魔王の司書B面
西玉
第1話 世界の狭間
木浦奈々子は図書館の司書である。
図書館に努める職員の8割以上が非正規職員だったが、奈々子は正規職員として雇われた。
ある地方都市の公営図書館だったが、再開発ビルの目玉として設えられた図書館だけに、蔵書は豊富だった。
図書館はいつも人の出入りが激しく、毎日が忙しかったが、本が好きで司書の資格をとったのだ。やりがいがある、楽しい職場だった。
もちろん、司書だからといって、雑用は任せきりというわけにはいかない。図書館から本を借りる人の受付や、返却された本の整理など、他の職員と同様の仕事についてまわる。
だから、日々は忙しい。
社会人となって三年目、だいぶ仕事にもなれてきた。
だが、社会人三年目にして、全く予期していない出来事が起きたのだ。
奈々子は、ローテーションで一日のうち三時間程度をカウンターの受付で過ごす。
カウンターの中には、整理しなければならない帳簿と、定位置に戻さなければならない本が山積みになっている。
全ての仕事が終わらなくても、時間が来れば次の人に引き継ぐのが、この図書館のやり方だ。
奈々子が終わらない仕事に嫌気がさしながらも楽観的に片付けていた時、カウンターの背後の扉が不意に開いた。
背後の扉は、事務室につながっている。
誰か、気をきかせてお茶でも入れてくれたのだろうかと期待しながら、たぶん違うだろうなと思いつつ、奈々子は振り向いた。
可愛らしい、小さな顔が、扉の隙間から覗き込んでいた。
図書館に勤務している女子の中では見ていない顔だ。新しく雇われたのだろうか。
そう思い、事務室の中を扉の隙間から覗こうとして、奈々子は固まった。
扉の向こうに見えたのは、見慣れた図書館の事務室ではなかった。薬棚、大鍋などが置かれた、石で覆われた部屋だった。まるで、魔女の研究室のような部屋だ。
一体、どこなのだろう。
急いで視線をカウンターに戻す。いつもの図書館だった。たくさんの棚に、綺麗に本が並んでいる。テーブルが置かれた一画では、熱心に勉強している学生がいる。騒いではいけない。
再び振り向いた。
まだ、扉が開いていた。
綺麗な顔がのぞいていた。
事務室はなかった。
「……あの」
空耳であって欲しかった。
だが、明らかにその小さな顔をした子は、澄んだ声を響かせた。
「……なに?」
図書館だ。うるさくしてはいけない。奈々子は小声で尋ねた。
「ここはどこ? あなたは、誰?」
奈々子は安堵した。どうやら、困惑しているのは互いに一緒らしい。だが、安心したところで解決にはならない。何が起こっているのか、説明にならない。
「私は奈々子よ。ここは、図書館よ」
「奈々子……いい名前だね。僕はドニア」
ドニアと名乗った綺麗な子は、白く滑らかな手を奈々子に向かってのばしてきた。その手が途中で止まる。
名前を褒められたことはなかった。珍しい名前ではない。印象にも残りにくい。自分で、そう思っていた。
「ドニア……あなたこそ、何者? そこは、どこなの?」
「僕は魔族だよ。ここは、魔貴族フレイエル男爵のお屋敷だよ。君は、見られるけど触れないみたいだね……どうしてだろう」
「知らないわ。魔族ってなに? 人間じゃないの?」
「君は、人間なの?」
「当たり前じゃない」
「うわー……人間なんだ。すごいね」
人間であることを驚かれたのは、奈々子にとって初めての経験である。
見た瞬間、女の子だと思ったが、声が女にしては少しだけ低いようだ。自分のことを『ボク』と呼ぶのは、女でもいないことはないが、ひょっとして男かもしれない。着ている服は女物のようだが、自分のことを魔族とか言っているのだ。簡単には判別できない。
「そこであなた……ドニアだったわね……なにをしているの?」
「……なにもしていないよ。扉が見えたから、手を伸ばしたんだ。そしたら取っ手をつかむことができたから、回して引っ張った……ねっ? なにもしていないでしょ?」
「そうかもしれないわね。でも、扉があれば引っ張るの? 誰の部屋かもわからないのに?」
「んんと……ちょっと説明が難しいけど、普通の扉じゃないんだ。僕の頭の中に浮かんで、気がついたら、目の前にあったの」
「ああ……確かにあなたの言った通りなら、普通の扉ではないわね。引っ張りたくなるものわかるわ」
