中柱 樹(なかばしら いつき)の場合(5/5)

 男の一人が杏子の手首をつかみ、引き寄せて腰を抱く。

 もう一人の男は何の警告もなくいきなり僕に向かって先の曲がった鉄パイプを振り下ろし、僕は間一髪でそれを躱して地面に転がった。


「オイねぇちゃん。もう大丈夫だぜ」


「へへっ、良いもん見つけたなおい!」


「ああ、俺たちはツイてる。早くそのゾンビ殺してベッドのあるとこに行くぞ」


「だな。しかしよ、このゾンビ、生意気に攻撃避けやがったぜ」


 コンクリートの地面にぶつかって火花を散らした鉄パイプを持ち上げ、僕に対峙した男は寝転がる僕の腹に蹴りを入れる。

 痛みと言う感覚があれば僕はそれで身動きもとれなくなって終わりだったかもしれないが、あいにくとレヴナントである僕には、そんな素敵な感覚は残っていなかった。


 みぞおちにめり込む男の足を落ち着いて両手で握り、思いっきり後方へと放り投げる。

 僕が手を離すタイミングが遅れたせいで、吹き飛ぶはずの男の体は地面にバウンドし、握っていた足首は根元からぐにゃりと曲がった。


 立ち上がり、服についた埃を払う僕を残った男は呆然と見つめる。

 しかし呆然としていたのは束の間で、杏子を突き飛ばしたそいつは、両手で鉄パイプを構えた。


「てめぇこのゾンビ野郎! 生かしちゃおかねぇ!」


 さっきの男とは違って、この男はたぶん剣道でもやっていたのだろう。僕の力も理解した上で、不用意に近づいてくることもなく、間合いを計りながら素早く的確に攻撃を当ててくる。

 スピードとリーチで圧倒的な差をつけられた僕には、この広い駐車場でこの男を捕まえるすべはなかった。


「死ねっ! 死ねっ! 死ねっ! ゾンビ野郎っ!」


 勝利を確信した男は、満面の笑みで僕の体を打ち据える。何とか頭への直撃は避けていたし、僕の体は痛みも疲れも感じなかったけれど、着実に蓄積したそのダメージは、物理的に僕の動きを鈍くさせて行った。


 本当に突然、自覚もないまま、僕はがっくりと膝をつく。

 腕も上がらない。立ち上がることもできない。

 僕は男の鉄パイプが高く持ち上げられ、僕の頭に狙いをつけるのを、なすすべもなく見つめていた。


「ハッハァー! 死ね! ゾンビ野郎ぉ!」


 男が息を吸い、そう叫ぶ。

 僕の視界は恐怖で赤く霞がかった。


――グシャァ!


 鉄パイプが頭蓋骨にめり込む音が聞こえる。

 こんな時ですら、僕は痛みを感じることは無かった。


 地面に飛び散った血と脳漿が僕の視界いっぱいに広がり、その血と肉の匂いは僕の食欲中枢を刺激する。

 思わず口の周りの血と肉片を飲み込むと、何とも言えない背徳感と共に体の隅々に活力がみなぎるのを感じた。


「樹! だいじょうぶ?!」


 杏子の声が聞こえる。本当にこの子は……言っちゃ悪いけど少し考えが足りない所がある。

 大丈夫な訳がないじゃないか。僕はたった今鉄パイプで頭蓋を割られたんだ。


 そう考えた僕は、いつまで経っても死が訪れないことに疑問をいだき、血糊で塞がれた目をこすって辺りを見回した。


 最初に目に入ったのは、両手で鉄パイプを握り、ガクガクと震えている杏子の姿。

 そして、目の前に転がっている頭を割られた男の死体。


 僕はこの状況から一番納得できそうな結論を導き出した。


「……大丈夫」


「……よかったぁ……」


 僕の返事を聞いて、たぶん僕の命の恩人であろう女の子はヘナヘナと地面にへたり込むと、目の前に転がる自分が殺した男の死体に視線を移し、僕の見ている眼の前で突然嘔吐した。

 鉄パイプを放り投げ、地面に手をついて苦しそうに胃の中身をぶちまける。

 女の子としては決して可愛らしいとはいえないそんな姿を見て、僕は慌ててコンビニから大量のペーパータオルとペットボトルの水を持ってきた。


「ほら、これで口をすすいで」


 杏子は水を手に取り、口をすすぐ。よほど苦しかったのだろう、涙と鼻水でグシャグシャになった顔をペーパータオルで拭くと、化粧の取れた顔を僕の肩に押し付けて、ジャケットにしがみついた。

