気が済んだようだった。
「そうそう、亮ちゃんの持ち物で、神原君に貰ってもらいたいなと思って……」
少し落ち着いたおばさんが持ってきたのは、ヌンチャクと銀色のペンダントだった。
「こんなの、優等生の神原君には邪魔かもしれないけど、亮ちゃんがいつも持ってたものだから。こっちは、最初のお給料で買ったらしいの。貰ってくれる?」
形見分け…… そういうことなのだろう。
綺麗なおばさんがボクにヌンチャクを手渡す姿はちょっと可笑しい気もしたし、なぜかおばさんはさっきまでの泣き顔から、だいぶすっきりした顔に戻っていたから、ボクも苦笑いしながらヌンチャクを貰うことができた。
あのノートは、おばさんは大切そうに机の引き出しに仕舞い込んだ。おばさんにはこの先、あのノートだけが息子を辿る唯一の思い出になるんだろう。
しばらくしてボクは有馬の家を出た。おじさんと兄貴は最後まで出てこなかった。
来るときは坂を上るのが大変だったけど、帰りは長い坂道を下るから、自転車でも快適だった。
青空が広がっていた。わずかにコントレールの名残りのような筋雲のほかには何もない、それこそ抜けるような夏空だった。天空から遠くの水平線まで、何一つ邪魔するもののない青空が、坂道の向こうにずっと続いていた。
ボクは帰り道、わざと遠回りして杏ちゃんの家の前を通って帰った。一度も行ったことはないけど、勇気を出して呼び鈴を押した。杏ちゃんの弟だろうか? 中学生らしい男子が玄関まで出てきた。
「杏子さん、いますか?」
「はい…… ちょっとお待ちください」
日頃使い慣れない丁寧語でそう言うと弟君は奥へ消えた。
(ねーちゃん、男!)
奥でそう言っているのが聞こえた。ここには普通の生活の声がある……
「神原君? えっ! 何?」
「うん……」
「ちょっと待って。その先に公園あるでしょ? そこで待ってて」
「うん、いや…… これだけ渡そうと思って」
ボクはさっきおばさんがくれた銀色のペンダントをポケットから取り出した。
「クロムハーツじゃん!」
「そうなの? これ…… 有馬のおばさんから預かった」
「有馬クン…… でもなんで私に?」
そうだった…… 結局、中学時代に有馬は彼女には告白できないまま卒業してしまったんだった。最後、何とかしてくれよと懇願されていたのに、ボクはとうとうそれを実現してやることなく卒業してしまった。告白なんて、自分でするもんだろ、という理由付けをしていたけど、本当はどうせ告白を手伝っても杏ちゃんがOKする可能性は低いし、卒業したら、杏ちゃんのこともきっと忘れてしまうだろうと勝手に思ったからだった。
だから、杏ちゃんが知らないのは仕方ない。そして、あの頃の話を杏ちゃんに今さら打ち明けるつもりもない。ただ、これは彼女が持っておくべきものだと思った。
「詳しいことは知らない。でも、受け取ってくれないと困る。受け取れないなら、自分で有馬の家に行って、おばさんに返して」
「なんで神原クンがそんなに怒ってるの? わけわかんないよ」
「あっ、ごめん。そういうんじゃないんだよ。有馬が死んじゃったから、なんか…… 」
ボクはようやく自分が勝手なことを言ってることに気がついた。
「受け取れないなぁ…… 」
「…… 」
冷静に考えるとそうだと思った。ボクは有馬の家を出た瞬間から勝手に盛り上がってしまったけど、杏ちゃんにすればあまりに唐突な話なのだ。前後の事情もわからず、いきなりちょっと重たいペンダントを差し出されても受け取れるはずがない。
「神原クン…… 私知ってるよ。中学3年の時のこと。神原クンと有馬クンがいつもコソコソ相談してたの」
「…… 」
「山下クンがさ、教えてくれたんだよ。有馬がお前のこと好きらしいぞ、って」
山下…… 盲点だった。でもありそうな話だと思った。
「だから、重すぎて貰えない。それ、形見分けでしょ? 本当は神原クンが貰ったんじゃないの?」
見抜かれてる…… 焦った。
「やっぱりね。みゆきちゃんから電話もあったし、神原クンはいきなりやってくるし、なんかそういう予感はしたんだよ」
「…… そっか」
何も言えなかった。
「神原クン。有馬クンのお墓参りに行こうよ。みんなで。行ける人だけでいいじゃん。誘って来る人だけで行こうよ。ね」
杏ちゃんは素直で優しい子だった。だから人気者だったんだろう。有馬が好きになるのもわかる気がした。
翌週、ボクたちは有馬が眠るお墓に行った。お墓は小学校近くのお寺にあった。
中学校を卒業して進路はバラバラだったし、有馬に脅された記憶が生々しい連中も多かったので、そんなに沢山のメンバーは集まらなかったけど、山下やみゆきはもちろん、健太郎も来た。スギちゃんもいた。福ちゃんとおかやんもいた。女子はもっといた。杏ちゃんと同じ女学館に通っている連中がこぞってやってきた。久しぶりに会う子が大半だった。
お寺ではおじさんとおばさんが待っていた。おばさんはボクたちの姿を見るなり、もう白いハンカチで目元を拭っていた。初めて会うおじさんも、ありがとうと言って顔を伏せた。
「おばさん…… 杏ちゃんです」
ボクはおばさんに彼女を紹介した。
「水野杏子です」
さすがの杏ちゃんも、死んだ同級生の母親にかける言葉は知らなかったようで、名前を名乗るのがやっとだった。
おばさんは、杏ちゃんをひと目見ただけで、もう顔も上げられないようだった。その姿に、おじさんが優しくおばさんの肩を抱き、代わりにありがとうと深々と頭を下げた。
古いお寺には古いお墓が整然と並んでいる。あと何百年もすれば、後ろの杜と一体になってしまうんじゃないかと思うくらい、静かな佇まいの中にあった。有馬はこの先ずっとここで眠り、いつしかこの杜そのものになるのだろう。
お焼香の手順もよくわからず、ボクたちはみんなで手を合わせてしばらく目を閉じた。
「亮ちゃん…… 」
おばさんが声にならない声でお墓に呼びかける。失うべきではない人を失った人の哀しみが目に焼き付いた。
おじさんとおばさんは境内でボクたちを見送った。最後に、杏ちゃんの顔をみるおばさんの目は、ボクには有馬の目そっくりに思えた。
ボクたちはお寺の前で無言のまま別れた。
別れ際、ボクは黙ってクロムハーツを杏ちゃんに差し出した。彼女は黙ってそれを受け取った。
この日の空も、昨日と同じ、よく晴れ渡った青空だった。
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