「ねっ? じゃあ、そっちに行っていい?」
「えっ? ちょっと待ってよ……見られたら大変よ」
奈々子はカウンターの向こう側を覗いた。幸いにも、誰も待っていなかった。
「見られる? 誰に?」
「誰かに、よ。突然こんな場所に出て着たら、不審者そのものなんだから」
「そう? でも、いいじゃない。ちょっとぐらい、びっくりさせても」
「もう、私は十分にびっくりしているわ。これ以上は要らないわ」
ドニアと名乗る美少女風の魔族は聞いていなかった。扉を少し広めに開けて、体を滑り込ませようとした。
だが、見えない壁のようなものに跳ね返される。先ほど手が触れ合わなかったのは、やはり幻覚ではなかったのだ。扉こそ開いているが、見えない壁が存在しているらしい。
「……入れないのかな?」
「言っておくけど……私は魔族も魔貴族も、なにも知らないわ。この世界に、そんなものはいないわ」
「それは、知らないだけだよ。強い魔族ほど人間とうまくやっているし、人間は魔族にとって協力者で敵じゃない。敵は……他の魔王の派閥の魔族なんだ。でも、誤解されないように身分は偽っている。君みたいな一般人は、魔族のことを知らなくても仕方ないさ」
奈々子のことを見下した言い方だ。ひょっとして異世界の扉が開いたのかと思ったが、奈々子は現実のどこかなのかと思い直す。いや、事務室に繋がっているはずの扉が全く違うところにつながったのだ。それが異世界であろうと現実世界のどこかであろうと、大変なことなのは確かである。
「酷い言い方ね。もう閉めるわよ。仕事があるのよ」
「あっ……ちょっと……待ってよ。そっちにいけないことは分かった……でも……それならなんで、僕はこの扉を開けたの?」
「私が知るはずがないじゃない」
「図書館ってなに?」
司書である奈々子にとって、あまりにも屈辱的な問いだった。奈々子は腹を立てた。だから、言ってしまった。
「本があるところよ。じゃあね」
扉を閉めた。
最後に見た、心底驚いたような綺麗な顔が脳裏に残った。
無理やり閉めて、可哀想なことをしただろうか。今頃、締め出されて泣いているだろうか。
奈々子はそっと扉を開けた。
「どうした?」
事務机でパソコンの画面を睨んでいた職員が顔を上げる。先ほどの綺麗な顔の記憶を上書きしたくなかった奈々子は、すぐに閉めた。
「なんでもありません」
魔族と名乗ったドニアは、幻だったのだろうか。それにしては、はっきりと声を覚えている。触れなかったが、実在を疑わせるようなものは何もない。
もう、会えないのだろうか。
そう思うと、突然寂しくなった。
せめて、性別を聞いておけばよかった。
奈々子はそう思い、忘れないように手帳に書き込んだ。
それから数日、奈々子は図書館に来なかった。祖母が亡くなり、忌引き休暇をとっていたのだ。
ずっと、扉の隙間から覗いている綺麗な顔が忘れられなかった。
何日かぶりに出社し、同僚にそれとなく尋ねた。
カウンターの奥から、事務室に行けるか。それとなく尋ねたつもりだったが、全員が不思議な顔をして、当たり前だと答えた。
結局、ドニアのいる場所には繋がらなかったのだろうと理解した。
他の誰かがドニアに会えば、奈々子のように黙っていないかもしれない。大騒ぎになるかもしれない。その可能性も考えていただけに、少しだけ安心した。
少しだけなのは、あの扉は二度と開かないかもしれない。ドニアには、もう会えないかもしれない。そうも考えていたからだ。
職場に復帰し、当番でカウンターに座ると、ドニアのことが嘘だったのではないかと思われた。魔族なんかいなかった。背後の扉は、事務室に繋がっている。
だって、いざというとき、事務室に入れなかったら困るではないか。
自分にそう言い聞かせた。
背後の扉が開いた。
「どうしました?」
事務室から誰かが出てきたのかと思った。だから、そう声をかけた。
少しだけ開いた扉の隙間から、綺麗な顔がのぞいていた。
「……来ちゃった」
「そうみたいね」
奈々子は、びくびくと震えながらこちらの様子を伺うドニアの様子がおかしくて、くすりと笑った。
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