地図調査員の苦悩にバグを添えて
いささか まこと
仕事は嫌いな訳じゃない
間もなく、電車が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ちください――。
聞きなれた構内アナウンスの後、分刻みで管理されている優秀な電車が、いつも通り綺麗に乗車位置へと到着する。開いたドアにぞろぞろと吸い込まれていく人の波に身を預け、乗車していく。慣れたくもなかったが、集団行動を好む日本人の性なのか、辛く苦しい満員電車にも文句を言わずに乗っていく。あとは目的地まで、狭すぎる車内で痴漢に間違われないように、気を付けるだけ、なのだが。あまりの人の多さに、冷房が効いているのであろう車内は人の熱量に負け、朝からムシムシとしている。
今日の仕事、しんどいかもな。外での作業がメインな俺は、どうしても気温や天気の変化に敏感になっていた。これも真面目な日本人故の職業病なのだろうが。
乗車率を上げ、どんどんと蒸していく車内の中で汗ばんだ背広の中のワイシャツが、背にくっついたのが分かった。とても気持ち悪い。ただでさえ汗っかきな俺は、通気性の悪い背広を着るのが嫌で仕方がなかった。が、これも社則。通勤時は背広着用。
まぁ、会社に着いたらどうせ作業着に着替えるのだが、それでも嫌だった。
「次はァ~湖袋~湖袋~。終点で、っす」
アナウンスの仕方にやや癖のある車掌さんの声を聞きながら、もう少しでこの車内から解き放たれる現実に安堵し、なんとか今日も朝のラッシュを乗り切れそうだと確信した。目的地のホームへと、また、綺麗に停まった電車からそそくさと出ていく人の波に揉まれながら、駅を後にする。あとは会社へひたすらに歩くだけだ。
「おう、おはよう!」
後ろから俺の肩を叩き、元気よく声をかけてきたのは同期の広瀬だった。
「おはよ。今日はお前どこ担当?」
歩む足を止めず、素っ気なく挨拶を返した後、仕事の話を振る。
「今日俺は地方の応援なんだよ。勤務時間が終わればそのまま帰れるからいいけど。行くまでが大変なんだよなぁ」
両の手を頭の後ろにつけ、気だるそうに言う広瀬。
「仕方ないって社則なんだから。原則、朝は出社。社畜の辛いところだよな」
広瀬に合わせるように、俺も気だるそうに答える。
「で、今日はお前どこ担当なの?まだあそこ?」
「そうそう、まだ終わらないよ。今日で20日目、いい加減疲れてきたわ」
「うげ、あそこは色々と問題あるって聞くしな。前任の先輩もしんどそうだったし」
コロコロと表情を変えながら話す広瀬は、見ていて面白い。基本真顔な俺には出来ない芸当だ。顔芸だけで忘年会も盛り上げられるのではないかとも思うほどだ。
「なんであの地域担当が俺なんだかな。課長もどうかしてるよ」
「まぁまぁ、仕事が出来る椛澤君を期待してるってことじゃね?」
はははっ、と他人事で話すコイツには、俺の苦労は一生理解できないんじゃないかとも本気で思った。
広瀬と駄弁りながら会社へ到着。
会社の玄関に立つ警備員に社員証を見せ、冷房の効いた社内へ入る。ふぁ、生き返る。こんな暑い日は社内から一歩も出ないでデスクワークをしていたい!と、少し現実逃避をしながらも社内に設けられたロッカールームで作業着に着替え、タイムカードを押して、課内へと向かう。課内の入り口付近に置かれた珈琲メーカーでブラックコーヒーを淹れながら、自分の席に置いてある作業予定表に目を通す。予定ではあと15日か、終わるかな。
ううむ、また今日も亀無か。気が重い。淹れ終わった珈琲を啜りながら、今日のルートを考える。亀無は都内でも非常に有名な下町で、昔から代々住まわれている方も多い。そのため道は非常に狭いものもあったり、住宅軒数や店舗も多いため非常に確認作業が大変なのだ。ルートを決めておかないと、無駄な時間を費やしてしまう。
『地図調査員たるもの、己の目と足で確かめ、愛をもって仕事に取り組むこと』
指先で口元の髭を触る真似をしながら、この間の全体集会の時の社長の真似をする。よくいったもんだ。愛がなくちゃこの仕事は出来ないらしい。
作業予定表と睨めっこをしながら、愛をもって今日の仕事を考えていく。
キーンコーンカーンコーン。キーンコーンカーンコーン。
口に、少し冷めた珈琲カップ持っていくところで、始業の鐘がなった。
さぁて、仕事を始めますかと珈琲を一気に流し込む。苦い、しかし目が覚める。
