初夜

 ジニは賢い娘であった。学校に最後まで通っていたら、きっとよい教師になったであろうと、村の大人たちは噂していた。


 しっかり話を聴いて、人の目を見て話す。心が穏やかで、取り乱すことがない。だから茅葺きのみすぼらしい家に突然使者が現れ、妃に召し上げられると聞いたときも、粛々と栄誉を承った。


 貧しい家の長女であった。母はすでに亡く、足の悪い父親の乏しい稼ぎをやりくりして、五人の弟妹の面倒を見るのもすべて彼女の役目であった。家族にしてみれば、諸手を上げて送り出す気持ちになれなかったのも無理はない。


 もっとも、娘が王妃に召し上げられれば、一家は王家の外戚となる。だから生活に困るということはない。まして本人が納得しているのなら、否やはなかった。ただやはり父としては、明君とは言え生身ではない者に大切な娘を嫁がせるというのは、複雑な心境であったろう。


 賢王ナーダが不死王と呼ばれるようになったのは、百五十年余りも前のことだ。彼が王座についたときを境に、この乾いた高地から争いは絶え、罪は公正に裁かれ、家畜は肥えて作物もよく育った。だから人々は、その治世を永遠に延長するべきだと考えた。四十過ぎで病魔に冒されたナーダ自身もその考えを受け入れ、死期を待たずして肉体に防腐処置を施させたのだ。


 ご聖体、すなわち木乃伊ミイラとなった王は、飲み食いもしないし眠りもしない。重要な祭祀のときだけは王座ごと輿に載せて担ぎ出されるが、それ以外はいつも館の奥にいて座禅を組んでいる。そうして、常に人々の暮らしを見守っている。おかげでこの土地は依然として、よそ者に荒らされることも、内乱に見舞われることもない。


 誰もが不死王ナーダを敬愛していた。しかし、二百歳を数えた今になって、十六歳の娘と再婚するとは――生身のころに娶った妃は、無論すでに鬼籍にいる――誰も予期していなかったことだ。


「わしらはおまえを誇りに思うよ」

 ジニの父は、まるで自分に言い聞かせるように繰り返した。

「この上なく素晴らしいお人の奥方に選ばれたのだからな」


 祝言は盛大に執り行われた。高原の広場では、この日のために肥え太らせた豚が丸焼きとなり、酒が振る舞われ、音楽が奏でられた。紗布の向こうにうっすらと見える王、その隣に着飾って正座した花嫁を、皆が心から祝福した。


 いや――皆が、ではなかったかもしれない。次々と挨拶を述べに来る人々の中に、自分を品定めするような目もあったことに、ジニも気づかぬわけではなかった。しかし花嫁の胸中には、不安の雲も歓喜の光もなかった。笑いも泣きもせず、初めて踏む御座の上から見える景色を眺めているばかりだった。


 なぜ、王は、今になって急に妃を娶ろうとしたのか。そしてなぜ、自分が選ばれたのか。そんなことを漠然と思った。しかしジニは賢い少女であったから、わからないものを無闇に恐れもしなかった。



 婚礼の祝宴は朝まで続くが、そのさなかに新郎新婦は退席し、屋敷に籠もる習わしである。ジニは輿に従って王の屋敷へ向かった。古い門柱の間を抜けるときに、何か人ならぬものの匂いを嗅いだような気がして、身震いした。


 広い板の間に織物が敷かれ、上等な調度の並ぶ暖かい部屋と、よく働く使用人たちが王妃のために用意されていた。しかしジニがそれらを自由に使えるのは、祝言が恙無く終了してからのことだ。まずはたっぷりの湯とシャボンをぜいたくに使って体を洗われ、香を焚きしめた夜着に包まれて、屋敷の最奥の部屋へ籠められた。そこで新婦は、新郎と契りを交わすのである。


 寝室は乾燥していて、湯上がりの肌には少々寒く感じられた。広い上に、極端に殺風景な部屋だった。調度はほとんどなく、夜具すら見当たらない。それもそのはず、不死王は身を横たえて眠ることを必要としない体なのだ。


