野鐘 来斗(のがね らいと)の場合

◇ホラー◇ヒューマンドラマ◇恋愛

野鐘 来斗(のがね らいと)の場合(1/3)

「ありがとうございました」


 早朝の道場。

 冷たい床に姿勢を正して、ぼくはじいちゃんに頭を下げた。


「なかなか体捌たいさばきがさまになってきたのう」


「じいちゃんの教え方が上手いからだよ」


「ちがうぞ、来斗らいと。お前の父親はいくら教えても上手くならんかった。やはり野鐘のがね流には野鐘の血が――」


「あ、ごめんじいちゃん、ぼく学校だからいそがなきゃ」


 この話になるとじいちゃんは長い。

 父さんの悪口も好んで聞こうとは思わないから、ぼくは慌てたふりを装って道場を出た。


 婿養子として入った野鐘の家で、父さんだって家を継ごうと努力はしたのだ。

 武術の才能が無かったとしても、家族を愛し、今は鹿翅町しかばねちょう役場で仕事をしている父さんをぼくが尊敬していることに変わりはなかった。

 もちろん女の子一人しか子供が生まれず、古流武術『野鐘流柔術のがねりゅうじゅうじゅつ』を一子相伝で伝えるために婿養子までとったじいちゃんの焦る気持ちも分からないでもないし、こっちももちろん尊敬している。

