母の指
「あ」
先輩の髪にゴミが付いていた。少し肌寒い秋の日で、大学名物のイチョウ並木が、ハラハラと肌を露わにしはじめた頃だった。
長い髪に絡んだ黄色い葉を摘み取ると、私の指は彼女のちょうど頬骨あたりに当たった。
「タバコ臭い」
先輩は、眉をくっとしかめて子どもみたいな顔をした。ちょうどさっき、タバコを一本吸ったところだった。
タバコの匂いは、私の家族の匂いだ。両親ともによく吸い、よく飲む大人だった。渋谷区の住宅街に建てられた大きな家の白い壁紙は、タバコのヤニで黄色く染まっていた。私がまだ幼稚園に通っていた頃、母は毎朝、私の髪を可愛く結い上げた。その指はいつも冷たくて、爪が長く、タバコ臭かった。タバコとミントが混じった匂いが、私の母の匂いだった。いい匂いではなかったけれど、落ち着く匂いだった。
子どもの頃の私は、引っ込み思案の泣き虫で、父と姉によく虐められていた。手足が長く運動神経の良い姉に対して、私は背が低く、運動がからきし苦手だった。鈍臭い私を、父と姉はよくバカにした。父は私と姉を比べるのが好きで、体型から顔つきまで、何から何まで私をバカにした。私の中の劣等感はすくすく育っていき、家の中ではなるべく自分の部屋でひとりきりで過ごすようになった。父と姉を何度も何度も頭の中で殺した。家族で私を褒めるのは母だけで、私はいつも母にべったり甘えていた。母は料理が上手で、私は小さいころから母の台所仕事を手伝っていた。
私たちがまだ幼いある時から、父の酒乱が激しくなった。夜中に母の泣き声で目覚め、様子を見に行くと父が母を踏みつけていた。私と姉は恐怖で泣きじゃくり、近所の人に助けを求めた。周りの人たちから、私たちはどんな風に見えていたのか、その時は考えもしなかったが、二十歳を過ぎてその時お世話になった人たちと再会した時、彼らのまなざしから当時の私たちの姿を垣間見た。
母は家庭にいるのが窮屈だったのか、私が小学校に入学後しばらくして外の世界に居場所を見つけた。母はだんだん、台所から遠ざかっていき、そこには代わりに祖母がいた。私の好物は、ハヤシライスと手作りのチーズケーキから、煮物とスーパーのきんつばに変わった。学校の宿題で渡された、音読シートの「聞きました」の欄は、赤ペンで書かれた「祖母」という文字で埋まっていった。元々そこには、かわいいシールが貼ってあって、貼る人のいなくなったシールは、居場所を無くして私の勉強机に取り残された。
歳をとれば当たり前かもしれないが、家族との記憶は、学校の机に置き忘れてきてしまったようで、たいして頭の中に残っていない。ただ、台所に立つと、ふとあの匂いを思い出すことがある。タバコとミントが混じった、あの匂い。母に頼まれて握った包丁の重さ。鰹節を削るときの匂い。お米を研ぐときに指にあたる、家族4人分のお米の重さ。
家族と離れた家の、私だけの台所で、1合の米を研ぐ。その軽さに、目頭が熱くなって、ぐっと歯を食いしばる。私は、タバコ臭い指で米を研ぐ母が好きだった。
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