を、君にあげる
ロセ
第1話
カン、カン、カン……。
塗装が剥げ、緑色の下地が見えている階段を急ぎながら登って行くと、錆び付いた音が辺りに喧しく響き渡った。冬の凍てついた風が横殴りに吹き、気持ちばかりが急かされる。
雪でも降るんじゃないか。冷たい風から逃れる為に襟巻きの中に顔を埋める。場所は集落と宿が立ち並ぶ大輪をちょうど抜けたところで、目的地にはまだ遠い。
医術道具が入った木箱を抱えなおし、前を向くと赤い提灯が小料理屋の軒先にずらりと下げられている。火は提灯の中でぽつぽつと蠢いて夜道を照らしているが、俺はどうもその火が怪しく感じられてたまらない。
狐にだまくらさかされているようなそんな心地だ。俺だけだろうか、俺だけだろうな。きっと疲れているから、神経質になってしまうんだろう。今日はこれが済んだらさっさと寝ちまおう。
そう決めて、大輪とここ――”中輪”の更に奥でいっそう煌びやかな光を辺り一面に撒き散らす赤き城を見る。城というと、どうしても殿様がふんぞり返る場所を想像しがちだがそうじゃない。城――
いかにも又聞きした風から分かる通りに、そもそも俺はこの土地の生まれじゃない。
医者の身でありながら、一定の地に腰をすえることを嫌う父に手を引かれ十年ほど前に流れ着いた。ここだけは父の性分にあったらしく、今のところ別の場所に渡り歩く気配はない。いつもは一週間を待たずして移動することが多かったから、十年もいるここには愛着がある。
それにあいつのこともあるし、余計に離れがたい。
しかしあいつ……、
人の流れを切るようにして進み、俺は中輪の先……”小輪”へと足を踏み入れた。その先は大輪、中輪とは比べ物にならないほどに暗い。そこかしこを行きかう人の手に提灯は握られているのに、だ。とはいえ、彼らの提灯を頼りに前に進むことほど馬鹿げていることもない。たとえ途中蹴躓いても、頼りにしていた提灯の持ち主にケチをつける訳にも行かないのだから。利口なのは、自分で灯りを持つこと。それに尽きる。
紫屋の使いがいないかと辺りを見渡していると、「海江さん、海江さん」と後ろから名前を呼ばれる。振り返ると、手にいくつも持った提灯で自らを照らす、紫色と白の唐松模様の
「こいつをお探しでは?」
と男は持っていた提灯の一つを俺に渡す。
「ありがとう、助かる」
受け取ったその提灯を見ると、何故かてっぺんにはブドウの実のように青紫色の花をつける植物がくくりつけられている。男が他に持つ提灯にはその花はない。毎度のことだが、何故花飾りがついたものを渡すんだろうか。
最初は紫屋が扱う提灯の印なのかとも思い、紫屋の跡取り娘である此茉に聞いてみたが他の店と混ざっても構わないとのことだった。
だったら、どうして花飾りをつけるのか。疑問に思い尋ねてみても、此茉は言葉を濁すばかりで理由を教えてはくれない。そのくせ、紫屋の連中はきまって青紫の花が結ばれた提灯を渡す。しかもそれが手元にない時は自分の仕事を放り出して俺を行き先へと案内しようとするのだからたちが悪い。
理由を聞けば、皆が口を揃えてこう言う。
――此茉お嬢さんのお申し付けですので。
受け入れられているようで受けられていない扱いをされると、心底居心地が悪いことに此茉はおそらく気付いていない。俺は提灯を僅かに持ち上げて、尋ねる。
「なあ、これには何か隠語があるのか」
男はへへ、と鼻の下を人差し指でこする。
「そら、手前に聞くよりも此茉お嬢さんに聞いた方が早いですよ」
「あいつははぐらかす」
「もう聞いた後でしたか、こら失敬しました」
男はぺしり、と頭の後ろを叩く。一つ減ったとは言え、それでもまだ手にはたくさん提灯が残っているのに芸達者な奴だ。
「此茉お嬢さんが言わないんじゃ、手前も他の奴らもなんにも言えません。でもね、海江さんこれだけは言えまさぁ。それ自体に悪いことはひとっつもありません」
隠語はあるが、それは悪いことじゃない。青紫の花飾りがついた提灯に視線を落とす。ぼおぼお、と燃えている。中輪の軒先や小輪を行き来する者の手に収まった提灯とは違う、神聖な場所で焚かれたかのような火だ。「ご満足頂けますかね」俺は頷いて、医者の息子らしいことを言う。
「今日はここ一番に冷えているようだから、風邪なんぞには気をつけろよ」
「そん時ゃ、海江さんのところに駆け込ませてもらいますんで」
「寺じゃないんだ。自分で出来るところは自分でやらなきゃ、医者が幾等手を尽くしても意味が無いだろ」
「耳が痛いですねえ。こら、此茉お嬢さんにも効いちまうでしょうよ」
俺は半眼で男を見返しながら、この場にいない奴に悪態をつく。
「あの馬鹿、今日はどんな風に過ごしているんだ」
「へえ。手前がご挨拶したときはいつもどおりにお過ごしでいらっしゃいやした」
嫌な予感を察知したこめかみにぴりり、とした痛みが走る。
「はっきり説明しろ」
「火鉢もなんもない状態で。その上、ずうっと外を見ていらっしゃいましたからね。窓も開けっ放しです」
眩暈を起こしそうだった。そんな俺を他所に男は一人明るいんだか、暗いんだかよく分からない声音で言葉を紡ぐ。
「言葉をきちんと聞いて頂けないところはご愛嬌ですや。それに、手前らにとって此茉お嬢さんが大切なお方であることには違いがありません。海江さん、どうぞお嬢さんをよろしくお頼み申し上げます」
「……言われなくてもそのつもりだ。俺は医者の息子だし、何よりあのうつけの世話焼き係なんだから」
へらり、と男は笑う。
「友人だからとは言ってくれませんか」
「そんな気恥ずかしいことが堂々と言えるものか」
俺は苦い顔で言い返し、さっと身を紫屋へと続く道に向けた。
「お嬢さんは喜ばれると思うんですけどねえ」
後ろで男が至極残念そうにぼやいていたが、必要のないことだ。既に分かっていることを改めて口にしたとして、此茉がどう返すか。悔しいことに、完璧だとしか表現できない予想が出来てしまう。きっと此茉は表情一つ変えず、友人でしょうと答える。俺が黙って何も言わないでいると、すこし不安になって違ったかと尋ねて来るだろう。結局は同じことなのだ。こちらから此茉に友人だからと言うのも、此茉に俺はお前の友人かと聞くのも、最終的に追い詰められるのは俺だ。それに何より答えはもう出ている。