あれ、辺りを見回すと誰もいない。やば、今日は水曜日。定例の朝会議だった!ミーティングルームへと慌てて駆け出す。
地図制作部署は全国で総勢1000有余名。ここ、本社の地図製作部署社員数は206名と、かなり多く1番のマンモス部署でもある。だからかは分からないが、他部署よりも労働面での対応も良く、ミーティングには専用の部屋まで設けられている程だ。
「すみません、遅れました」
少し息を切らせながら部屋に着くと、既にミーティングは始まっており、鋭い目つきの野田課長が俺を一瞥した。
「らしくないな、椛澤君」
鋭い目つきを気にしてなのか、大きな縁の眼鏡をかけた課長が言う。
「申し訳ありません」
課長に深く礼をし、自分に充てられたであろう席へと座る。
「では、昨日までの報告と留意点を。椛澤君」
課長に言われ、座ったばかりの席を立ち上がる。
「はい。昨日に引き続き、本日も私は亀無にて地図調査に行ってまいります。留意点とご報告ですが、ここ連日バグと邂逅しております。ですが、どれも大きなものはなく、今のところ私一人でも対応ができておりますので問題はありません」
鋭い目つきの課長を見つめながら、なんとか物怖じすることなく答える。
「分かりました。今日でもう20日目になりますが、期限には終わりそうですか?」
手元にある作業予定表を見ながら、課長が問いかける。
「はい、予定通り残り15日までにはクリアーできる予定です」
「結構。バグの邂逅率が高いようですので、何かあればすぐに声をかけてください。丁度今日から亀無の近隣で調査を始めるグループがありますので」
自分の近隣地域で調査を行うであろう3人グループを一瞥して、課長が言う。
「ありがとうございます」
課長とその3人組に会釈をし、席に座る。気が付けば、手に変な汗が滲み出ている。入社5年目だけれども、どうしてもこの人には慣れないんだよなぁ。目つきのせいだけではない、独特の凄みがある。
他の同僚の報告も無事終わり、ミーティングを終えた俺らは各々仕事へと取り掛かり始めた。
ミーティングルームを後にし、総務課の前で少し立ち止まる。
ううむ、社用車を使って現場へ移動してもいいのだが、どうしても一人だと社用車が取りづらいんだよな。限りある台数の中、経費面から考えても、やっぱり3人からのグループが乗っていくのは仕方がないことだと思う。
仕方なく今日も電車とバスを乗り継ぎ、前日までに調査した場所へと向かう。
ふぅ、ようやく仕事に取り掛かれる。朝そのまま現場に行かせてくれれば、仕事の効率も良いし、怖い野田課長にも会わなくて済むし、いいんだけどなあ。
けど、やっぱり仕事上そうも行かないか。自分に言い聞かせ、仕事を始めた。
照りつける日差しの中、顔から止め処なく溢れてくる汗を首にかけたタオルで拭きながら、大きな画板に乗せた地図と5色のボールペンを片手に、一軒ずつ家の形や家主の名前、道の幅から標識の有無まで確認していく。
「えーと、ここは相原さんのお宅で間違いないっと。下の名前は、書いてないか」
前年に作り上げた地図を見ながら、慣れた手付きでチェックをいれていく。
『地域によっては同じ苗字が多い場合もあるから、少しでもとれる情報があれば書き留めておく。細かいことだけれども、鉄則だよ』
と少しキメ顔をした顔の前で、人差し指を振り、入社当初指導をしてくれた新倉さんの真似を声を出さずにしながら、現場をチェックしてまわる。
「ぷっ、あヤバ、思い出しちゃったよ」
現場での作業中に新倉さんのズラがずれた時は、笑いを抑えるので必死だったよなぁ。ズレてるのに、めちゃめちゃキメ顔して俺に指導してたし。かなりの衝撃に夢にまで出てきた程だったからな。と、一人笑いながら仕事を進めていく。
実際こんなことを考えながら作業でもしないと、とてもではないがやっていけない。
なんせはたから見ても、かなり地味な作業ではあるし、一日中歩き回るから重労働でもある。また、バグとの邂逅により、急に死に直面する事態もある。
だからこそ、こうして少しでも気を紛らわせながら仕事をしていくことが能率にも繋がるのだ。不慮の災難を気にしてたら仕事にはならないしね。
最近のお気に入りは新倉さん。あの人のキャラの完成度はかなり高い。高すぎる。
仕事は物凄く出来るのだが、とても残念なルックス×ナルシスト×DT魔法使い。