 がらんどうの真ん中に、王座があった。両側を燭台に挟まれ、正面に簾が提げられていて、ジニはその前に正座していた。


 ジニは無論、妻としての務めについてなにがしかの知識を持っていた。初潮を迎えた少女は普通、母親からそれを学ぶ。母のない彼女は叔母や村の女たちから学んだので、他の少女たちよりもかえって様々な情報を聞き知っていた。だがさすがに、木乃伊ミイラに身を捧げた経験談など聞いたことはなかった。


「おそばに上がってもよろしいでしょうか?」

 試しに、ジニは尋ねてみた。応答はない。期待はしていなかったものの、途方に暮れた。


 相手は王である。許しもなく近づくのもはばかられた。しかしこうして座ったまま朝を迎えるのだろうか。首を傾げ、そのまま黙って座っていると、燭台の炎が微かに揺らいだ。


 ジニは息を飲んだ。と同時に、背後へ声が湧いた。


「我が妃となる者よ。そう畏まらず、気を楽にするがよい」


 扉が開く音は聞こえなかった。近づいてくる足音も。


「……王はそのように仰せです」


 振り返ると、白地に紺の綾目の入った僧衣をまとい、結い上げた髪に冠を頂いた男が立っていた。青年と言ってもおかしくない外見と、それにはそぐわぬ老成したたたずまいを併せ持ったこの僧。話したことはなかったが、ジニもその名は知っていた。


 高僧ミッシカ。幼いころから神童の誉れ高く、長じるに従って高徳を積んだ彼は、今や唯一、不死王ナーダの声ならぬ言葉を聞き取れる僧であった。政治を執り行うのは大臣たちだが、大臣を選任するのは王であり、その決定を伝えるのはミッシカである。大臣が不正をしたとき、裁くのは王だが、判決を伝えるのもまたミッシカである。高僧ミッシカの言葉は、即ち不死王ナーダの言葉。誰もそれに疑義を呈する者はなかった。なぜならその言葉は、いつもよい方向に人々を導いてきたからである。


 ジニの実家に縁談を伝える使者を送ってきたのも、他ならぬミッシカであった。彼は今回の祝言の一切を取り仕切っていた。物静かでありながら、指示は的確で過不足なく、役人たちが彼の手足のように動くさまを、ジニは目の当たりにした。村で見てきたどの大人よりも、立派な人だと思った。


 そしてまた外見も、人並み外れている。好みは人それぞれと言うが、ミッシカの容貌の美しさは、そういったものに左右される次元ではない。妖しのような気配すら湛えている。この僧が不死王と言葉を交わせるのは、彼自身が何か常ならぬものの化身だからではないだろうか。そんな疑念すら、脳裏をかすめた。


「選ばれし娘ジニ。ナーダ王は、あなたを妃に迎えられることをたいそうお喜びであられます」

「そう、でしょうか」

「そうですとも」


 ジニは簾の向こう側を振り仰いだ。確かに、王はそこにいるようだ。しかし返事はおろか、頷く気配も感じられなかった。


「あなたに王の声が聞こえないのは、あなたが生身の人である証ですから、何ら気に病むことではありません」


「それでは、わたしは生きている限り、王さまの声を聞くことができないのでしょうか。ミッシカさまのように、厳しい修行をすれば、いつか聞こえるようになるのでしょうか」


「確かに修行を積めば、いずれは生身の肉体から自らの魂を解き放ち、声ならぬ言葉を聴くこともできましょう。しかし、それには長い時間がかかります。それに僧侶になっては結婚ができませんから、王妃になるあなたには、別の方法をお薦めしましょう」


「はい。お願いします」


 高僧ミッシカは静かに前へ歩み出て、王座の左隣にある燭台を手に取った。それから、簾の前にひざまずき、裾を少し持ち上げてジニを振り返った。


 促されるままに、身を低くして、ジニは簾の中をのぞいてみた。


 最初に見えたのは、厚い敷物の上に置かれた黒い台座であった。その上に、くすんだ山吹色の布に包まれた膝頭。座禅を組んだその両脚の間に、泥のような色の固まりがあり、明かりを頼りに目を凝らせば、それは変色した人の手だ。肉の削げ落ち、乾き切った十本指が、腹の前で組まれていた。指先に、爪らしきものがどうにか見て取れる。