友人だ。それが互いに分かっていれば、それでいい。このままでいい。思っていると、風がごうと吹いた。あざ笑っているかのようだった。
・
・
紫屋に着くと、客を出迎える為に立っていた女の一人が俺に気付いて手を振った。
「いらっしゃい、若先生」
紫の花飾りがついた提灯を手渡しながら、「此茉は部屋か」と尋ねる。女は紅を引いた唇で少女さながらの声を出し喋る。
「ええ。夕方過ぎに一人お客さんがいらしていたようですけど、もうお話は済んでいるんじゃないかしら」
白粉を叩いた頬に手をやり、「なんなら、あたしが確認してきましょうか」と悪戯っぽく言う。「部屋の前で大概分かる」と呆れた風に返すと、女はあらつまんないと漏らしてそっぽを向いた。「何がつまらないんだか」とぼやいてやると、女は見返り美人よろしく角度をつけて振り返る。
「男と女が痴話喧嘩出来るのは、ここがまだ天国じゃない証拠ですよ。天国じゃ、みぃんな仲良く仲良くお手手繋いでりん、りん、らんなんですから」
女は言うだけ言うと、手に持った提灯をふらふらと揺らしながら近くにいた客の腕を掴んで、さっさと紫屋の中へ入って行ってしまった。……言われ損じゃないか。
愚痴りながら、紫屋の暖簾を潜る。と、不思議な香りがした。水の匂い。甘く、冷えた、近くにあるのなら思わず手を伸ばしたくなるような。頭を振って、もう一歩中へと進み匂いの主を探してみたが、この近くにはいないようだった。表情を硬く強張らせていると、
「海江さん、どうかなさいましたか」
と声がかかる。小輪で出会った男と同じ法被を着た年配の男だ。
「いんや、何にも」
「でしたら、いいのですけども。今日は風が冷とうていけませんね。もうお夕飯は召し上がられましたか」
首を横に振る。
「今日は子持ち魚が手に入りましたので、醤油でぐつぐつと煮ておりますよ。こちらに合うように、他にもいくつかお持ちしようと思いますが、お好きですか?」
「ああ、魚の卵は美味くて好きだ。……そうだ、此茉の分も頼む」
年配の男は白く染まった眉を困ったように下げる。
「お嬢様はその……、あまり食欲がないとのことで」
「前からじゃないか。百歩譲って、いつからか計算するのを止めても食わせないと」
「それは私どもとて重々承知のことではあるのですが、お嬢様が食わないと仰るからにはそれに従う他ありませんので……」
おそろしいまでの脱力感にこめかみを押さえ、「兎に角、だ。二人分頼む。どうにかして食べさせるから」と俺は半ば強引に頼むと、男はしぶしぶ顔を縦に振った。そして内容を厨房に伝える為にか、男はその場で一礼すると店の奥に姿を消した。それを見送ってから、たたきの上へと上がり草履を拾い上げ木箱と一緒に小脇に抱える。
紫屋は、一見単純な造りに見えるのだが実は迷路のように複雑だ。階段はいくつもあるし、細く高い建物を繋ぐ橋も多い。その為、案内がなければ大人であれ、あっという間に迷子と化してしまう。
極め付けに、あの芸術品たちだ。
一階は竹林の中から睨みをきかせる白い虎や浜辺にあがった魚の尾を持つ人といった屏風を初めとして、数多の屏風が何かしらの法則を持って陳列されている。二階は巻物、三階は骨董品が並んでいた。
此茉に聞いたところによると、その芸術品の数々は紫屋の主たちがつくった場所らしい。現段階での主は此茉の母――奥方だが、彼女は一階の中央に巨大な枯山水を造らせた。俺は完成したその日に、嬉々とする奥方に連れられて此茉と一緒に見せてもらったことがあるが、率直な感想として仙人が好みそうな空間だと思った。
粗く削られた肌を晒す岩であったり、満遍なく敷かれた砂は鉱石を含んでいるらしく、夜になれば月の光を浴びてきらめく。しかも空間の中央にあるお椀のような窪みにはより光が降り注ぎ、第二の月を作り出す。
そういえば、そこで金色の鯉が泳いでいるのを見た客がいたらしいが、酔っ払いの戯言だろう。でなきゃ、どうしたって鯉が枯れた地で泳げるのか。
そう切り捨てながら、体を左に向けひたすらまっすぐに進む。と、夏までは鮮やかな紫でその場所を飾っていたあの提灯飾りの花が今はすっかり落葉した姿を晒している。花の標本みたいだ。寒さゆえに今はそんな姿だが、この花は気温さえあれば一年中咲くことが出来る花であるらしく、紫屋はわざわざ花好みの場所を作って育てているらしい。手間隙をかけて育てる価値がこの花にはあるのだろうけれども、それがいつ分かるのか。
歩を進め、右手の奥から二番目にあるとりわけ細い壁を手で押す。かこんと木枠が外れた音がし、壁が回転した。古典的な隠し扉だ。半回転の状態になっている壁へ体を潜らせると、薄暗い中に狭く細い階段が一つある。あいた手で手すりを掴み、一段一段慎重に上って行く。
ぎし、ぎし、ぎし。俺の体重に呻くように階段が鳴る。いつか壊れるんじゃないかと常々思っているのだが、その不安が実行される日は遠そうだ。先の方にぼやけた光が見えたと思うと、ついに明るい場所に出ることが出来た。左右に首を回すも、話し声は聞こえない。体を左に向け、おそろしく冷えた廊下を歩いていると中途半端に開けられた障子戸の部屋が見えた。両肩を溜息と一緒に下ろし、「入るぞ、此茉」とその部屋の主に声をかける。
入ると、部屋の片隅で開け放っている窓の外をぼうっと見つめる黒髪の少女がいた。少女は部屋に入ってきた俺に視線を移し、「こんばんは、海江」と抑揚のない挨拶を寄越す。俺はにこり、と笑った直後、言葉を弾丸のように飛ばした。
「こんばんは、じゃない。この冷え込んでる日に火鉢を出さない馬鹿がいる!」
「ここに」
「ここに、じゃない。火鉢を出さないならせめて厚着をしろ、厚着を」
「重たいから」
「うるさい、それからその窓はいつから開けているんだ」
有無を言わさない俺の態度に特段怯えた様子すら見せず、少女は首を僅かに傾ける。「いつ、だったかな」こいつ、医者の敵だ。怒りに震える俺はすとんとその場に腰を下ろし木箱を横に置いて少女を笑顔のまま見据える。