一度、広瀬と一緒にキャバクラに連れて行ってもらったことがあったが、あの人何故か女の子と喋らないで、ソファーで座禅組んでたんだよな。脳内で思い出される新倉さんは、今日も絶好調だった。
「ビー!ビービービー!!」
会社支給の腕時計から、突如鳴り響く警告音。
「はぁ?マジかよ。今日で4日連続だぞ」
露骨に肩を落としながら呟く。どうやら、この付近にバグが発生しているらしい。
頭を切り替え、周囲に緊張の糸を張り巡らせる。よし、とりあえず人はいないな。
この仕事をするまでは、普段生活している街中に、こんなにも不思議で危険な事象、バグが潜んでいるとは知らなかった。
バグを簡単に説明するならば、幽霊とか妖怪。こうして実体があったりなかったりするような、今の科学では説明することの出来ない不思議な事象のことだ。稀に心霊写真とかで取り扱われる靄のようなものもは、バグが濃い瞬間を捉えたものだろう。
このバグを放っておくと、人の黒い思念やその場の空気の澱みを取り込んで大きくなってしまい、人がバグの中に喰われて神隠しになったり、事故が起きやすくなったり、自殺者が増えたり流行り病が起きたりと、人間にとって良い事が全くないのだ。
この不思議な事象をウチの業界では総じてバグと呼んでいる。
俺ら調査員は業界内では通称「デバッガー」とも呼ばれている所以でもある。
事実、ウチの会社は表向きは地図製作及び調査会社ではあるが、昔からバグの排除を行っていた集団だったらしい。歴史的文献にこそその功績は残されてはいないが、幽霊や妖怪のような事象が昔から日本全国で数多く見受けられていて、これが現代まで語り継がれていたりするが、一般人が今現在、現実に出会うことが滅多に無いことを考えると、かなり辻褄が合う。しかもこうしてバグを目の当たりにする機会がある俺は、もうこの非日常を認めざるを得なかった。しかも、日常生活の中に息を潜めているバグの出やすい場所を分かりやすくするため、地名の中に陰字が入っているのも、先人のデバッガーの知恵というから驚きだ。
今回の場合だと「亀」がそれに当たる。水などが土や岩などを激しく抉る『噛』に由来しているらしい。確かにそのような特徴を持ったバグがここに多いのも確かだ。
これは余談だが、よく巷で聞く霊感が強い人っていうのは、バグに出会いやすい人であったり、バグが意図せず見えてしまう人のこと指すらしい。
まぁ、どれもこれも全部、新倉さんの受け売りなんだけど。
「はぁ。大きなバグじゃありませんように」
少し溜め息まじりに声を出しながら、腕時計に付いているレーダー機能でバグの場所を特定をしていく。ゆっくり、ゆっくりと、警告音の大きくなるほうへ歩を進める。
「ビビビー!」狭い小道に辿り着くと、ひと際大きく警告音が鳴った。
どうやらバグはここにいるらしい。
背負っているリュックから、厚手の黒い皮手袋を片方だけ取り出し、右手に嵌める。バグがいるであろうところにそっと右手を伸ばし、まさぐっていく。この状況を回りの知らない人がみたら、ただの変人だよな。
――いた。
手袋をした状態で感じる、生温い感触。背筋が凍るほどの嫌悪感が、ここにある。
さて、ここからが問題。バグ処理に対する4つの危険がある。
1.この嵌めた手袋で握った瞬間に具現化するバグが、どのようなバグなのかが握るまでわからない。
2.具現してから44.4秒で処理出来なければバグは消え入り、取り逃がしてしまう。
3.深刻なバグの場合、最優先事項はバグの登録とその場から逃げること。
4.バグは霊感のあるものか、手袋を嵌めた人間にしか見えない為、他人を巻き込まないようその場で速やかに処置をとること。
正直3番が一番恐れていること。今のところ5年間で自分は1件もこの事案はないのだが、運悪く邂逅してしまった同僚のその後を見る限り、ただでは済まないのはわかっていた。先日の邂逅のように、思念バグの幽霊や河童のような水虎、小さな岩妖怪などの低俗バグであれば良いのだが、とてつもなく深刻なバグであった場合、想像するだけで血の気が引く。
デバッグの失敗、それはすなわち死に直結する。
一応気休めではあるが、バグを握った瞬間に本社に位置情報や生体反応の連絡が入るので、俺の身にもしもの事があればわかるようにはなっている。
「はぁ。明日にでも2人で仕事したいですって、野田課長に言ってみようかな」