 上半身も山吹色のゆったりとした衣をまとっていて、体型はよくわからない。だがご聖体へと変身する過程で、不要となる腸などはすべて取り除かれたという話であるから、胴回りなどジニよりも細いに違いない。さらにその上にあるはずの胸、肩、首筋。そして頭部も絹に覆われていたが、額から顎にかけては素肌が露わになっていた。


 直視するのは、なかなかに勇気の要ることではあった。しかしジニは見た。夫となる者の顔を。……見てしまえば、恐ろしくはなかった。ただ、不死とはこういうものなのかと思っただけだ。


「ナーダ王は微笑んでおられる。あなたにはそう見えますか」

「いいえ、ミッシカさま。わたしの目には、王さまの表情がわかりません」

「そうでしょう」


 簾を下ろすと、ミッシカはジニを待たせて、どこかへ立ち去った。そしてすぐに、陶器の瓶と杯を手に戻ってきた。


 柄のない、白い瓶だ。同じく白無地の杯をジニの前に置くと、ミッシカは瓶から透明な液体を注いだ。


「ご覧の通り、王は死んではおられませんが、生きておられるとも言えません。少なくとも我々と同じ意味での生ではない。私の言っている意味がわかりますか」

「何となく、わかる気がします」

「しかし我々も、このような状態になるときがあります。死んではいないが、生きてもいない」

「それは……眠っているときのことですか」


 するとミッシカは、無色透明な水面に陽が差したような、柔らかな微笑を浮かべた。


「ああ、選ばれし娘ジニ、やはりあなたは聡明だ。そう、我々は眠っている時間、最も王の近くにあるのです。つまりあなたは、眠りの中で王と言葉を交わせばよい。この薬酒によって」

「薬酒、ですか」

「いつもよりも深く深く眠ることによって、より王の心に近づくことができましょう」


 杯になみなみと注がれた液体からは、確かに酒の匂いもするようだったが、むしろ生薬の青い匂いが勝っていた。とは言え寒村に育ったジニは濁り酒しか見たことがなく、透明な酒はそれだけで神聖なものに感じられた。


 ジニは杯を両手に包んで顔の前に掲げ、ミッシカを見上げた。


「これを飲めば、王さまの御心に触れることができるのですね」

「ええ、薬が効いている間は。しかし効き目はそれほど長く続きません。夜明けには、元通りに目覚めるでしょう」


 それからミッシカは、ジニの目をじっと見て、怖いですかと尋ねた。ジニは目を丸く見開いて、いいえと答えた。


 信じることをためらわない少女の眼差しを、高僧ミッシカは黙って受け止め、再び王の前に進み出て何事か奏上した。そうして呪文を唱え始めた。その声は低く澄んで、灯火が揺れるように強弱を繰り返し、杯の中身よりも薬効がありそうな印象をジニに与えた。長大な呪文がある区切りを迎えたところで、ミッシカから目配せを受け、ジニは薬酒を一息に飲み干した。


 のどが焼けた、かと思うと、その熱は血に溶けて全身を駆けめぐった。

 灯火の影が急に眩しく燃え立った。

 再開した呪文が耳から遠のいていった。

 入れ替わりに、誰かの声が近づいてきた。初めは不明瞭な音の連なりだったものが、繰り返されるうちに言葉になっていく。


――ジニ。我が愛しき者よ。


 顔を上げ、前を見た。いつの間にかまた簾が上がっていた。灯火に照らされた人影が、座禅を組んでいる。しかし先刻のぞいたときに見た王の姿とそれは、同一人物とは思えなかった。山吹色の衣服の下に筋肉が隆起し、豊かな黒髪が肩口に流れ、瑞々しい頬に呼吸の律動を感じさせた。


 まぶたが開いていた。褐色の澄んだ瞳に、光を湛えている。


――さあ。もっと近くへ。


 ジニは前へ進み出ようと腰を上げた。足首に力が入らず、よろめきながら王座へ歩み寄っていった。


 夫となるべき者の膝まで、あと一歩。


 そこで、ジニは膝から崩れ落ちた。意識を失う寸前、誰かのたくましい腕が、肩を抱いた。

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