「此茉、お前は俺を疲れさせるのがうまいな」
「……海江も嫌味を言えるんだね、新発見だよ」
「ああ、どっかの誰かさんのおかげでな」
言いながら、「火鉢はどこだ」と詰問調に問う。少女――此茉は眼を瞬き、「要る?」と当たり前の事を聞く。
「要るな。お前がそこの窓を閉める気がないなら間違いなく」
「そう。確か、部屋の前に鉢を置いておくからってお母さんが言ってた気がするけど」
此茉の言葉を受けて、部屋の前を見ると物陰に隠れて丸々と太った風呂敷があった。これだ、これ以外にない。早速、部屋に持ち帰り風呂敷を開けると青い縦じまの入った鉢が包まれていた。「ああ、あったね」と此茉が暢気なことを言うので、黙殺した。
「で、火はどこから貰えと奥方は言っていたんだ?」
「どこからでもいいんじゃないかな」
「適当を言うな。しかし弱ったな、鉢があっても燃料がなきゃ意味がない」
「貰ってこようか?」
「ぜひともそうしてくれ。ついでにお前は自分の冬服を貰って来い」
「寒くないんだけどな」
ぶつくさと言いながら此茉が立ち上がったところで、「此茉お嬢様」と恭しい声が部屋の外から聞こえた。此茉は立ち上がったついで部屋の障子戸を引いて、「どうしたの」と声の主に尋ねている。
「お食事を、それから火種もお持ちいたしました」
その一言に此茉は首をこちらへと回し、
「海江、ご飯だって」
「聞こえてる」
立ち上がって、俺も障子戸の前に行くと此茉を障子戸の前から離れさせ、膳を中に運んでもらう。女二人が膳の仕度をしてくれる横で、玄関で食事を頼んだ年配の男がひしゃくの形をした十能から鉢の中にすっかり火がついた木炭を入れてくれている。俺は男の隣に座り、
「すみません、火種まで持って来ていただいて」
「いいえ。それにこれは奥様からのお計らいでして」
「奥方から?」
「はい。朝からお嬢様が火種を貰いに来た様子がないのですが、とお伝えしたのですが、なら今頃雷を食らっているだろうからついでに持って行ってやって欲しいと」
男が話すそれに俺は舌を巻く。
「それとお嬢様の分もお持ちいたしましたが、品数も量も少なめにしております。宜しいでしょうか」
「構いません。実はそういう風に伝え損ねたと思っていましたから、そうして心を配って頂いて助かりました」
「左様ですか。なら、ようございました」
男ははにかみ、女二人と共に出て行った。膳の前に座り箸を取ると、此茉が食い入るようにして自分の前に置かれた膳を見つめていた。
「お前のだよ」
と教えてやると、此茉は不思議そうな顔で俺を見返す。
「私、お腹減ってない」
「腹が減っていなくても食べろ」
一呼吸を置いて、「どうして」と此茉は割と切羽詰った声で尋ねた。俺は煮付けられた子持ち魚の身を咀嚼した後、こう答えた。
「生きる為だ。残酷にも悲観的にもなるかもしれないけど、他の命を食わないと命ってのは絶対に生きていけない仕組みなんだよ。此茉」
言い聞かせるように言うと、此茉は顔を俯けた。それでも……、とかなんとか呟いたようだけども、声が小さくて聞こえなかった。これで食事を取らなかったら俺はその言葉を追求しただろう。だが、此茉は箸を取り小さくお辞儀をして、俺のと比べれば大分品数も量も少ない飯を食べ始めた。
……これですこしこいつの具合も良くなればいいんだけども。徐々に温まってきた部屋に触れるだけで熱を奪われそうな風が入り、その部屋に溜まっている”とある匂い”を沸き立たせる。紫屋に足を踏み入れたと同時に香る、あの水の匂い。
「海江、」
呼ばれ、顔を上げる。と、此茉が薄く微笑みながら言う。
「温かいね」
「……、やっぱり寒かったんじゃないか」
「そうじゃないけどそれでいいや」
「なんだ、それ」
苦笑しながら、頭は冷静に隅っこで考えている。
どうしてこの水の匂いは此茉から香り、こうも人を惹き付けるのか、と。
・
・
翌朝、昨日の寒さの理由を裏付けるように辺り一面に雪が積もっていた。道理で寒かった訳だと着る物を一枚増やして、大輪の居住区に住んでいる人たちの問診をし、薬を渡し終える頃には既に半日が経っていた。それでも時間だけを見れば、昨日よりも早く終わっている。
体全体に溜まりつつある疲れを引きずって、俺は紫屋へと向かった。積雪からか、まだ日が沈みきっていないからか通りにいる人は少ない。呆気なく小輪の門を潜り、紫屋に到着した。男衆達がせっせと雪かきをして道を作っており、挨拶をして此茉の部屋へと向かう。
落葉をした紫の花の上にも雪が降り被さっており、このまま放って置くと雪の重みで枝が折れそうな気がした。それはかわいそうだと思い、庭へと出て重苦しそうな雪を手で払っていた時だ。カコン、と後ろで隠し扉が開く音がした。とりわけ珍しいことでもないのだが、それでも不意打ちには十分だった。
驚いて、顔を背後に向けるとぼさぼさ頭に無精ひげをはやした男がいた。服に関心が無いのか、どれも皺くちゃで袴など裾が足りていないらしく足首が見えてしまっている。
「今日も随分と冷え込みますな」
俺が男の身なりを観察していると、急に男は犬みたいな人懐っこさで話しかけてきた。多少、面食らったもののすぐに意識を取り戻して「そうですね」と相槌を打つと、男はお忙しいでしょうと言うのだ。
俺は首を傾げて、
「どこかでお会いしましたか?」
「いいえ。でもあなたのお話をお嬢さんが気が向いた時にちらっと話してくれますので」
「此茉が、ですか」
呟きながら、果たして面白みのある俺の話などあっただろうかと考える。その傍らで、男が自身の頭をわしわしと掻きながらぼやく。
「最後がなぁ、最後が気に入らないんだなぁ」
「……最後?」
「やや」と男は水を得た魚のように身の上話をし始める。
「俺は脚本家でして、次の舞台の為に脚本を書いて出来上がったまではよかったんですが……、最後が気に食わないんです」
「気に食わない、ですか」
そんなこともあるものなのかと思いながら、言葉を鸚鵡返しにする。と男は首を縦に振り、こう尋ねた。
「一足す一はなんですっけ」
「二でしょう。それ以外あり得ません」