ホント、危険手当ついてなかったらこの仕事辞めてる。そう思いながら、意を決してバグを握る。瞬間にぶわっと、俺の目の前には大きな煙が現れた。
《タイプ妖怪:煙々羅 バグ危険度:☆☆》
手袋で掴んだバグの情報が、腕時計に映し出される。
こいつが、煙々羅か。昨日までのバグと比べると、サイズは大きいが☆2つ。☆2つまでなら1人での処理でも危険度は低い。えっと、確か煙々羅自体に悪意などはなく、それを見てしまった人間に恐怖を与えるだけ…だったよな。
少し自分の勉強不足に心配になりながらも、煙々羅を視線に入れないようデバッグ作業に入る。
右手でバグを掴みながら、器用にリュックから小瓶を取り出し
「デバッグ開始――。」
その言葉が合言葉となり、左手に持っていた小瓶の蓋が開く。
大きな煙が次々にと、逃れようと蠢く煙々羅の抵抗虚しく、小瓶に吸い込まれていく。これ、初めて見たときは腰を抜かしたもんだけど人間慣れていくんだな。
怖い怖い。
「デバッグ完了――。」
小瓶に収まりきった煙々羅を確認して、言葉を放つ。するとまた自動的に小瓶の蓋が閉まった。
「ふぅ~、良かった。今日も生きてるわ~」
首にかけていたタオルで汗を拭うと、張りつめていた緊張から解放されたのか、どっと疲れが体にきた。今日も無事にバグの処理に成功、あとは処理後のケアをするだけか。背のリュックをまさぐり、シート上に貼られている蛍光色のシールを取り出す。これをバグが発生した地点に貼り付けて、完了っと。
どうやら、バグが潜みやすいのは特定の場所にもあるらしく、このシールはそれを抑える効果があるとのこと。本社の開発部署に所属している後輩が、酒の席でこの道具についてかなり熱弁をしていたのだが、酒飲んでる時くらい仕事の話はやめろ!って怒鳴ってしまったからよく聞いてはいないんだよな。
そんなことを少し思い出しながらも、ポケットから携帯を取り出し、管理課へと電話をかける。
「お疲れ様です。地図調査課の椛澤です。亀無3丁目556番に発生していたバグのデバッグ完了しました。ええ、小瓶1つに収まりました。終業後そちらに持っていきます。はい、はい、ではよろしくお願いします」
社畜なんだろうな。自分の勤めている会社に電話をしているのに、何故か電話越しでもペコペコしてしまう。失礼しますと電話を切り、現在の時刻を確認する。
引き続き今日の地図調査のノルマを熟したいのだが、時刻はもうすぐ昼休みだった。
バグのせいで無駄な時間を取られてしまったから、今日はコンビニで簡単に昼食を済ませて、昼休みを少し返上してでも現場回るしかないかな。
残業はしたくないからって、バグを見つけたのにほったらかしにしたり、ノルマを達成できずに帰って明日の自分の首を絞めたくもないしな。愛をもってやるしかない。
コンビニでおにぎり2つとお茶を買い、近くの公園に腰を下ろして休憩に入る。
そういえばさっき携帯を見た時に誰かからメールが来ていたような。先程買ってきたおにぎりを頬張りながら携帯のメールを確認する。
おお、珍しい。地元の友達から飲みのお誘いだ。
「今週末なら、あいてるよっと」
声に出しながらメールの文面を打ち、返事を送る。これは昔からの癖なのか、どうにも直らない。この癖は言われるまで気がつかなかったくらいだ。
久しぶりに地元の友達と飲むのか、なんだか少し緊張しちゃうな。
こんな仕事をしているせいか、昔の友達とはどんどん疎遠になっていた。
どうしたって酒を飲みながら仕事の愚痴を言ったりし合えるのは、会社の同期しかいなかった。仕方のないことなのだろうが、この非日常でしかない仕事の業務内容を知り合いに話をしても、頭おかしいんじゃないの?って目で見られるだけだし。ましてや熱弁などしてみた日には…友達の関係すら切られかねない。うん、割り切ろう。
昼食を終え、公園で元気よく遊ぶ子供たちを眺めていると、こんな穏やかで、平和な日常を、俺たちが守っているのかもなと、ふと思った。その感情に胸が、熱くなる。
少し温くなり始めたお茶を飲み干し、すっと立ち上がる。
「さて、午後も頑張りますか」
独り言が、子供たちの声にかき消されながらも、こうして俺は非日常の間に日常を見つめている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます