甘尾 小丸(あまお こまる)の場合

◇ホラー◇ヒューマンドラマ

甘尾 小丸(あまお こまる)の場合(1/3)

 朝食の用意をしている最中にガスの炎が引火して、黒こげになった母親の死体を前にして、「甘尾あまお 小丸こまる」は床にぺたんと座っていた。

 バイクに乗った変身ヒーロー「ライダー」がプリントされたパジャマを着て、ただその消し炭を見ている。

 死の直前、大好きだった母親が発したあの恐ろしい唸り声が、彼の耳にまだハッキリと残っていた。


 午前6時30分。

 もう30分もそうして座っている。


 ついにのそのそと立ち上がった小丸は、ぷすぷすと煙を上げる死体を大きく回り込んでダイニングテーブルへ向かい、母のバッグからスマホを取り出し、「パパ」と書いてある番号へ電話を掛けた。


『……現在、この地域への電話はつながりにくくなっております。しばらく待ってからお掛けなおしください』


 聞いたことのないアナウンスが繰り返し流れる。

 小丸は無言で通話を切ると、幼稚園の制服に着替え始めた。


(ママじゃなかった。あくのそしきのかいじんだった)


 あれはライダーが戦う「悪の組織」の怪人だったと小丸は頭の中で何度も繰り返す。


 炎に包まれる前、台所で唸り声をあげていた母親の姿。

 白く濁った眼。剥き出しの歯茎と血まみれの歯。


 大好きだった母親の変わり果てた姿に涙が溢れそうになり、ボタンを締めようとした手が震えた。

 歯を食いしばってスモックの袖で涙を拭き、一生懸命ボタンを締める。


(パパに教えなきゃ。それからパパといっしょにママを助けにいくんだ)


 黄色い幼稚園の帽子をかぶってゴムひもを首にかけ、肩からバッグを斜めに掛けると、彼は母親のスマホと戸棚から取り出した食パン、そして冷蔵庫の小さな牛乳のパックを入れる。

 ちょっと考えた後におもちゃ箱から変身ブレスレットと変身カードも取り出してぎゅうぎゅうに詰め込むと、納得してファスナーを締めた。


 母親の遺体に目を向け、すぐに目をそらして玄関へと向かう。

 目的地は父親の勤める消防署だ。


 家から4キロ。それは幼稚園児の小丸には絶望的な距離だったが、彼にはそれ以外に思いつく選択肢は無かった。


 まだ5歳の少年は、母親がゾンビに変わってしまったとは思っていない。

 小丸の大好きな母親は、きっと悪の組織につかまっているだけだと信じている。

 世界で一番……いや、「ライダー」の次に強いと彼が思っている父親に会うことが出来れば、全ては好転すると無邪気に考えていた。


 買ってもらったばかりのエナメルに輝くスポーツシューズを上手に履いて、玄関をそっと開く。

 キィっと小さく軋んで開いた扉の隙間から冷たい風が流れ込み、小丸は思わず目を瞑った。


――ぴちゃ


 足元に、水道からしずくが落ちるような音がする。

 恐る恐る目を開けた彼の足元には、赤黒い水がぽたり、ぽたりと落ちてきていた。


 落ちてくる赤い水をたどって目を上げる。


 そこに居たのは、悪の組織の怪人。


「……ヴぁァァああぁァ」


 剥き出しの歯茎から、血と体液の混じり合った液体を垂らしながら、それはドアに手をかけ、小丸を見下ろしていた。


 言葉も出ない。


 しかしそれでも、彼の本能の部分が頭の中で「逃げなきゃ! 逃げなきゃ!」と何度も警報を発した。


 ドアを閉めて家に入ろうとしたが、ゾンビの手がドアにかかっていて、小丸の力では閉めることが出来ない。

 仕方なく彼は目の前のゾンビの足とドアの間の小さな隙間を抜けて、玄関を飛び出した。


 ゾンビの足に触れた肩から、ぞわぞわとした嫌悪感が体に広がる。


(怖い! 怖い! パパ! ライダー! 助けて!)