 だからこそ、尊敬する家族が尊敬する別の家族を悪く言うのは、聞いていて気持ちのいいものではなかった。


 道場から家まで、広い庭を小走りに横切る。

 9月の鹿翅島しかばねじまは、そろそろ秋の風が冷たくなる季節だった。


「おはよう、来斗らいと!」


 かららっと言うサッシの開く音と同時に、隣の家の二階から明るい声がかかる。

 やっと射しはじめた朝日のまぶしさに目を細めながら、ぼくはいつもの幼馴染の姿を見上げた。


「おはよ、桃花ももか。……もう高校生なんだから、パジャマ姿で窓を全開にするのはやめた方がいいよ」


「なによー。私のパジャマ姿を見るためなら何でもするって人が世の中にはたくさんいるのよ? 朝からいいもの見せてあげてるんだから、よろこびなさいよね」


「はいはい。お優しい生徒会長さま、ありがとうございました」


 芝居がかったお辞儀をして、ぼくはちらっと視線を上げる。

 胸をそらしてふわふわのパジャマを見せつけるようなポーズをとっていた桃花と目が合うと、ぼくらは同時に吹き出した。


「あははっ。そろそろ肌寒くなってきたから、ちゃんと汗を流して、ご飯も食べてね。いつも通り7時に迎えに行くから」


「――おねえちゃん。おせっかいな女は嫌われるわよ。来斗お兄ちゃんも苦労するわね」


 おせっかいな桃花へちょっと言い返そうとしたぼくに、生垣の外から声がかかる。

 視線を向けた先では、生垣の隙間から、赤いランドセルを背負ったかわいらしいツインテールの女の子が、ぼくらに笑いかけていた。


「やぁ桜子さくらこちゃん。どうしたの? こんなに早く」


「今日は学校で『あいさつ運動』があるの。だから一番乗りして、桜子の笑顔を全校生徒にふりまいてあげよう思って」


「相変わらずだなぁ桜子ちゃん。あいさつ運動かぁ……じゃあ、まだ薄暗いから気を付けてね」


「うん! 来斗お兄ちゃんも風邪ひかないようにね! いってきまーす!」


 姉妹そろっておせっかいな桜子ちゃんを見送り、桃花にも手を振って、ぼくは冷たくなり始めた汗にぶるっと身を震わせながら母屋へと退散する。

 シャワーを浴び、食事をとって、迎えに来た桃花と家を出るのは7時12分。


 いつも通りの金曜日。


 でも、その日がいつも通りだったのは、そこまでだったのだ。


  ◇  ◇  ◇


 早朝から稽古があって、シャワーも浴び、おいしく食事もいただいた。

 朝の太陽は体を温め、となりでは桃花ももかが飽きもせず昨日見た音楽番組の話をしている。


 つまり、何が言いたいかと言うと、ぼくはとても眠かった。


「……ぁふ……」


 大きな欠伸あくびをしたぼくを見咎め、桃花はポケットからハンカチを取り出して、目じりに滲んだ涙をぬぐってくれた。

 文句を言われることを覚悟していたけど、その言葉はなかなかやってこない。

 完全につむっていた目を開くと、桃花は体を傾けて、道路の向こう側を見つめていた。


 視線の先を追う。

 そこには、ここからでも分かるほど顔色の悪い男が2人、道端にもつれるように倒れているのが見えた。


 当然、桃花がそんなものを放っておけるわけがない。

 駆け寄り「大丈夫ですか?!」と声をかける桃花に向かって、倒れていた男たちはもぞもぞと体を動かし、不気味な唸り声をあげた。


「ヴぁあぁァァあァ……」


「きゃぁぁぁ!」


 青紫色に変色した手が、桃花の手首をつかむ。

 普段とは全然違う幼馴染の声に、ぼくの眠気は吹き飛んだ。


 体重移動から、地球の重力を借りて体を前に進める。

 一気に距離を詰め、桃花の手首をつかむ変色した手に手刀を打ち下ろした。


 普通ならここで相手の手はしびれ、手首をつかみ続けることは出来なくなるはずなのに、その男は唸り声をあげたまま体を起こす。

 頬の肉が無くなり、どす黒い血で染まった男の顔を見た瞬間、ぼくは恐怖でパニックを起こし、思わず男の眼窩がんかに指を突き立てていた。

 マンガのようにブイサインで目を突くのではない。

 手のひらを親指と人差し指、中指、薬指と小指の3本に分け、中指を相手の鼻筋に滑らせるようにして下から突き上げるのだ。

 指の第二関節まで相手の顔に突き刺さった指を手の腹でそのまま押し、ぼくは何とか桃花からその男を引きはがすことに成功した。


 右手に感じた血液は不自然に冷たい。

 背中の毛が逆立つような不快な感覚に、ぼくは「うわっ! うわあぁっ!」と意味のない叫び声をあげてしまった。


来斗らいと! なにっ?! なんなのっ?!」


 ぼくの体にしがみつき、涙を浮かべる桃花にぼくは何と言ってやればよかったのだろう?

 その時ぼくは頭が真っ白になってしまって、彼女を落ち着かせる言葉すらかけてやることが出来なかった。

 ぼくの指が脳まで達したはずの男はピクリともせずに横たわっている。

 しかし、もう一人の同じような男は、目の前で仲間がやられたのを見ていたにも関わらず、あの恐ろしい唸り声をあげながら、ぼくたちの方へと体を向けた。

 気が付けば左手で桃花の手を引き、ぼくは無言で走っている。

 通いなれた通学路。

 道の端に、普段気にとめることも無い『交番』の文字を見つけたとき、ぼくはやっと足を止めることが出来た。


「来斗! ねぇっ! 痛いよ!」


「あ……ごめん」


 強く握っていた左手を離すと、すねたような表情の桃花は赤くなった手首をさする。

 息を整え、交番へと向かうぼくたちの耳に、またあの唸り声が聞こえた。


「ヴァあぁぁアァァぁぁ……」


「ひっ?!」


 交番から現れたのは、ぼくたちを守ってくれるはずの警察官。

 ただし、その頬は肉が無くなり、むき出しになった歯はどす黒い血にまみれていた。


「なんだよ……? なんなんだこれ……?」


「来斗、怖い……」


 いつも元気のいい桃花が、ぼくの腕につかまって震えている。

 また逃げ出しそうになったぼくは、幼馴染の泣き顔を見て思いとどまった。


 警官がふらふらと近づいてくる。

 その向こう、大通りには同じようにふらふらと歩くたくさんの人たち。

 いや、もう人ではないのかもしれない。

 人の姿はしているけど、体温すらない……バケモノ。


 もうすでに乾き始めている血にまみれた右手をぎゅっと握ると、ぼくは桃花を左手で抱き寄せた。


「大丈夫。ぼくがいる」


 バケモノに向かって半身に構え、ゆっくりとしたその動きを見極める。

 右、一歩。

 左、一歩。

 また右。

 バケモノの足が地面に着く瞬間を狙って、軽く右肩を押してやる。

 地面につくはずだった足が宙に浮いて、バケモノは簡単にバランスを崩した。

 ぐらりと大きくかしいだ体は左足一本で危ういバランスをとっている。

 体をまっすぐに立たせようとする動きに合わせて足を払い、上半身を反対側に引いてやる。


 バケモノは冗談のように空中でくるんと回転し、側頭部からアスファルトに突っ込んだ。


「……桃花はぼくが守るよ」


 大丈夫。バケモノ相手でも『野鐘流柔術のがねりゅうじゅうじゅつ』の技は使える。

 普通の人なら脳震盪を起こして身動きが取れなくなっているはずなのに、それでももぞもぞと動くバケモノを見下ろして、ぼくは自信を取り戻しつつあった。


 警官の制服から警棒を取る。

 本当は拳銃の方がよかったのだけど、使い方もよくわからなかったし、予備の銃弾とかがどこにあるのかも分からないのでやめにした。

 警棒の重さを確かめ、こちらへ向かって歯をむき出しにするバケモノの顔へと狙いを定める。

 眼窩がんかに突き付け、警棒にグイっと力を込めると、バケモノはびくんっと大きく痙攣けいれんして動きを止めた。


 やっぱり、さっきのバケモノと同じだ。


 たぶん、脳を傷つければ動きが止まるのだろう。

 まるでゾンビ映画だなと、余裕の出てきたぼくは思わず笑った。


来斗らいと?」


「あぁ、うん。大丈夫。とにかく家に帰ろう」


 左手の指をからめ、手をつなぐ。

 ぼくはこの時のために古流武術なんてものを習っていたのかもしれない。


 桃花の手は、さっきのバケモノ……ゾンビたちと違ってとても暖かく、ぼくにはなんだかそれがとても嬉しかった。

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