「そうですね。数字ってやつは用いる公式は難解ですが、答えは質素で分かりやすいもんです。つまりですね、一足す一は二だと一本筋の通った終わりが欲しいんです」
「そうではないから今の脚本は気に食わないと」
「そうそう。始まり方は一つですが、終わり方は幾千個ありますのでどう締めくくろうか色々と決めあぐねていまして。それで此茉お嬢さんにご助言いただければなあと腹黒いことを思って、依頼しに来た次第です」
出来るのだろうか、此茉に。確かに話を聞き、求められる答えを探すのが此茉の役割だがいささか荷が重い気がする。
「それで此茉はなんと?」
お、という風に男は片眉を上げてこう答えた。
「考えさせて欲しい、と」
「期限は宜しいのですか」
「幸いなことにもう少しはあります。ああ、そうだ。よければ、今の脚本を読んでで構いませんから、あなたからもご感想をいただけませんか」
突然の申し出に俺は驚いた。
「感想と言われても、俺は芸術の方には疎いですし、此茉と違って的を得たことを言えるかどうかも」
「いんや、いいんです。感じたことさえ教えて頂ければ」
はあと曖昧な返事を返す俺に、男はにこりと笑う。
「ではよろしくお願いいたします。脚本はお嬢さんに一つ、お渡ししておりますので」
それだけ言うと、男はさっさと出て行ってしまった。男が去った後、俺がやや後悔することになったことは言うまでも無い。どうしたものかと突っ立っていると、水の匂いが強くなった。はっと意識を戻して顔を上げた先に、めずらしく部屋から出てきたらしい此茉が幽霊のように立っていた。
「びっくりした。いるならいるで声くらいかけろ、此茉」
「何か考えごとをしているみたいだったから」
言い訳めいた言葉を紡ぎながら、此茉は扉に寄りかかり、身の重みに任せて体をずるずると廊下に沈ませた。元気がない。昨日はすこし飯を食ったというのにどうしてだろう。
庭から上がり此茉の隣に座ると、日に日に痩せていくばかりのそいつは肉の削げ落ちた手で俺の手を掴んだ。冷たい。突拍子なことをやるのは此茉のお家芸であるから、その行動にもあまり気を留めずにおくつもりだった。けれどもその時は違う。
「……なあ、」
寂しそうに顔を俯け、張りをなくしてしまった声が漏らす声に、俺は一抹の不安を覚えた。「何か言ったか」と問い返すと、此茉は俺の顔をまじまじと見つめて薄っすらと笑う。
「なんで、眉間に皺が寄っているんだろうなあって」
……真面目に取り合って損した。
「お前の話し客に変に小難しい頼みごとをされたからこうなっているんだ」
「話し客……、さっきの脚本家さん?」
「ああ。お前にも頼んではいるんだけども俺にも感想をもらえないか、だそうだ」
此茉は顔を下げて、何故か黙り込んでいる。俺は首を傾げながら、「もう中は見たのか? どんな内容だった」と尋ねる。と、此茉はゆっくりと顔を上げてこう言った。
「海江は、読まなくていい」
「でも、約束が」
瞬間、手がぎりりと握り締められた。何度も瞬きながら、此茉へ顔を向けると此茉は苦しそうに言う。
「お願いだから、海江はそのままでいて」
此茉がそこまでして言う理由も知らないまま、俺は脚本家との約束を破棄してしまった。
罪悪感は感じなかった。
それ以上に、此茉の頼みを断ることの方が手痛い仕打ちに思えた。
・
・
雪解け水が通りを濡らし始める頃には、風邪で寝込んでいた人たちも回復し、俺の仕事も一段落した。束の間の休息を手に入れた俺は中輪で滋養のつきそうなものをいくつか選んで、此茉を見舞うことにした。
あれから何日か経っているが、容態は一体どちらへ転んでいるのやら。
いつもの様に小輪で紫屋の者に紫の花が飾る提灯を貸して貰い、暗闇をそぞろ歩きする提灯たちの列に加わる。雪の冷たい匂いが辺りを強く包んでいて、呼吸がしにくい。提灯を持つ手と反対の手で襟巻きを上げ、前を向く。今日も紫屋の明かりは眩く、月が出ていない夜を一層輝かそうと奮闘する星々のように騒がしい。
紫屋が大きく見え始めた時、後ろから腕を掴まれた。その反動で振り返った先に脚本家の男がいた。
「こんばんは、海江さん」
「……こんばんは」
「いやあ、お久しぶりですね」
「はあ、俺はここ最近忙しくて」
「ああ、そうでしたか。俺は紫屋からの帰りなんですが」
脚本のことか。
「結末は、どうなりました?」
「このままで行くことになりました」
「このままというと、気に食わないと言っていた?」
「そうです、そうです。まあ、お嬢さんが仰るんですから……」
言葉が止まった。何事かと男の顔を覗き見れば、彼は大きく開いた目で俺が持っている花飾りのついた提灯を食い入るように見つめ、「"守り提灯"」と呟いた。
守り提灯。言葉を反芻していると、男は俺の顔をまじまじと見、次の瞬間には輝かしいばかりの笑顔を顔いっぱいに浮かべた。
「ああ、ああ、素晴らしきかな。やはり与太話などではなかったんだ、お嬢さんも全くもって人が悪い」
「あの、ちょっと」
かき乱した髪の向こうにある目が俺を捉えた。思わず、足が一歩後ろへと下がる。
「海江さん、ちょいとお時間頂けませんかね」
「何の為に?」
男はからりと笑い、黒糸で硬く縛られた冊子をぺしりと叩く。「与太話のご感想を頂きたいのです」いっぱいに開いた瞼が外気に晒されてひりひりと痛んだ。その痛みに連れられて、此茉の願いが蘇る。
海江はそのままでいて、と。
あいつが言う”そのまま”は、どんな状態を言うのだろう。いや、本当は分かっているんだ。俺は男の与太話を聞いてはいけない、と。
何かが違えてしまうから。
変化が訪れてしまうから。
だから、耳を塞いで目を瞑って、男の妄言を今この場で切り捨てなくてはいけないんだと。何もかも分かっていて気付いていて、それでもなおそれが出来ないのはその世迷言の中に秘密があると少しでも思えてしまったから。
「……、小輪に近い小料理屋で構いませんか」
「勿論、小輪に近いってなると……、ああいい店があります。なに、お勘定は全て俺が支払いますからご安心を。ささ、参りましょう」
先導に従い、来た道をわざわざ戻り着いたのはこじんまりとした居酒屋だった。俺が提灯の火を消している間に、脚本家の男は熱燗とつまみの注文を出し暖簾を潜った。
