一欠片のパン

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一欠片のパン

 終わりなき冬の季節。

夏は訪れず、氷と争いが世界を支配していた。

神々の戦争が巻き起こり、飢えと裏切りが世を謳歌する。

世界は静かに破滅への道を進んでいた。


 グラスが割れる、甲高い音が響いた。

飛び散ったワインが、豪奢な絨毯を深紅に染めていく。


 館の主人の死体を前にして、ノクスは相棒と手を打ち合わせる。


 「仕事は終わりだ」

「ああ、帰ろう」


 二人は頷き合うと、死者の寝所を後にする。

主人が殺されたとわかって、衛兵たちが慌て始めた。

その隙をついて、屋敷の裏手から外に出る。


 乾いた青空が、天高く広がっていた。

冷たい光が、東の空から降り注ぐ。

ぼろぼろな上着の襟を、しっかりと寄せ合わせる。


 闇の女神を奉じる神殿は、行き場のない子供たちを拾って、暗殺者として育てていた。

彼らは神々の争いにおいて、その尖兵として用いられている。


 館の周囲に広がる森に、子供の声が響く。

獣道を進みながら、ノクスは相棒とのんびりお喋りに興じていた。


 「そういえば、なんでノクスは神殿にやってきたんだ」


 その質問に一瞬立ち止まって、肩をすくめる。

「それしか、道がなかったんだ。

フェリクスこそどうして、暗殺者になったんだ」


 ノクスが闇の神殿に来てから早数ヶ月。

思えば互いのことはあまり聞いたことがなかった。


 「一欠片のパンの為さ」

フェリクスはあっさりと答えた。

「飢えて、死にかけていたときに食べた、パンの味が忘れられなかったんだ」


 そうか、と頷く。

飢えて死ぬ子供など珍しくもない。


 「ならば、昼ごはんのパンは譲ってやろう。

チーズと交換で」


 恩着せがましいな、というツッコミによって、またたわいのない会話に戻っていく。


 そろそろ、街道に出る頃合いだ。




 険しい山々の谷間、深い森の中に隠れるようにして、闇の神殿は立っていた。


 神殿に戻ったノクスは、大神官に報告をいれてから、近くの小川に向かう。

先ほど昼を食べばかりにもかかわらず、フェリクスは食堂へと向かった。

今頃は一人でチーズでも食べているのだろう。


 川べりに座ると、人気がないことを確認して、ペンとインクを取り出す。

「闇の神殿より定期報告。

ノースの館の主を暗殺。

進軍に適した経路は未だ見つからず。

異常なし。

戒律の女神のご加護を」

ペンを置くと、小さな紙を風に当てる。


 指笛を吹くと、大きな鷹が飛んできた。

干し肉を投げると、器用に嘴で捕まえる。

近くの枝に止まった鷹の足に、乾いた手紙を括り付ける。


 晴れていた空は、いつの間にかどんよりとした雲に覆われていた。

飛び立った鷹の姿は、木々の梢に隠れて、すぐに見えなくなった。




 水浴びを終えて神殿に戻ると、大神官から召集がかかっていた。

服を着替えて武装を整えると、幾つかの建物を抜け、本殿に入る。


 昼間だというのに、そこは暗闇に覆われていた。

荘厳な柱の間を通り、女神の像の前に跪く。

黒い石でできた床は、やけに冷たく滑らかだった。


 フェリクスや、他の暗殺者も揃っていた。

ものものしい雰囲気が場を満たす。


 扉の軋む不気味な音とともに、大神官が入ってきた。

女神の像の前で一礼すると、こちらを振り向く。


 「集合ご苦労。

なにがあったのかと不安に思っている者もいるだろう。

単刀直入に言おう。このなかに、内通者がいる」


 鷹の死体が、床に投げ出される。

その羽は、大いに傷つき、汚れていた。


 「なにか知っている者はいるかね」


 冷たい視線が、頭上から降り注ぐ。


 表情から、色が抜け落ちる。

少々の間を空けて、ノクスは口を開いた。


 「食堂の裏から、それが飛び立つのを見かけました」

その声からは、一切の感情が伺えなかった。


 「いつ頃だ」

「報告を終えて、川に向かう折に」


 フェリクスが、信じられないものを見るような目で、こちらを凝視する。


 「どういうことだ、フェリクス」

いつの間にか全員の視線が、フェリクスに向いていた。


 その顔に、諦めが浮かぶ。

次の瞬間、フェリクスは駆け出した。

投擲された武器が、白刃のきらめきに弾かれる。


 「捕まえろ」

大神官から号令がかかる。


 神殿から飛び出した人影を追って、暗殺者達が動き出した。




 崖の淵で、足音が止まる。

逃げられないと悟ったフェリクスが振り返った。


 腰から二振りの短剣を抜く。

結局、追い詰めたのは、ノクスだった。


 切り立った崖の上で、二つの影は向かい合う。


 「なぜ、裏切った」

その声は、激情に震えていた。


 木立の影に表情を隠す。

「戒律の女神の御心のままに」


 フェリクスはその答えに顔を歪め、しかし何も言わずに、剣を構えた。


 いつの間にか、ひどく冷たい風が吹いていた。


 森の暗闇から飛び出す。

瞬間、無数の閃光が走り、その全てが剛力に弾かれる。


 反撃をいなし、かわし、受け止める。

フェリクスの剣は、重く、巧みだった。

奇襲の有利を失い、みるまに形勢が傾いていく。

気がつけば、ノクスは崖っぷちに追い詰められていた。


 右手から剣が弾き飛ばされる。

衝撃に思わず尻餅をつく。

背中に、地の底から吹き上がる生暖かい風を感じた。


 前からはフェリクスが、短剣を警戒して、慎重に近づいてくる。

逃げ場はない。


 一本の短剣を握り締める。

細心の注意を払って間合いをはかる。

そしてノクスは、短剣を投擲した。


 驚愕の声が上がり、しかし短剣は跳ねあげられる。

だがそのときには、その胸にナイフが深々と刺さっていた。


 フェリクスの体が傾ぎ、崖の向こうに落ちていく。


 ノクスは、ナイフから血糊をふき取ると、袖にしまった。


 崖の向こうを一瞥して、小さな呟きを漏らす。

「私には、一欠片のパンさえ、見つからなかったんだ」




 「……ので、殺すことが最善と判断しました」


 「そうか。よくやった」

その言葉とは裏腹に、その瞳はなんの感動も映さない。

大神官にとっては、暗殺者などただの駒でしかないのだろう。


 「それでは失礼します」

顔を伏せて一礼し、ノクスはその部屋を退出する。


 外に出ると、雪が降っていた。

手を伸ばすと、その掌に一片の雪片が積もる。

握りしめようとしたそれは、儚く溶けて掌からこぼれ落ちた。


 空っぽの手を握り締めて、ノクスは歩き出す。


 雫は雪の中に消え、その足跡もやがて埋もれていく。

後に残ったのは、一面の雪だけだった。

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