御船 携(みふね けい)の場合
◇ホラー◇ヒューマンドラマ
御船 携(みふね けい)の場合
私は今、白鳥型の足踏み遊覧ボートのペダルに自分の足を縛りつけようと悪戦苦闘している。
家から履いてきた夫のスニーカーは、もう海へ捨ててしまった。
靴下さえ履いていない脚をプラスチック製のペダルに足首までロープでぐるぐる巻きにする。
左足を固定し終えて、私は右足に取り掛かった。
ともすれば暗闇に落ちて行きそうになる心を何とか保ってくれているのは、私の息子。
まだ生後9か月の赤ん坊の泣き声は、今朝突然この島を襲ったゾンビを引き付ける信号でもあったけれど、私の心の支えでもあった。
息子は白鳥の首にベビーカーごと固定され、その中でしっかりとシートベルトを締めている。
泣き顔の周辺には、ここに来るまでに何とか手に入れることのできた食パンが数枚と取っ手付きの哺乳瓶に満たされた乳児用スポーツ飲料。
私は思わず抱きしめてあやそうと手を伸ばしかけたけれど、自分の腕の皮膚が紫色に変色しているのを見て、歯を食いしばってそれを押しとどめた。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
いつも通りの金曜の朝のはずだった。
夫のお弁当と朝食、息子の離乳食を用意していた私たちの家に、そんな朝の静けさを破ってゾンビが侵入してくるまでは。
それからは無我夢中だった。
起き出してきた夫がゾンビを倒し、表を確認する。
街がゾンビであふれていることを知った私たちは、船で島の外へと逃げることを決意した。
夫に促され、私は息子を抱いて車の後部座席へと座る。
ゾンビを数体轢き殺しながらも車は止まることも無く、私たちは何とか港へと到着した。
波の音だけが聞こえる海。夫が動かせそうな船を探しに向かう。
その間、私と息子は、車の中でただ震えていた。
やがて、体を引きずるようにして夫が戻ってくる。
何故だか車のドアが上手く開けられない様子の夫に代わって、私は内側からドアを開けた。
その時、初めて聞いたのだ、夫が漏らすあのゾンビの唸り声を。
夫は最初のゾンビとの戦いで既に噛まれていた。ゾンビ映画でよく見る通り、やっぱりゾンビに噛まれれば、その人間はゾンビになる。
私はゾンビと化した夫の手を振り切り、何とか車の外に逃げおおせて、夫を……ゾンビを車に閉じ込めることに成功した。
ベビーカーの中で無邪気に笑う息子の顔を見てほっと胸をなでおろし、そして気づいた。
息子をかばった私の右ひじに、くっきりと残る夫の歯型に。
ベビーカーに貼り付けた「赤ん坊が乗っています」「この子はゾンビではありません」「名前は
今年の夏、
しかし、防波堤の上に止めた車の中から聞こえる「ヴぁァァぁぁ……」と言う夫のうなり声を聞いて、私はすぐに現実に引き戻された。
両足は固定できた。最後は体だ。
私は自分の腰のあたりを、チープなプラスチック製の色あせた椅子に縛り付ける。
これが外れたら、私は
やがて、自分を縛り上げた私は、満足のため息をつく。
もう手を伸ばしてもベビーカーに触れる事すらできない。
息子は泣き疲れ、眠ってしまっていた。
その顔を目に焼き付けながら、私はもう一度神に祈る。
「どうか……
ペダルに固定された足を踏み出し、私は対岸に見える本島へ向かって、白鳥型の遊覧ボートを走らせた。
キラキラと美しい太陽を反射する海の中を。
ゆっくりと、ゆっくりと。
そして私の意識は、暗闇の中へと沈んだ。
◇ ◇ ◇
「ほぎゃあ! ほぎゃあ!」
「ヴぁあァァああ!」
いや、奇妙な、と言うのは正しくは無い。誰もが見たことのある白鳥型の足こぎボート。
普通、波の穏やかな公園や内湾で使用されるその船は、二つの泣き声を響かせながら、海を進んでいた。
白鳥の首に縛り付けられたベビーカーの中で赤ん坊が泣き、その声を聞いたゾンビが、それを追いかける様にして足を動かす。
足こぎボートは、その永久機関のような動力で、こんな外海まで進んできたようだった。
『
海の上で銃声が一度だけ響き、足こぎボートはゆっくりとその動きを止める。
近づいた巡視船は、ベビーカーの張り紙を確認し、生存者を収容した。
――御船 携(みふね けい)の場合(完)
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