「お前ェははよツケを返しない」
禿頭の小豆洗いのように小さな体の親爺が鋭い眼光を称えて答える。
「来週には返してやるさ。いつもの席に座っとくから頼んだよ」
へいへいと親爺が呆れ返った声で頷く。一番奥の席に腰掛けると、俺は脚本家の男に淡と切り出した。
「それでその与太話っていうのは、一体どんな内容なんですか」
「おっと、いきなりですか」
「俺の本題はそこだけです。此茉の容態だって……」
ちらりと此茉の姿が頭を過ぎり、男から視線を外した。「仲のよろしいことで」と男は零し、机の上にあの冊子をすっと置いた。さっきは暗くてよく見えなかったが、表面に筆書きで「命々」と書いてあった。
「……これは、何と読むんですか?」
「めいめい、と。意味は、話をしてからの方が分かるでしょうから後で」
いよいよ話が始まるかと思ったところへ、居酒屋の親爺がやって来る。
「ほら、銭なし」
荒っぽい言葉とは違い、熱燗や小皿に盛られた料理を置く手つきは優しい。
「悪いね、親爺。舞台が成功したらツケきっちり払って、また飲みに来るからさ」
「なら、来る前にゃその身なりどうにかしな。いい加減、他の客から文句が来そうなんだよ」
脚本家の男はきょとんとして、着ている衣服を隈なく見て何が悪いんだろうという顔をしている。言葉にこそしないが、全体的にだ。親爺はさっさと厨房に戻り、男は男で熱燗の中身をお猪口になみなみと注ぎぐいと一気に飲干した。
「あなたもどうです、一杯」
「結構です。それより話の続きをお願いしても?」
男は上機嫌そうに笑い、口を軽くしてとんとん拍子に語り始めた。
「この命々には、下書きにした伝説がありましてね。人によっちゃ、法螺話だの実話だの解釈も様々ですけども。確か、海江さんは外からこちらにお越しになられたんですよね?」
「ええ。もう十年くらいにはなると思いますが」
「なんだ、それじゃ海江さんの方が先人というわけだ」
「ということは、そちらも外から」
「はい。元々ふらふらしていて、当てもなく彷徨っては居ついたりとしていたんですが、ここにはなんだか強く惹きつけられましてね」
父と似ている……。
「運良く、ここで脚本家の仕事貰えたまでは良かったけども、ネタが尽きてしまいまして。これじゃおまんまの食い上げってな訳でネタ集めに奔走しておりますと、通いの店で働いているのや小輪にもう何十年とながぁく住んでいる爺様連中が面白い話をしてくれたんです」
「面白い話」
眉をひそめ、男の次を待つ。が、やって来たそれは正しく驚愕の一言だった。
「ここは”鬼”が統括する場所なんだと」
「鬼、ってあなた……。それは、つまりであの鬼ですか。角が生えてて金棒振り回しているような。いえ、まさかね。冗談でしょう、だって鬼だなんて」
男はしめたという顔をして、うろたえる俺に鬼の伝説をそらんじて見せるのだ。
・
・
「むかしむかし、そりゃあ大きな戦がありました。血で血を洗っては、誰のものかもわからないむくろを踏みつけ、今日生きる為に、はたまた自分の帰りを待つ誰かの為に切りかからなくてはいけない。
そんな戦です。
やっとのことで戦が終わった時、その場所にはむくろの山が出来ました。勝者も敗者もいません。ただただむくろだけが残りました。その内、肉が腐り始めてむくろの山には蛆がたかり、蝿が飛び、野犬や狼が臭いにつられてやって来ました。
終いに、むくろは骨だけになりましたがその骨も野犬と狼に遊ばれて、いずこかへ運ばれていきましたので正しく人数分の骨が残っているかは分かりません。そして悪いことに、骨にはまだ魂が残っていました。それも弔われていない数だけ。つまりは、あのむくろの山を成した数だけ魂がそこに残っていたのです。
魂たちは怒りました。何に対する怒りかはもう判断の仕様がありません。あまりにも多く魂が混ざりすぎて、どの魂も自分の元の姿すら分からなくなってしまっていたからです。やがて無数の魂は怒りによって一つとなり、気付けば魂は人を失いその身を鬼へと変貌させたのでした」
なるほど、法螺話だ。それもどこの土地にもありそうだから余計にそう感じるのだろう。何か言いたい気持ちをぐっと堪えて、紡がれていく物語に耳を傾ける。
「怒りから生まれた鬼はその土地周辺に隠れていた妖怪たちを束ね、城を作らせました。その優美さたるや、一国の殿様ですらうらやんでしまうほどです。更に鬼は手下に言いつけて、城の周りに町を置きました。人の町です。
なにせ鬼は、人の魂を食いました。言わずもながら、手下も人の肉を食います。どんなに我慢に我慢を重ねても、腹は減りますから手下は人の町を作ることに賛同はしました。
が、人をどうここへおびき寄せるのか、と鬼に尋ねたところ、鬼はあちらから来るとだけ言って城の奥にこもってしまいました。一日、二日、三日と時が過ぎ、手下たちの堪忍袋の緒も限界に達しかけた時、人がわんさかとやって来ました。
一体どうしたことかと驚く手下たちを他所に、久々に城から出て来た鬼は静かに言いました。
ほら、言った通りだろう。
そのことから、手下たちは鬼に今まで以上の尊敬と畏怖の念を送るようになりました。そうして彼らは人らしく生きながら、腹が空くとうまそうな人を襲っては食べました。
彼らにとってそこはたいへん素敵な場所でした。
しかし、それも一転。大雨が続くある夜のことです。鬼はとうとう腹を空かせて町を彷徨い歩き、手当たり次第に白けた味のする魂を食べました。ですが、どうしても腹は満たされません。理由は分かっています。
”水で腹は満たされない”、それと同じことでした。
魂が食べたい。うんとおいしい、この飢えを口に含んだだけで満たしてしまうような。そんな魂が食べたい。
まだ食えぬ魂を想像し、鬼は再び飢えにさいなまれるのです。人の身を捨てた身でありながら、鬼は現世にて餓鬼道を味わっていました。その苦痛を誰が想像出来ましょう。いいえ、出来るわけがありません。だって、あなたはまだ生きていらっしゃるのですから。
