子守 ひとみ(こもり ひとみ)の場合

◇ホラー◇コメディ

子守 ひとみ(こもり ひとみ)の場合

――ぺた。

――ぺた。


 ドアの向こうを行き来する足音が聞こえる。

 小さなトイレの中。

 息を殺してその音が過ぎるのを待つ。

 足音が遠ざかったのを確認して、私は小さく息を吐いた。


「ひとみ先生!」


 私のため息が思ったよりも大きく聞こえたのだろう。

 ささやき声で、それでも鋭く、私を叱責する声がトイレに響いた。


「……すみません、園長先生」


 いつも温厚で笑顔を絶やさない、白髪のおばあちゃん先生に、私は頭を下げる。


――ぺた。

――ぺた。


 また足音が近づき、その音が聞こえなくなるまで、私たちは黙ってうずくまっていた。

 思わずため息をつきそうになったところで、園長先生にキッとにらみつけられ、私は息を止める。

 行き場のなくなった空気が気管を刺激して、大きくむせた。

 咳が止まらない。


「す……すみま……ごほっ! すみませ……ごほっ! げほごほっ!」


――ぺた。

――ぺたぺたぺたぺた。

――ばんっ!! ばんばんっ!!


 いくつもの足跡が集まり、トイレのドアが、力いっぱい殴りつけられる。

 園長先生は「ひぃぃぃっ!」と細い悲鳴を上げ、私を何度も殴った。


「どうしてっ!? あなたはいつもそう! 場をわきまえないんだからっ!」


 園長先生のげんこつから逃げようと、咳き込みながら身をよじる。

 大人二人の体重がドアに一気にのしかかり、鍵のかかっていたはずのトイレのドアは、あっけなく開いた。


――ばぁんっ!


 勢い良く開くドア。

 廊下に倒れる、私と園長先生。

 その周囲には、何人もの子供たちが、私たち二人を見下ろしていた。

 お姉ちゃんになったばかりのひなちゃん。毎朝お母さんを追いかけて泣くゆうたくん。絵本を読むのが大好きなすみれちゃん。

 その顔は頬肉が食いちぎられ、むき出しになった乳歯にゅうしが、血と唾液の混じった液体に濡れ、ぬらぬらと光っていた。

 全員の口が、示し合わせたようにぱかっと開く。

 園長先生は私の体を押し出すようにして、トイレに逃げ帰ろうとしていた。


「えっ?! 園長先生! やめっ……押さないでください!」


「ひっ! ひとみ先生のほうが美味しいわよ! ほら! 私はおばあちゃんだから!」


 もう六十歳も超えているはずなのに、ものすごい力だ。

 私は廊下に押し付けられた体勢のまま身動きが取れなかった。

 視線の端に、みゆきちゃんとしんじくんの顔が近づき、血の混じった唾液が顔にたれた。


「そうよ~、ちょっと若いからってみんなちやほやするけど、無能なひとみ先生は食べてもいいですよ~。園長先生は怒らないわよ~」


 園長先生の目は血走っている。

 そうだ、この人はいつもニコニコしながら、かなりキツいことを平気で言うのだ。

 普段のパワハラすれすれの行動を一気に思い出し、私は園長先生の襟元を両手でしっかりとつかんだ。

 折りたたんだ足で園長先生の腹を蹴り上げ、襟首をぐいっと引っ張る。

 巴投げ。

 高校まで続けていた柔道の技が、思わずさく裂した。


――どぉんっ!


 しょうごくんとみかちゃんと、そのほかよくわからない子供たちを押しつぶして、園長先生の体がきれいに一回転する。

 頭の中で「いっぽぉぉんっ!!」と叫びながら、私は素早く立ち上がった。

 肺の空気を押し出されたのだろう、立ち上がることもできずに咳き込む園長先生へ、子供たちが群がる。

 一人だけ、私の足にかじりつこうとしたかなでちゃんの頭を蹴り飛ばし、私は廊下から外へ出た。

 背後で、生きたまま四歳児のゾンビに食べられる園長先生の悲鳴が聞こえる。


「じゃ、おばぁちゃん先生、お先しつれいしまぁす」


 直接言ったら絶対にブチキレられる挨拶をする。

 園庭に置いてあった刺又さすまたをもって、近づいてきた大人のゾンビを殴り倒した。

 もう明日からこのブラックな職場に来なくてもいいのか。

 そう思うと、何か心に沸き立つ気持ちがあった。


「ゾンビバンザイ!」


 大きい声で叫び、近寄ってきたゾンビをまた殴り飛ばす。

 私は晴れ晴れとした気持ちで、家への道を歩いた。


――子守 ひとみ(こもり ひとみ)の場合(完)

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