「ヴぁあぁァア!」


 足元を通り抜ける小丸に向かって手を伸ばしたゾンビは、その無理な体勢のためにバランスを崩し、ドアにぶつかって転がっていた。

 その隙に、彼は駅とは反対方向へと走る。

 何度も母親の車で迎えに行ったことがある、父親の居る消防署への道を思い出しながら。




「ヴぁアァぁぁあ……」


 よたよたと歩くゾンビを電信柱の陰に隠れてやり過ごし、小丸は川沿いの遊歩道へと走った。

 車で走った消防署への道は、既に見失ってしまった。

 と言うより、そもそもそんなに正確に覚えていた訳でもない。

 道に迷って途方に暮れていた小丸だったが、その時、街並みの屋根の上から、良く知るアンテナがチラリと目に入った。


 消防署の情報棟にある、大きなパラボラアンテナ。


 泣きそうになっていた小丸は、それを見つけると元気を取り戻した。

 でも、街中まちなかを歩いていると小丸の身長ではすぐにアンテナを見失ってしまう。

 そこで、高い堤防になっている遊歩道を目指したのだ。


 母親と何度も散歩をした川沿いの遊歩道からは消防署が良く見える。

 それは良く覚えていた。


 息を切らせながら階段を駆け上がると、彼の眼に見慣れた景色が広がった。


「消防署!」


 その建物はまだまだ遠かったが、それでも思わず声が出る。

 慌ててゾンビに聞かれていないかと周りを見回したが、周囲にゾンビの姿は無く、彼は近くにあるベンチによじ登って腰を下ろした。


 偶然ではあるが、小丸の選んだこの道は正しい。

 ゾンビは立体的な段差の移動をあまり得意としていないため、よほど目立つ目標でもない限り、この急な階段を通らなければたどり着けない遊歩道には寄ってこないのだった。


 普段こんなに歩くことはない。

 疲れた小丸は、バッグの中から食パンと牛乳を取り出し、消防署を見ながらぱくりとかぶりついた。

 味をつけていない食パンと牛乳。

 味気ない食事は、それでも彼にまた歩き出すためのエネルギーをくれた。


 足をぶらぶらさせながら食事をしている小丸の背後、草むらから「ガサガサ」と音がしたのはその時だった。


 怪人だ!


 慌ててベンチを飛び下り、小丸は走り出す。

 しかし、足がもつれて転んでしまい、アスファルトの上に「べしゃ」っとお腹から突っ伏してしまった。


 膝をすりむいた。

 血も出ている。

 ……もう嫌だ。


「……うええ~」


 朝から、一度も泣くことのなかった小丸がとうとう泣いた。

 地面に突っ伏し、右手に食パンの残りと左手に牛乳パックを持ったまま涙を流す。


 その声は、ゾンビを引き寄せる信号になるだろう。

 今朝からの経験で、音を立てると「怪人」が寄ってくると理解していた小丸だったが、そんなことはもうどうでもよかった。

 とにかくもう我慢できない。

 泣いて、泣いて、優しい母親や強い父親に抱き上げてほしかった。


 感情に任せて泣いていた小丸の顔に生暖かい息が吹きかけられ、唾液に濡れた舌が頬を這う。

 小丸はぎゅっと目を瞑った。


――ぺろぺろぺろ


――へっへっへっへっ


 勢いよく頬を舐められ、荒い息を吹きかけられた小丸は、驚いて目を開けた。


 茶色と白の毛むくじゃらの顔の中で、黒く輝く目が彼を見つめていた。

 その後ろで、もふもふの尻尾が勢いよく振り回されている。


「わんわんだ!」


 ぱぁっと顔を輝かせて起き上がった小丸を一心に見つめながら、その柴犬の成犬は行儀よくお座りをして尻尾を振り続けた。

 柴犬は時々チラチラとパンに視線を向けながら、辛抱強くお座りをして待つ。

 小丸はその視線に気づき、ちょっと汚れてしまったパンから砂を払って、牛乳の残りをしみこませると柴犬に差し出した。


「どうぞ。ぼくもうお腹いっぱい」


 言い終わる前に、柴犬は勢いよくパンにかぶりつく。

 瞬く間にそれを食べ終え、少し牛乳のついている小丸の手をぺろぺろと舐めると、犬は余韻も何もなく走り去って行った。

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