鉄塔から落ちた

稲森ミモミ

鉄塔から落ちた

 鉄塔から落ちたとき、もう考えることに疲れきっていた。


 漠然と、今と将来と過去を考えることに疲れて、ここに登ったんだと思う。欄干と呼ぶにも頼りない、錆びついた鉄の棒に足をかけて、ゆっくりと下を覗く。何十メートルだとか、そういうのはよくわからないけれど、落ちればまず命はないだろう。それだけわかれば十分だ。

 背後から風が吹いて、それに押されるようにわたしは重心を前に傾けた。


 足が、欄干から外れる。




「――ッグ!?」


 息が詰まり、突然の衝撃に、くすんだ鉄塔がうなる。

 体は冷えた鉄板に叩きつけられた。背中がじんじんする。


「おま、え、何、してんだよ?」


 尻餅をついた少年が、肩で息をしながらわたしの服を掴んでいた。

「痛った……っ。……何って、何だろ。自殺? 自殺かな」

 震える声でそう言葉にすると、自分がしようとしたことに実感が湧いてくる。そっか、そうだ。わたしは自殺しようとしたんだ。

「バカじゃねーの!? お前、俺が止めなかったらマジで死んでたぞ!?」

 そうだけど。わかってるよ。

「……うん、そうだね。助けてくれて、ありがと」

 彼が服を離したので、私はそっと立ち上がる。足が震えていた。

 なんだ、怖かったんじゃん、わたし。

 おかしくて、ちょっと笑いそうになった。

「で、あなたは誰?」


 優斗はわたしとは別の高校に通っていて、あの鉄塔には偶然来たそうだ。別に登る気はなかったけど、上にいたわたしの様子がおかしいのを見て、駆け上がったらしい。大声でわたしを呼んでたっていうけど、声も足音も全然気づかなかった。

 鉄塔を降りた後で、思いつきざま「ね、パンツ見た?」と聞くと、心底うんざりしたように、それどころじゃなかったろ、と言われた。……それもそっか。


 それから、わたしと優斗はよく遊ぶようになった。

 優斗は結構かっこよくて背も高いほうだ。一緒に遊んでるとちょっと優越感に浸れるし、何よりも楽しい。なんとなくで自殺しちゃうくらい生きる楽しみが欠けていた私にとって、ふたりでの時間は全てと言ってもいいくらいで、ほんのすこしだって離れたくなんてなかった。


 優斗は、はじめは保護者というか、自殺を止めた責任者みたいな立場だった節があって……。けど、何度か会ううちによく笑うようになったし、私を色々な場所に連れて行ってくれた。私も負けないくらい、色んなところに連れて行って、色んな話をして、色々プレゼントしあって、たくさんキスをした。誰もいない日を狙って家にも招待して、その日に処女もあげた。優斗は本当に、本当に優しくて、それ以外のことなんてすこしも考えたくなかった。




「ごめん。受験だからって、親がさ……これから、あんまり会えなくなるかも」

 ちょっと前からすこしだけ会う頻度が減っていて、そんな気はしていた。必死に見ないふりをしていたことだ。塾に通うから、放課後や休みの日に時間が取れなくなる、と。

 優斗と違う高校に通っていることが、これまででいちばん恨めしく思えた。わたしはどう転んだって大学に行かせてもらえないし、当然塾になんて通わせてもらえない。優斗と一緒にいる時間が、わたしの全部が、大人たちに奪われていくような気がした。


 それでも、もう会えないってわけじゃなくて、週に1回とか2回とか、それくらいなら会うことはできた。時間はあまりとれないけれど、一緒にいれば十分に幸せだった。会えない日も会えた日も、スマホで連絡は欠かさずしたし、それなりに満たされていた。

 けど、そんな生活をしばらく続けていたら、どうしても足りなくなった。もっと優斗に触りたい。もっと優斗と話したい。もっと優斗の顔を見たい。優斗に、優斗に会いたい……。


 塾に忍び込むのは、別に難しいことじゃなかった。この辺りではかなり大きな塾らしく、忍び込むもなにも全然普通に入ることができて、拍子抜けしてしまった。

 優斗にはここに来ることを伝えなかった。それを言えば優斗はわたしに負い目を感じるだろうし、単純に驚かせたいと言う気持ちもあったからだ。

 事前に優斗から聞いていた教室を覗くと、ちょうど休み時間らしき生徒たちが思い思いに休んでいた。見回しても優斗の姿は見当たらなかったので、すこし気後れしながら、生徒たちの不審げな目線から逃げるように教室を後にして、また優斗を探すことにした。

 もしかしたらトイレに行っているのかもと思い、トイレの標識に従って進むと、すぐについた。入口の前ですこし待とうかと思ったが、脇にある階段の裏手から物音が聞こえる。気になって、そちらを覗いてみた。


「ゆう、と……?」


 頭がおかしくなったのかと思った。

 見たことのない女生徒を壁際に押しつけながら、ディープキスをしている優斗がそこにいた。



 それから、たぶんわたしは走りだして、この鉄塔まで逃げて来たんだと思う。……よく覚えていない。膝はガクガクだし、脚のあちこちが擦り切れていて、ガチガチ震える口の中は乾ききって、訳がわからないほど涙が溢れた。辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 鉄塔の周りには立ち入り禁止のバリケードがはってあったが、わたしは覚束ない足取りでそれを避けて、鉄塔を登り始めた。錆びた鉄が甲高く響き、虫の鳴き声に掻き消える。心臓の鼓動がうるさいほど鳴って、それにもまたイラついた。


 そもそも、わたしには優斗をどうこうする権利なんてないのかもしれない。優斗はわたしの命の恩人であって、所有物ではない。彼がいなければ何も起こらないまま死んでいて、これまでの幸せな時間もなかったんだ。

 だから……

 だから、なんだろう。わたしが悪かったのかな。

 そうなんだと思う。もっと優斗のためにできたことはいくらでもあるはずだ。

 優斗を失うことに比べれば、どんなことも苦しくなんてないはずなのに。わたしは馬鹿だ。


 ねえ。優斗。

 ごめんなさい。謝るから……。ねえ。

「ねえ、やだよ。置いてかないでよ、優斗ぉ……」

 いつの間にか、鉄塔の階段を登りきっていた。


 もしかしたら、わたしはただ再現をしたいだけなのかもしれない。

 こうして鉄塔の上にいれば、また優斗がわたしのことを見つけてくれて、助けてくれるんじゃないかと思っている。

 本当に、本当に嫌な女だ。

 自殺なんて一度だって迷惑なのに、二度も。しかも今度は自分が救われたいだけだ。

 いや、本当は一度目だって自分が救われたくて、逃げだしたくてしたことだ。それを優斗に救われたから、今度は調子に乗って二度目だなんて。虫がよすぎる。


 けれど、もう何も考えたくはなかった。ただ、優斗に対する引け目と、死という誰も拒まない逃げ道と、かすかな希望だけが頭の中に渦巻いていた。

 もう、いいよね……。


 錆びてところどころ穴の空いた欄干に足をかけると、軋みと、すこしばかりの振動を感じる。体の震えはもう収まっているものと思ったが、そんなことはなかったようだ。

 不安定な欄干に乗り、深呼吸をした。

 もう下は見ずとも十分だ。見たくもない。


 ――今まで、本当にありがとう。


 背後から風が吹いて、それに押されるようにわたしは重心を前に傾けた。


 足が、欄干から外れる。

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鉄塔から落ちた 稲森ミモミ @mimomimomimomin

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