不死王の妃

二条千河

 彼がそれを口にすれば、誰かが死ぬことになる――。

 王妃ジニの耳に、誰かが囁いた。



 しかし、そんな言葉を吐いた者が彼女の周りにいるはずはなかった。蓆の敷かれた壇上には、祝祭の終わるまで、彼女と夫以外に誰も立ち入ることはないからだ。唯一、御座みざのすぐそばまで寄ることを許された高僧ミッシカも、今は群衆と同じく地面の上に立っている。


 そして夫、すなわち不死王ナーダとの間も、天蓋から吊り下げられた紗布に隔てられている。うっすらと透いて見える横顔は、まっすぐに前を向いているようだ。妻を顧みて何かを告げたような気配はない。


 王妃ジニは夫に従い、前方へ目を向けた。高原の広場に、寄り集まった民たち。太鼓を足に挟んだままの楽士に、幼子を連れた女、野花の束を握り締めた童女。誰もが息を詰めて、御座の前に仁王立ちした男へ視線を注いでいる。


「王妃さまに、お尋ねしたい」

 黒い髭を口の周りに蓄えた中年男が、もう一度言った。


「キギンさま。めでたい宴の席でございます。お控えなさいませ」

 高僧ミッシカは御座をかばうように、男の前に立ちはだかっている。ジニからは、その背中しか見えない。


「わしを誰だと思っている。そちらにおわすナーダ王が弟の嫡孫、キギンであるぞ。おまえこそ控えるがいい」

「たとえどなたであろうと、王への直言はまかりなりませぬ。私がお取り次ぎいたします」

「ふん。ペテン師め」


 不穏な風が砂を舞わせた。王子誕生の祝宴は始まったばかりで、誰一人酔ってはいなかった。王族キギンの言葉に女たちは口を覆い、古老たちは畏れおののいた。


「わしは王妃に話があるのだ。それなら取り次ぎも必要あるまい」

「なれど……」

「王妃よ。あなたは生身でおられる。わしの問いに、直にお答えいただけよう」

 キギンの挑発は高僧の肩を越えて、ジニを直撃した。


「問え」

 ようやく、王妃ジニは応じた。十七歳の澄んだ声は、有無を言わせぬ中年男の濁声に相対するには頼りない。


 さればと、キギンはミッシカを押しのけるように、さらに前へ出た。王妃の横に安座する王には、一瞥もくれない。そして、ついにその言葉を口にした。


「王妃よ。あなたのお子は、誠に、ナーダ王のたねであられるか」



 これで誰かが死ぬことになる――不死王ナーダか、王妃ジニか、王族キギンか、高僧ミッシカか。もしくは、まだ名のない王子か。


 ジニは自らの腕の中を見下ろした。白いくるみに包まれた赤子は、浅い眠りを漂っているようだ。


「我らがナーダ王は、当年とって二百歳のご聖体であられる。あなたは、天に誓って、王との間に子を成したと言われるのか」


 巨大な蛇の這うような波動が、群衆の足元を通り抜けた。


 王妃ジニは王族キギンを見返した。その後ろに立ち尽くす、顔色の悪い女の姿も視界に入った。うつむいていて、表情は見えない。


 視線を転じて、紗布の向こうに座る夫の横顔を盗み見る。微かに、その口が開きかけたようにも見える。だが無論、錯覚であろう。



 夫たる不死王ナーダ――偉大なる木乃伊ミイラは、王座から黙って成り行きを見守っているばかりである。

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