ひとつふたつ

千舟ミケ

におい

2017年9月4日月曜日


忌々しい夏が過ぎた。

ジメジメとジワジワと迫り来る季節が。

気温の上昇というのは人の気持ちさえも高揚させるらしく、夏という一時期、街は自らが愚からしい喧騒で塗れることを厭わない。全ては気温のせいである。

湿った忌々しい喧騒が過ぎると、街は唐突に静けさを抱え始める。気温が下がるのと同時に、人の気持ちも次第に落ち着き始め、「センチメンタル」という言葉が似合う季節が来る。じきに金木犀が香り始めるだろう。私はこの花の匂いが好きだ。花だけでなく、この季節が好きだ。いやに涼しくて静かで切ない、夏が過ぎた今が好きだ。冬になってしまうと、その寒さが態とらしい。その上、人肌を求める愚かさのせいで、街はまた喧騒に塗れてしまう。私は、秋が好きなのだ。

少し前までは、私はこの季節が嫌いだった。金木犀の香りが過去の嫌な思い出を想起させるからだった。然し今ではその嫌な思い出が何だったかも思い出せない。じきに金木犀の香りがし始めれば、私は過去などなんのそのと、胸いっぱいに香りを吸い込むだろう。いつだって、胸のつかえを解くのは時間だ。生まれてまだ二十余年しか経っていないが、こんなことから自分が着々と歳をとっていることを感じる。


匂いと記憶は、密な繋がりを持っていると思う。とうに忘れたと思っていたことでも、匂いが引き金となって思い起こされることは度々ある。不思議なことに、思い出は些細なものほど記憶となって現れ続ける。私の金木犀の思い出のような、過去酷く苦しんだ思い出は、あっという間に忘れてしまうのだ。


月曜日は診察の日だった。日比谷のメンタルクリニックでの診察を終え、いつもなら真っ直ぐ帰宅するところを、今日は寄り道をした。ふと思い立って、すぐ近くの映画館で一番近い時間に見られる映画のチケットを買った。映画館の座席でスクリーンを眺める時間は、気分が落ち着く。落ち着き始めた街の空気に誘われて、思わず立ち寄ったのかもしれない。

映画館に足を踏み入れると、まずポップコーンの匂いがしてくる。たまに、映画館の外にまで匂いがもれてきていることもある。ポップコーンの匂いを嗅ぐと、映画を観たくなるし、レンタルビデオ屋のカウンター近くにポップコーンがあれば、DVDのレンタルと併せて買おうか、などと考えてしまう。ポップコーンと映画は、私の中で強く結びついている。さらに、ポップコーンの匂いは、私の記憶とも結びついている。あいつは塩味派だったな、とか、あの人はキャラメル味派だったな、とか、覚えている必要も無い様な、些細な記憶である。

映画のお供にポップコーン。彼氏と一緒に映画を観る時の癖で、一人の時は食べないポップコーンをつい買ってしまった。バターしょうゆ味のポップコーンをつまみながら、予告の流れるスクリーンを眺める。たまにジュースを口に運ぶ。

ポップコーンをつまんでいると、嗅いだことのある匂いがした。休職中の職場の上司の匂いだった。使っている衣類洗剤が同じなのだろう。周りには定年を過ぎたであろうお年寄りしかいない。然るべき理由で休んでいるにも関わらず、会社に行けず映画を観ている自分に対して負い目を感じ、少し気分が重くなる。ポップコーンを絶え間無く口に運ぶ。手を動かしていれば、少しは気も紛れる。


食べきれるか不安だったポップコーンも、終わる頃にはすっからかんになっていた。着ている黒いパーカーにポップコーンの塩が沢山付いていて、食べ慣れてなさが丸見えだった。足元には誰かが落としたのであろうキャラメルポップコーンが一粒。そういえばテーマパークで食べるときは、いつもキャラメルポップコーンだな、と思う。指についた塩を舐めて、ウェットティッシュで手を拭く。指からバターのいい香りがした。幸いまだ私の中には、この匂いと結びつく記憶は無い。

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