雨水で柔らかくなった地面を何度も掻き、泥水を啜る鬼が意識を離しかけたその時、もしと声がかかりました。男か、女かは分かりません。けれど、確かにその声は鬼に向けられたのです。
泥に汚れた顔を声の方に向けると、そこには光がありました。光、というのは正しい表現ではありませんが、その時の鬼にはそう見えました。光がにこりと微笑む一方で、鬼は分かってしまいました。
この光は、きっとおいしいと。この魂を食ってしまえば、鬼はこまめに食事をせずとも長く生きられることでしょう。それほどにこの光の魂とはおいしそうで、既に底をついている鬼の腹を更に飢えさせるものでした。
おなか、すいた。鬼は呟き、泥まみれの手を光に伸ばしますと、光は躊躇わずその手を取り言うのです。
ご安心下さい。あなたは、わたしが死なせは致しませんから。
光の手はあたたかく、生まれたその日から渇いてばかりだった鬼の心に雨を降らせました。その心地よさに鬼は飢えを忘れ、ひとたびの眠りにつきました。
再び鬼が目を覚まして、彼に人の友人が出来たことなどは皆様、お分かりのことでしょう。
さて鬼は、初めての友人にして最高の食べ物を守る為、目印をつけることに致しました。目印はつけられたその日の内に手下たち全員に知らされ、その目印をつけた人を襲い、食おうなどと思うものは一人もいません。自ら進んで人の護衛を勤めることさえありました。
そんなことですからその目印……。ハリマツリという植物がつけられた提灯は”守り提灯”と呼ばれ、それを持っている人は鬼からの寵愛を受け、そして鬼の飢えを満たせる魂という何よりの証拠となりました。
さてさて、鬼は友を食えたのか。それとも食わなかったのか、それは舞台でのお楽しみ……とまあ、こんな具合なんですよ。お話を聞いたご感想はいかがですか、海江さん」
脚本家の男が人を食った笑みを浮かべ尋ねる。俺はといえば、頭を抱えて男が語ってみせた話を必死に整理していた。鬼などと馬鹿げた話を断じて信じた訳ではない。しかし現実として、この荒唐無稽な話に出てくるものと似通ったものが俺の周囲にはあまりにも多く存在している。
何者かに化かされているかのように感じる、あの提灯の火も。
城の奥で胡坐をかく殿様たちが羨む優美な城と例えられるような建物も。
その建物を囲うようにして出来上がった人の町も。
そしてこの話と日頃不可思議に思っていたことを重ねてしまえば、納得できることすらある。
紫屋が一人娘、此茉が漂わせるあの水の匂い。ひょっとすると、話の中でその地へと人が集まって来たのはあの匂いに惹かれてきたのではないのか。あたかも蝶が花の極上な蜜に誘われるかのように。
だが、今の話で一番問題なのはそこじゃない。
守り提灯と男が呼び、話にも出て来たその提灯の存在だ。そう、同じなのだ。紫屋の連中の行動と話に出てくる鬼の手下たちの行動が。が、その話がもし通ってしまったならば……、鬼の手下達かもしれぬ紫屋の連中を動かす此茉とは一体、何だ。
「お気持ちお察しいたしますよ、海江さん。俺は今、あなたが何をお考えなのか手に取るように分かります」
俺は僅かに顔を上げる。
「今、何と」
「分かると言ったんです。偽善なんかじゃありません。本当に分かるんですよ」
途端に男は真面目くさった顔になり、静かに告げた。
「お考えのとおりです、海江さん。この話は紛れもなく、”実話”です」
「……っ」
それから男は無慈悲な証明を誰の為にか、立てていく。誰も得をしない、そんな証明を。
「確証ならばいくつもあります。その一、この土地では大昔に戦がありました。それこそ話のような勝ち負けのない戦だったそうで、各地の領主たちはその凄惨さを語り継いでいるが為に未だに戦を行わないのだとか」
一歩、また一歩と。
「その二、鬼が手下たちに作らせた城と人の町ですが、城というのは紫屋で人の町というのは説明も要らないでしょう」
近寄る、それは。
「その三、これは海江さんが立証してくださいましたね」言いながら、男は火を消し去った青紫の花……、萎れつつあるハリマツリが飾る提灯に視線を向けた。「守り提灯」と男が呟く。
「海江さん、此茉お嬢さんは鬼の末裔ですよ」
現実という名の致死毒だ。眉間に皺を寄せ、俺は男を睨んだ。
「あなたは……、一体何がしたいんですか」
「最後が気に食わないだけですよ」
「此茉はいい、と言ったんでしょう?」
「確かにいい、と仰って頂きました。ですが俺にはどうもその結末は物語的にではなく、お嬢さんご自身が渇望されていらっしゃる終わり方じゃないかとそう思えて仕方がないのです」
此茉が選んだ終わり方……、それは俺を生かして自分を殺す幕の閉じ方?
その一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れた。どうしようもない事実に占拠され、次々とへし折られていく未来がいとも簡単に想像出来てしまったのだ。
今、此茉がああも痩せ細って行くのは鬼が科せられたそれだ。あいつは今この瞬間にも飢えを味わっている。だから人の食事などでは回復せず、かと言って治る術となる方法も限られている。
魂を食うこと。もしも鬼が飢えから救われる方法がそれだけであるなら、あいつは幾つ魂を食えば癒えるんだろう。もしかすると、もう食っているのかもしれない。食っていて、痩せ細って行くのだ。守り提灯を持たされた俺がいる限りは。
どんなに腹を満たしていても、美味くてたまらないものが目の前にあれば腹は減る。だというのに、あいつは十年も飢えの中に居続けている。飢えは飢えを呼び、やがて死をも呼ぶ。
ああ、間違いない。此茉を死の淵に追いやっているのは、病でもなんでもない。俺なのだ。
得体の知れない恐怖と罪悪感に包まれがく然としていると、
「差し上げますよ」
と脚本家の男が長方形の薄っぺらい紙を渡して来た。見れば、それはくだんの舞台の入場券だった。それもご丁寧に二枚。
舞台の名である命々を見つめながら、俺は幼馴染を頭に思い描き質問をぶつける。
なあ、此茉。お前は、どうしてその終わり方を選んだんだ。
生まれの辛さ? 長年に渡る飢えの苦しさから? それとも馬鹿らしいこの世に飽きて?