 地面に転がる死体を見ないようにしながら、彼女は声を上げて泣き始める。

 声につられ、周囲からゾンビが寄ってくる気配を感じて、僕は彼女を抱き上げた。


「ごめん、嫌だろうけどちょっとだけ我慢して。ここは危ないから」


「……がま……ん?」


 自宅へ向かってまた走り始めた僕の腕の中で、杏子はすすり泣きながら僕を見上げる。

 化粧の匂いが薄れ、食欲をそそる人間の匂いをより強く漂わせはじめた彼女から、僕はなるべく顔を離した。


「そう、我慢だよ。こんな……ゾンビみたいな僕に抱きしめられることをね。怖いだろうし嫌だろうけど、ここを無事に抜けるまでは――」


「――怖くないし、ぜんぜん嫌じゃないわよぉ! なんでそんなこと言うの?!」


 杏子は僕の言葉をさえぎって両手を僕の首に回し、頬を摺り寄せる。

 彼女の涙が僕の乾いた皮膚を濡らし、彼女の体温が僕の冷たい皮膚を温めた。

 柔らかい髪から立ち上るシャンプーのいい香りが彼女の人間の肉の匂いを薄れさせ、僕は束の間普通の人間に戻ったような気持ちになる。

 生きている間には味わえなかった恋人を抱きしめるような感覚を、僕は心ゆくまで味わった。


「……樹はゾンビじゃないし、優しいし、全然怖くないよ。それにかっこいいもん、嫌なわけないじゃない」


「……僕は確かにゾンビじゃないけど、でも……人間でもない」


「人間よぉ。人間じゃないのは、さっきの男たちだわ」


 彼女のささやきに、僕のゆっくりとしか動かないはずの心臓が高鳴る。

 涙を流すことが出来たなら、絶対に泣いてしまっていただろう。僕は涙の出ないレヴナントであるこの体に、初めて感謝した。


 とても可愛らしくて、無邪気で、こんな僕を人間だと言ってくれる。

 暖かくて、すべすべしていて、いい香りの……杏子。


 想像の中で思い描いていた理想の女の子とは全然違う。清楚でもないし、黒髪でもないし、身長だって僕と同じくらい高いし、きっと文学の話なんか出来ないだろう。

 それでも僕は、この眼の大きい派手な格好の可愛らしい女の子に、たぶん、生まれて初めての恋をしていた。

 冷静な部分の脳が、これはつり橋効果に騙されているだけかもしれないと警鐘を鳴らしたが、その他の――大多数の――脳には天使が舞い、教会にあるような鐘を高らかにならしてラッパを吹いていた。


「う……さっき……の男……うぷ」


「……杏子?」


「……おえぇぇぇ……」


 自分が頭をつぶして殺した男の死体を思い出した杏子は、僕の頬に顔を寄せながら盛大に嘔吐する。

 僕はジャケットの襟首から熱い吐しゃ物が背中に流れ込むのを感じ、気持ち悪さよりも可笑しさがあふれ出すのを止められなかった。


「……うわ……ぷっ……くくっ、杏子、ぷくくっ……もう……思い出さないで……くっくく」


「笑い事じゃ……おえっ……ないわよぉ……うえぇ」


 僕は吐しゃ物が気管に詰まったりしないように彼女と対面するように抱えなおすと、苦しそうに反論する彼女の背中をさする。

 確かに、笑い事じゃない。

 あまり上等とは言い難い男と付き合っていたとは言え、彼女の生活はこれまでとても普通だっただろう。

 それが突然、ゾンビであふれる街で恋人は殺され、彼女自身も犯罪者のような男たちに拉致されかけ、ゾンビのような男――それはもちろん僕だ――の命を救うために、鉄パイプで人を殴り殺すことになったのだ。


 人が人を殺す。


 それはとても恐ろしい行為で、一生のトラウマになってしまっても何らおかしくない。

 この可愛い女の子は、僕のためにそんな重大な決断をしてくれたのだ。


 もちろん、杏子のことだ。そこまで深く考えず、勢いで行動したと言うことも十分考えられる。

 それでも、彼女のその行為は利他的でとても人間らしい行為だと言えるし、そのことに対して、僕は己のすべてをかけて感謝の気持ちを表さなければならないと思った。


「……そうだね。笑い事じゃないね。杏子、ほんとにありがとう。僕の――」


 一瞬僕は言葉に詰まる。でもやっぱりそれ以外の表現を思いつかずに、心の中の気持ちをそのまま話すことにした。


「――僕の命を助けてくれて」


 もう胃の中は空っぽになったのだろう、まだ吐き気をこらえながらも少し落ち着いた様子の彼女は、抱っこされる子供のような格好で僕の首に回した腕に力を込めた。

 彼女のぬくもりに心が穏やかになってゆく。

 やがて、見慣れた我が家が視線に入った。


 明日朝9時、ここから歩いて30分ほどの所にあるフェリーふ頭へ彼女を送り届けるまで、まだ17~18時間もある。

 それまでは僕の家でかくまうのが一番安全だろうと僕は思っていた。

 彼女をかくまうためには、父さんと母さんにちょっと我慢してもらうことになるだろうけど、僕は初恋の相手を無事に送り届けることだけを最優先する。


 明日になれば離れ離れになり、もう二度と出会うことは無い初恋の人。

 それでも僕は彼女を送り届ける。


 それは僕の人間としての尊厳を守るために必要な行為であり、愛するものを守りたいと言う、最も人間らしい感情の表現でもあるのだから。



――中柱 樹(なかばしら いつき)の場合(完)

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