中柱 樹(なかばしら いつき)の場合(2/5)

 鹿翅島の朝は早い。


 電気の供給が絶たれているため、日の出とともに起きだして、日没とともに眠ると言う生活が、一番効率がいいからだ。

 少なくとも、僕らレヴナントにとってはそうだと言う事だけれど。


 人間は日が高く昇ってから行動を開始し、暗くなってからも乾電池の懐中電灯などを使って起きている事が多い。僕らのような生活をした方が効率がいいのは明らかなのだけど、自分の生活リズムと言うものを変えられずにいるようだった。


 それから、ゾンビは元々視力がほとんど働かないため、昼夜関係なくごそごそと動いている。

 どうやら睡眠も必要ではないらしいけど、彼らは彼らなりに生きていたころの生活をなぞるようにしている。

 夜は、物音や人間の匂いを嗅ぎつけない限り、基本的にどこか物陰でじっとしていた。


 今日もそんな息をひそめるような夜が明けた。


 カーテンを開け放してある部屋に、明るい朝日が差し込む。

 寒さも暑さもほとんど感じなくなった僕は掛布団を必要としないのだけれど、慣例的にと言うか、様式として掛けていた布団をはがし、体を起こした。


 ベッドに腰掛け、ベッドサイドに置いてある読みかけの新書をずらすと、その下から現れたノートを開く。

 ゆっくりとボールペンを持ち上げ、文字の書かれた最後の行に、今日の日付と自分の名前を書いた。


――中柱なかばしら いつき


「なかばしら……いつき」


 声に出して自分の名前を読み、昨日までに書いた文字と今日書いた文字を比べる。

 大丈夫だ。僕はまだ知性を持っていて、ただ人を襲うゾンビにはなっていない。


 ノートを閉じ、ベッドから起き上がった僕は、そのままゆっくりと階段を降り、洗面所に汲み置きしておいた水で顔を洗って歯を磨く。

 ひげはレヴナント化して3日目くらいから伸びなくなっていた。

 じゃぶじゃぶとすすいだタオルを良く絞り、顔についた水滴をふき取る。

 ゾンビ化した皮膚はどうも治癒しないようなので、僕は生前のようにゴシゴシこすらずに、丁寧にふき取るようにしていた。


 鏡で少し変色し始めている自分の皮膚を確認していると、背後から「ヴぁあぁ……」と言う唸り声が聞こえる。

 廊下をのそりのそりとこちらへ近づいてくるのは、白く濁った眼と頬肉の無い骸骨そのものの顔をした2体のゾンビだった。


「おはよう、父さん。母さん」


「……ヴぉおおぉぉあぁぁぁ……」


 両親は一瞬動きを止めたけど、そのまま何事もなかったかのようにリビングへと歩いてゆく。絞ったタオルを伸ばして壁に掛けた僕は、その後ろを同じスピードで歩いた。


 田中先生の「レヴナントはゾンビ化に対抗する何らかのDNAをもつ人間」だと言う仮説を僕は眉唾だと思っている。

 でなければ、DNA的に近いはずの家族の中で、僕だけがレヴナントになり、両親がゾンビ化しているのはおかしいからだ。

 それでも、僕はいつか両親が意識を回復して、レヴナントになってくれるかもしれないと言う淡い希望を持っていた。


 以前は僕の父と母だったゾンビは、今日も一日中リビングの中でずっと立ち尽すのだろう。

 生前の両親は喧嘩をするわけでもなく、取り立てて仲が良い訳でもなかった。お互いがそこに居るのを当たり前のように、もっと言えば居ても居なくても構わないようにふるまい、最低限の会話を交わし、別々の部屋で眠る。そんなよくある熟年夫婦だったと思う。

 僕が中学生になった7~8年前まではそんなじゃなかった気もするけど、よく覚えていない。

 そんな2人がゾンビになった今、同じ部屋で夜を過ごし、リビングで低いうなり声をあげながら昼を過ごしているのは少し不思議だった。

 もしかしたら一番幸せだったころの記憶をたどっているのかもしれない。


「いってきます」


 リビングの定位置に立ち尽くす両親を確認すると、僕は玄関にかけてあるジャケットを羽織り家を出た。


 今日も天気がいい。もともと鹿翅島の秋は晴天が多いのだけれど、今年は特にそうだ。

 キンモクセイの香りが3軒向こうの井上さんの家の庭から漂い、僕は深呼吸をしてその香りを楽しんだ。


 レヴナントになってからはを意識的に行っている。ふと気が付くと、僕は自分が呼吸をしていないことに気が付くからだ。

 呼吸をしていなくても死なない。いや、もう死んでいるから呼吸を必要としない。

 その現実はとても恐ろしく、僕のゆっくりと動く心臓を締め付けた。


 不安な気持ちを振り払い、僕は自分の体の隅々にまで気配りを行きわたらせながら、細心の注意を払って散歩をする。

 普通の人間が、のんびりと散歩を楽しむように。


 足をゆっくりと前へと進め、バランスをとるために腕を振り、同時に自然な呼吸で肺に空気を満たす。虚ろになりがちな視線を自然に周囲の風景へと向け、見えた景色と古い記憶を意味もなく結びつけながら想像をする。新しいスニーカーがアスファルトの上の砂を刻む音を楽しみながら、その規則正しいリズムに合った音楽を脳内でリピートする。


 人間だったころには何気なく行っていた行為。


 それが出来ることを一つ一つ確認して、僕はまだゾンビではないと自分の中で結論付けてゆく。今はそれだけが僕の心の均衡を保ってくれていた。


「おい! 俺のかっこいいとこ見てろよ!」


 突然交差点の向こうから若い男性の声が辺りに響く。

 周囲をふらふらと歩いていたゾンビたちが方向を変え、音のした方へと集まり始めた。

 その間にも、塀の陰に隠れて見えない交差点の向こうからは、以前よく聞いた「人間がゾンビを何か鈍器のようなもので叩き潰す音」が何度も続く。

 僕は近くの家へと勝手に入り込み、その音から逃れた。


 また、ゲーム感覚でゾンビを殺しに来た人間だろう。

 駅前やフェリーふ頭と違って、この古い住宅地ではあまり見ないのだが、それでも、時々獲物を求めた人間が侵入してくることはある。

 彼らから見れば僕の外見はゾンビそのものだ。わざわざ殺される危険を冒してまでコンタクトをとる必要もないだろう。

 それでも僕は好奇心に導かれて物陰を移動すると、穴の開いたコンクリートブロックの隙間から、その人間たちを覗き見た。

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