「違う」とお前は一蹴するんだろうな。ああ、そうだろう。そうだろうとも。何故、そう言い切れるのかと理由を聞かれてしまえばうぬぼれの一言に俺は尽きてしまうだろうけれども。
的から外れていても文句は言わないさ。でもお前もそのうぬぼれを持っていてくれたのなら、此茉。お前は理解してくれるだろう。
その終わり方は、お互いが自分以上にいとおしいから選ぶ終わり方なんだと。
・
・
日取りに迷った挙句、千秋楽を選んだ。口実作りに便利だったし、後がないぞと自分を脅す目的もあった。
日は西側に傾き、足元に影を作る。足はずっしりと重く、なかなか思うように動いてはくれない。多少遅れてしまっても入場は出来そうなものだが、最初からこんな具合では今日がいつもで終わってしまう可能性すらある。
それでいいじゃないか。
心のどこかで自分に甘い自分が言う。駄々をこねる年じゃないだろうと自分に言い聞かせ、この自問自答の会話を締めくくった。
途中、紫屋の女に出会い、此茉に下に降りて来てくれるようにと言伝をした。なんでさ。女が聞くので、食事療法をしようかと思ってと答える。咄嗟に口から出た嘘だったが、嘘ではない。むしろ皮肉めいて聞こえると後で気付いた。言ってはおいてあげるけどさ。気乗りしないといった様子を隠すことすらせず女は頷いて、客を引き連れ先に紫屋へと向かって行く。
俺の歩調は変わらず短かったが、歩くことを止めはしなかった。道行く人々を襲う風と格闘しながら、今にも家に戻ってしまいそうな自分を叱る。
戻るな、行け、行くんだ。
三つの言葉を繰り返し心で呟いた。繰り返さなくては意味がなかった。麻酔を打つのと一緒だ。一度切れてしまえば、患者は途方もない激痛を味わうように。家に帰った時、その時には間違いなく俺は決して計ることが出来ない大きな痛みを伴う現実を味わう。
そればっかりはどうにも許せない。ならば、やることは決まっている。麻酔の存在すら忘れるくらいに、言葉を繰り返し続けるだけだ。……、おかしいな。周りがやけに静かだ。おもむろに顔を上げると、先ほどまで同じかそれよりも速い速度で歩いていた人々がみな、壁に寄りかかっている。彼らは道の先を食い入るように見てばかりで、一歩も動こうとしない。狐にでも化かされているのか。
「海江、」
と弱弱しい声が耳朶を打った。今まで考えごとをしていて気付かなかったが、水のにおいがその道にどっと溢れるように満ちていた。それを自ら発生させる知り合いは、一人しかいない。視線をその場にいる人々と同じ方へ向けると、翡翠色のレースが縫い込まれた黒衣を羽織る此茉が提灯を片手に立っていた。
「此茉、こっちまで来たのか」
「……その方がいいかと思って」
「それはそうだが、でもどうやって? まさか走って来たのか?」
「ううん。そこまで人力車を出して貰って来たの」
此茉は瞼を煩わしそうに持ち上げて、「まだ停めたままにして貰ってるけど、人力車で行く?」と尋ねた。少し考えてその方が此茉にとってよかろうと思い、俺は頷く。
人力車は隠れるようにして暗闇の中に停めてあり、その隣には車夫が二人談笑しあっている。が、そちらに戻って来た此茉の姿を見て、車夫の一人がさっとやって来る。
「お嬢さん、どちらへ?」
此茉が隣にいた俺へ視線を止める。車夫の視線が俺に移動した。
「中輪の岩戸(イワド)座まで」
「岩戸座ですかい。おい、岩戸座だそうだ。お前、お嬢さんに手を貸してやんな」
場所を聞いた車夫に言われ、もう一人いた若い車夫が此茉に手を貸す。が、此茉は俺の顔を何か言いたそうにじっと見てばかりでその手を取ろうとしない。
若い車夫は困り顔を浮かべ、お嬢さんと呼びかける。それでもなお、此茉は動こうとしない。「此茉」叱るような声色で名を呼ぶと、此茉は静かに瞼を閉じ、やっと車夫の手を取って先に人力車に乗り込んだ。
続いて俺も乗り込み、こちらが座ったのを確認して車夫が寒い道を走り始める。それから目的地である岩戸座まで会話はなかった。
・
・
一言も交わさないまま、岩戸座と白の布地に一筆書きされた暖簾を共にくぐる。
「いらっしゃいませ!」
海老色の着物を着た女中が元気よく出迎える。懐から脚本家の男に貰った券を取り出して女中に渡すと、彼女はびっくりした表情をした。なぜだろう。
「お客さん、お名前をお伺いしてもいいですか」
「俺の?」
「ええ。こちらはウチの特等席で間違いとかあっちゃいけないもんですから。場所にご案内する前にご本人確認として、あらかじめ控えさせて貰っている名前と照合するんです」
特等席、観劇には詳しくないがそういうのは席代がとてつもなく高いんじゃないのか。険しい顔を浮かべつつ、「俺は海江、連れは此茉です」と言う。女中は控えの名簿とにらめっこし、うんうんと数回ほど首を縦に振った。
「はい、確認が出来ました。今から場所にご案内いたします」
女中はこちらです、とせかせかと道を進み始める。振り返って此茉を見ると、先ほどよりも顔色が悪くなっていた。此茉の前に行き少しかがむ。
「乗れ」
「……、うん」
小さい声のすぐ後におおよそ重みとは呼べない何かが背に乗った。一度、此茉を背負いなおして先に進んだ女中の後を追う。くすんだ絨毯の上を歩き、階段を上る。
どうも席は二階に用意されているらしい。「こちらでございます」女中が手で指示した先を覗くと、そこはなんともぜいたくな造りの個室だった。左右の客に遠慮をすることはもちろんしなくていいし、座椅子も既に置かれ、城主さながらに上から劇を見ることが出来るようだ。
去る前に女中に窓際に座布団を三枚敷いてもらい、内二つのところに此茉を下ろす。「劇はもう間もなく開演でございます。どうぞごゆるりと」女中は静かに障子を閉め部屋を出て行った。
場はしいんとしている。理由はわかりきったものだ。俺は此茉にうしろめたさを感じている。だからいつもであれば出来る会話も簡単に出来はしないのだ。胸に酒の蓋でもつっかえているかのように。何も言葉は出てこない。
そうこうしていると、物語の始まりを告げる太鼓の音が地鳴りのように響き渡った。
