イヤホン

2017年11月15日水曜日


ポケットの中にイヤホンをしまったまま眠ってしまったせいで、布団の中に隠れたイヤホンを見つけられないまま外出した。

面談の為に会社に向かう。

いつも音楽を聴きながら乗る電車、歩く道。

イヤホンが無いだけで、違ったように見える。


面談の前日の夜、私は小学生の頃からの友人に会いに行った。

友人、と言っても、彼女とは歳が20歳程違う。

彼女は昔住んでいた私の家の近くで洋服屋を経営していて、小学生の頃の私は、ランドセルを背負ったまま彼女の店に遊びに行ったりしていた。

彼女の周りには猫が集まる。

店の屋根裏に野良の子猫が数匹隠れていたり、私のような彼女を慕う小学生が、弱った野良猫を連れて彼女を訪れたり。

猫好きが高じてか、当時から彼女は保護猫の里親探しに勤しみ、今では服屋の他に個人でのペットシッター業務も請け負っている。

一度彼女の家に行ったことがあるが、彼女の部屋には保護した野良猫がたくさんいた。


彼女の店も彼女も、小学生の頃と少しも変わっていない。

ナチュラルな雰囲気の服やアクセサリーが並ぶ店内と、程よいボリュームで流れるラジオ、つるつるとした感触の、ウッディで少しフローラルな香り。

彼女は相変わらず、奥に設置されたパソコンをカチカチと操作していた。

私が猫を飼い始めたことから彼女との交流が再開したが、訪れたのは、私の精神状態を心配した彼女からの誘いがきっかけだった。

会社であったことや、私の精神状態を話すと、彼女は首を横に振りながら、サバサバとした口調で「辞めればいい」と言った。

「やめやめ!嫌なことがひとつでもあるんなら、それが行きたくない理由なら、辞めちゃえばいいよ。会社なんて」


私はずっと、足枷をつけられた心地だった。

進みたいけれど、戻らなければいけない。そんな心地でグズグズして、「死にたい」とか、「何もしたくない」とか思って、無駄に眠ったり、日が暮れるのを待ったり、無駄な時間を過ごしていた。

明るい世界に行きたいけれど、足枷が邪魔をする。

彼女のすっきりした言葉で、私の足枷が霧散するような感覚を味わった。


会社に戻るかどうか、「あなたの気持ち次第」と、何度も言われた。

私は色々な事を考えて、「戻る」という選択をした。

一度入社したのだから、戻らなくちゃいけない、という呪縛が、私の足枷の正体だったのだろう。

一度会社の人に会った時、面談に行った時、私は絶えず泣いていた。

「辞めたい」という気持ちが、溢れかえっていた。


私は彼女の言葉に、辞める、と強く返した。

怒鳴り声とか、上司のご機嫌取りとか、睡眠不足とか。

私をぐちゃぐちゃのべとべとにした上司とか、それに対する不条理な対応とか、そのすべてにさよならしよう。

ラジオから、彼女の店の雰囲気に合った、ぼんやりとしてポップな曲が流れ始めた。

私はその曲が気に入って、帰り道にも、家についてからも、聴き続けていた。


イヤホンが無いまま、二度目の面談に向かう。

あの曲を聴きながら行こうと思ったのに、少し物足りない心地がする。

一度目の面談の時には、電車に乗った途端に涙が溢れ出た。

今度はどうだ、と電車に乗り込むと、涙は出なかった。


ちょっとした違いで、世界は変わったように見える。

イヤホンが無いだけで。会社を辞めると決めただけで。

家に帰ったら、履歴書でも書こうか。携帯で転職先を探しながら、そう思う。

自分の人生なのだから、自分の感情に正直に、自分勝手に生きてしまえ。

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