09 行きついた其処は
「ハッ、ハッ、ハッ……。はぁあっ」
路地に置かれた木箱の裏で必死に息を整える、耳元で鼓動が鳴っているように聞こえるのは緊張のせいか、獣人の耳の良さ故か、どちらにしても五月蠅いことに変わりなかった。
木箱を楯に隠れながら大通りを覗く、今のところリィルさんの姿はない。それを確認してようやく息を大きく吐き、壁に身体を預けた。
「ふぅー。なんとかまけた。あっそうだ。さっきはありがとう。おかげで助かった」
手を耳に持っていくと、蜘蛛は掌に飛び移り万歳のようなポーズをとって、不思議な動きをしだした。そのコミカルな動きに声を殺して笑ってから、路地の隙間から覗く狭い空を見上げる。
「……さて、これから如何しよう」
――いや、本当は分かっている。
この現状を打破する最速の一手をワタシは持っている。今すぐ両手を上に突き出し、例の言葉を言えば何もかも解決することは承知している。
しかし、しかしだ。それを唱えたら最後、ワタシの目の前には惨たらしく殺された休日が横たわることになる訳で、それは許されない厄災である。
月曜日からの逃避行という全世界の社会人の夢を背負って異世界に来たというのに、現地住民からも逃げなければならないとか、とんだ休日になってしまった。
「はぁ。どうしよ、ん?」
耳がピクリと震える。顔を路地の奥に向けてじっと息を潜めると、もう一度ピクリと耳が震えた、と同時に走り出す。今度は確かに女性の悲鳴が耳に届いていた。
音と感を頼りに声がした方にひた走る。自分に何が出来るとも思わない、それでも身体は神様作の超常で、絶対に怪我をしないときている。楯役にはうってつけだ。
身体能力をフルに使い、何度目かの角を曲がったところ、袋小路になった薄暗がりで、ナイフの反射が異様にギラついて見えた。
「やめろぉっ!」
「ぐぅお!」
相手をひき殺さないよう細心の注意でタックルをかますと、暴漢はナイフを取り落し数メートル先に転がったが、素早い身のこなしですぐに体制をなおした。
「なんだ!? なんか愛らしいものに突撃された気がする」
「お前もかよっ!」
緩んだ顔のまま立ち上がった男を前に、襲われていた頭まですっぽりとローブで覆った女性を背に庇いながら声を掛ける。
「大丈夫ですか!?」
「うん、大丈夫だよ。イディちゃん」
「なら良かっ……ワタシ、名乗りましたっけ?」
「うん。初めて会った時にね」
「……ひぃっ!」
耳元で囁かれた聞き覚えのある声に慌てて振り返ろうとして、いつの間にか羽交い絞めにされているのに気が付いた。全身を使ってワタシを拘束したリィルさんは、明るい声で先程までナイフを向けていた男に話しかけた。
「バハ、お世話様。成功分の報酬は後日、店に取りに来て」
「あいよ。ああ、いや。成功報酬の代わりに今度そいつを撫でさせてくれ」
「しょうがないなぁ。協力してくれたから特別ね」
男が去っていったのを確認すると、リィルさんは私の項に顔を擦りつけながら、囁くように語り掛けてきた。
「イディちゃんなら絶対に駆けつけてくれると思ったよ。だってすごく優しいから。自分の口から出てきた蜘蛛を殺さないどころか、投げ捨てもしないイディちゃんならね……。っさ、家に変えろ」
「あぁあああ」
先程まで被っていたローブを抱っこ紐のように使い、ワタシと自分を繋ぐ徹底ぶりに恐怖しか浮かんでこなかった。ここまできたら休日がどうこう言っている場合ではなく、己の人間性の危機である。
――今こそ、両手を掲げ力ある言葉を唱える時!
「アイムホーム!」
『 ―発音が稚拙です、やり直してください― 』
――知るかっ! ワタシは日本人だぁ!
「そんなに慌てなくても、すぐに二人の愛の巣(スイートホーム)に連れてってあげるよ」
あ゛あぁ、脳内に響いた機械音にツッコミを入れてる場合じゃない。
――思い出せ、中学校の頃の英語教師、キャシー先生の発音を!
「I’m Home!」
「ハッ!」
まず目に飛び込んできたのは、見慣れた天井の冷めきった色の蛍光灯だった。
慌てて起き上がって見回すと、そこには何一つ変わりのない狭苦しい6畳間があった。
「そりゃそうか、夢だよな。……溜まってんのかね、幼女になって襲われる夢なんて。ハハハ……はぁ」
吐きだした溜息はいつも以上に重苦しかった。
「あ゛ぁあ、月曜だ。逃げたい、会社行きたくない。時よ止まれ、そなたは美しい」
怨嗟の声を上げながら、携帯で時間を確認すると時の桁に9の文字が確認できた。
「んん?」
まだ、寝惚けているのだろうか。目を擦ってから、顔を近づけもう一度よく見てみたが、やはり9の文字は変わらなかった。
「ち、遅刻だぁあ! い、急がないと、あ゛っ痛ぁ!!!」
ベッドから跳ね起き一歩目を踏み出した所で、部屋の角に小指を強かに打ち付けた。痛みに悶え片足で跳び回りながら、スーツに袖を通して玄関から飛び出す。
「夢の中からずっと走ってばっかだ、ちくしょうっ!」
焼けたアスファルトの黒が眩しくて、涙が零れそうな月曜日の朝だった。
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