カン、カン。拍子木が鳴ると、舞台に下げられていた幕が静かに上がり、その全貌が明かされて行く。集客率はまあまあといったところで、あちこちから拍手が沸き起こっている。
幕が完全に上がりきった時、舞台の上で像のように佇んでいた登場人物たちが命を得、言葉を発した。「私は、誰だろうか」
それが合図であったかのように、俺は壁に身を預けていた此茉の方へと体を向けた。深く息をすると、水の匂いが肺の中に貯まって水に浸っているような心地になる。それを払うかのように前を向けば、今度は此茉の視線が俺を捉えた。俺はぐっとこぶしに力を込め、声を振り絞って言う。
「此茉、お前は鬼の子孫なのか」
此茉はその問いに顔を俯けた。それがだんまりを決め込む為になのか、それとも考えを纏める為にとられた行動なのか。まだ分からない。しかし此茉が沈黙を守ることで場は自然と勢いを失い、静まり返ってしまった。身動き一つ取ることさえ躊躇われる。それがこの場に流れる雰囲気だ。唯一、救いがあるとすれば観劇用の戸は開けられたままでそこから舞台の台詞が聞こえてくることだろうか。
「海江、」
意識が戻る。と同時に、此茉は今にも消えそうな雰囲気をまとって薄く微笑んだ。
「海江は食べないよ」
思わず、息をのんだ。完璧でしょうがなかった。此茉が選んだ回答はさきの質問にも、また此茉自身の気持ちを証明することも出来たのだ。
膝の上に置いた手がいつの間にか、握り拳になっている。自分の手を厳しい目で見つめながら俺は此茉に問うた。
「食わないままで、お前はあとどれくらい生きられる?」
「……どうかな、」
「此茉」
ぴしゃりと言うと、此茉は眉を下げこう答えた。
「今年は異様に桜が見たくはないの。だからきっともう少しね」
春が来るか。それよりも先に此茉が餓え死ぬかということか。嫌な追いかけっこだ。
「いつかね言う日が来るって知っていたの。だって最初に会った時から海江を見ると、お腹がものすごく空いてたまらなかったから」
最初、からか。最初からそうで、今やっと俺は知ったのか。どこかで気づくことも出来ただろうに。何も気づくことが出来なかった自分に悪態をついていると、此茉が俺を慰めるかのような言葉を紡いだ。
「海江が自分を責めることなんてないよ。海江と会うことも会わないことも私はいつでも選べたもの。だから毎日選んで海江と会っていたの」
此茉はそういうが、俺は自分を責めずにはいられない。それを此茉も悟ってか、さらに続けた。
「最初は食べるか食べないかも悩んでた。お腹が空くのはほんとうに苦しくって、我慢しようと思っても我慢しきれるものじゃなかったから。でも、それでもね」
此茉は困ったように笑った。
「私は海江が死んでしまうことの方が嫌だった。後悔はしていないの、することもしない。だって海江を知ったから今の私でいられたんだから」
素直に嬉しい言葉を受け取れなかった。受け取ってしまえば、最後。俺は此茉の決断に押し切られてしまうだろう。そうならない為にも、俺が次に取るべき行動は決まっていた。
「此茉」
振り絞って出した声は、今まで生きてきた中で一、二を争う硬く辛い声だった。
「俺を食え」
瞬間、此茉は目を大きく見開き、「いやだよ」と今にも泣きだしそうな声を零した。俺は此茉を見返し、首を横に振る。
「それは聞いてやれない」
「なんで、……なんでなの海江」
「……なんでもどうしたもない。いいじゃないか。俺自身の命だ。それをどうしようと、俺の勝手だ。父さんにも、此茉お前にもとやかく言われたくはない」
唖然とする此茉は時間をたっぷりとかけて呟く。
「…………やめてよ、海江」
「やめない」
「やめてったら!」
大きな声を久々に出したせいか、此茉は咳込む。
「私は海江と違う生き物で、命はほかの命を食べないと生きてはいけなくって。食べちゃいけないんじゃなくて、食べられないんじゃなくて、」
此茉の問答が止まったと思ったその時、あまり泣いたためしのないそいつが泣いていた。驚きを隠せず、固まった俺に此茉は言った。
「怖いよ、海江。その日から海江が返事をしてくれなくなることが私は一番怖い」
実体のない重みが場を息苦しいものへと変貌させた。感覚がどこにも逃げ場がないと叫ぶのを聞きながら、俺はやっと言葉を発した。
「最近、父さんが新しい医術のことを話していた。なんでも海の向こうにある大陸では、悪くした部分の器官を死んだ人から貰い受けることが出来るらしいんだ」
「それはすごいね」
けど、と此茉は言葉を濁した。俺は此茉が止めた言葉の先を代弁する。
「『誰かの死を引き継いで誰かは生きるって、残酷だね』、か」
此茉はわずかに顔を上げ、頷いた。
「残酷だ、けどすこし見方を変えてみるだけでこれは希望にもなりえる。此茉、命を食うってことは食ったその命と今日を明日を、そのずっと先を共にするってことじゃないのか」
戸の向こうで、拍手の音が鳴り響いている。そういえば、結局この舞台はどう終わるんだろうか。その先はどういう未来なんだろうか。聞けばよかったかもしれない。いいか、好評であれば”また”観れるだろう。
片手を此茉の前に差し出すと、此茉は色々な感情が混じった顔で俺を見た。
「此茉、腹が空いたろう。悪かったな、今まで気付いてやれなくって。でも、もういい。俺を食べてお前は生きろ。いろんなことを見て聞いて知って賢くなってうんと長生きもしたら、またいつもみたいに暮らそう」
此茉は差し出した俺の手におそるおそる触れて、
「おんなじ所に行ける?」
「行けるも何も、運命共同体だろ」
言うと、冷たく水の匂いをまとった此茉の手が俺の手を握りしめた。笑ってしまえるほどに弱い力で。ああ、待て。指先に力が入らない。目がかすむ。頭がくらくらとし、体が前のめりに沈む。そんな中でも意識が保てているのは、この手に伝わる冷たさのおかげか。
それでも意識はゆっくりと体から離れて行き、最後の薄ぼやけたものがついに剥がれたその時、此茉の声が聞こえた。
「おいしいよ、海江」
ああ、良かった。
を、君にあげる ロセ @rose_kawata
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます