08 愛賛歌
――この世に神はいない。いやいたけど、あれは絶対に助けてくれない。
「きゃあぁああ! イディちゃん、もう最っ高ぅ!!!」
通算15着目の試着だった。今着ているのは、黒地に銀糸で花柄が刺繍してある丈の短いワンピースと白のハーフパンツだ。どちらも過剰な装飾はされておらず、所々にフリルとレースの意匠がされているが、可愛らしさを残しながらも清楚な仕立てだった。
「うんうん。素朴なのも良いけど、このぐらい可愛らしい方がイディちゃんには合うよね」
自分で言うのもなんだが、鏡に映っている姿は、それもう極上の上に極上がつく美少女で、まさに犯罪的な可憐さだった。
トップスの黒が体毛の白さと瞳の金色を引きたて、全体的に少女らしさが溢れていながら、フレンチスリーブの袖やモノクロの色合いがちょっと背伸びをしている感じの女の子な装い。耳にしがみついている蜘蛛の鮮やかさも一層際立っている。リィルさんのセンスが光る、脱帽の仕上がりだった。
「うーん、ワンピースだけで纏めたかったけど、どうしても獣人族はパンツが必要なのよねぇ。穴なしスカートだと捲れちゃうし、穴があっても大きく取りすぎるとお尻が見えちゃう、かといって小さすぎると窮屈だしね。やっぱりトップとボトムの両方で隠しちゃうのが、一番収まりが良いね。どう? イディちゃん」
「ハイ、トッテモ可愛イト思イマス」
ワタシの身体を衣服で包むより、ワタシの心を優しさで包んで欲しかった。女性の身体への忌避感はないくせに、女性服に対する危機感や羞恥心は残っているとか、とんだ罰ゲームだ。
童女がお気に入りの人形にするように満面の笑みで抱きついてくるリィルさんに対し、苦言をする気力は5着目の辺りで潰えた。結構な御手前の胸に抵抗することなく沈んでいくワタシを、頬ずりをしながら全身を使って愛でてくる。
「あぁ~、やっぱり可愛い~。もう全身撫でまわしたくなるよ」
「既に撫でまわしてます。あっ、ちょ頭は止め、あっ……」
――ああ、まただ……。
リィルさんの手が頭の上を滑る度に全身から力が抜け、思考がぼやけていく。温かな吐息が耳をくすぐり、ぞわぞわとした感覚が背中を走ると腰からくだけていくような心地になった。
先程ガロンさんに頭を撫でられた時も思ったが、獣人族がそうなのか、それともこの身体の性なのか、頭や腹などを撫でられると途轍もない幸福感に襲われるようだった。
いつの間にか、ワタシは全身を預けるように弛緩しており、捲れ上がったワンピースから覗くへそをリィルさんの手がくりくりと弄っている。
「じゃあ、イディちゃん。最後にもう1着だけ、御着換えしよっか」
「いっちゃく? さいごぉ?」
「だいじょうぶ。イディちゃんはそのまま横になって、くてーんてしてて良いよ。全部、私がやってあげるから」
霞んだ思考の中では自分が何を言っているのかも耳元で囁かれている筈のリィルさんの声も、どこか遠くの方から聞こえてくるようだった。
「そう。全部、ぜ~んぶ私がやってあげる。イディちゃんの欲しいものは何でも買ってあげるし、行きたいところは何処でも連れってあげる。美味しいご飯も、着る服も、私が用意する。イディちゃんは何も考えなくていいよ、ご飯も、お金も、住む場所も……おトイレも」
リィルさんが白いもこもことした物を持って迫ってくる、頭の奥でなにやら警鐘が鳴らされている気がするが、幸福に浸りきった今ではそれを拾うのも億劫だった。
「それじゃあ、あてちゃおっか。おむつ」
「……う、ん」
心のどこかで「逃げろ!」と叫ぶ声が聞こえるが、そんなことよりお腹ナデナデ最高である。もう全てを他人事のように、頬を紅潮させて笑みを浮かべるリィルさんに委ねようとした時、鋭い痛みが耳に走った。
「痛っ! って、アカーーーン!!!」
「きゃあっ!」
我を取り戻すと共に、文字通り全身を使って跳ね起きた。どうやったのかなど考える間もなく、跳び上がり空中で体制を整えると、四つん這いの体勢で音もなく着地する。
危なかった、なにが危ないってワタシの人間性の危機だった。あのままでは首輪をつけて、乳母車で散歩されるのが目に見えている。獣人から飼い犬になるところだった。
全身から冷や汗が流れていくのを感じながら震えていると、唐突にあの自称神様の言葉が思い出された。
『絶対安心、何をせずとも大丈夫』
――何もしなくていいって、こういうことっ!?
頭を抱えて転がりたくなったが、今リィルさんから目を離すと何をされるか分からないので、姿勢をそのままに正気に戻るよう呼びかける。
「リィルさん落ち着いて! それは貴女の意志じゃないよ!」
「大丈夫、落ち着いてる。私、決めたの。私の全てでイディちゃんの全てを愛そうって。おはようからおやすみまで。ご飯もお風呂もおトイレも、全部! 愛でるんだ」
言葉の端々から、愛と覚悟が溢れてきていた。
――ああ……、もう止まれないんだね……。
目の輝きが尋常ではなかった。美しいと思っていたあの深いブルーの瞳に、今では恐怖しか抱けない。このままでは、月曜の朝に憂鬱になることもなく、通帳の残高を心配することもなく、50パーセントオフの食材を買いに夜遅く出かけることもなくなってしまう!
――……ん? 最高じゃね?
いやいやいや、おむつは駄目だろ。何が駄目って、なんかなにもかも駄目だわ。容姿的に似合いそうなのが、余計にアウトだわ。堕落の誘惑に意志が懐柔されそうになるのをなんとか振り払い、リィルさんと相対する。
腰を低く落として構え、全身からよく分からない何かを滾らせながら、視線はまっすぐワタシを捕らえて微動だにしない。仕立て屋のお姉さんが出して良い気配ではなかった。
じりじりと、互いに距離を測るようににじり、出方を窺う。相手の息遣いまで感じられそうな程、緊張が高まりきった瞬間、
――リィンリィン
突如鳴った玄関のベルを合図にリィルさんが凄まじい速度で突っ込んできた!
それと呼応するように、ワタシの身体が跳ねる。後ろに飛び退り、壁に足が着くと同時に身体を蹴り上げ、空中で身体を捻ると天井も同じように蹴り、勢いを殺さぬまま玄関に向かって突っ込んだ。
「やあ、リィルさ、うおっ!」
「ごめんなさい!」
「レジップさん、ゴメン。ちょっと店の中で待ってて! イディちゃ~ん。待ってぇー!」
晴天のオールグの街に声が響く。
かくして、ワタシの異世界住民からの逃走は始まったのだった。
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