猫と柴の話

早川 千鶴

第1話 猫ちゃんが部活に行った日

私には可愛い後輩がいる。

「猫先輩っ!」

 その後輩とはこの子のことである。

 廊下の向こう側から私を発見し、手を大きく振りながらこちらへと早足で近づいてくる。

 くせっけでふわふわの、茶色よりの黒髪。高校一年生なのに中学生と見紛うような童顔。女子でもそんな声出ないぞという可愛らしい声。百六五センチある私の鼻のあたりまでの身長は、まだ伸びしろはあるなと感じさせる。そんな反則なほど整った外見。

「おはようございますっ、猫先輩!

 相変わらずヤバそうな顔してますね! 病院行ったんですか? もちろん精神病院のことですよ!」

 そしてこの毒舌である。

 私はそんな後輩に笑って挨拶する。

「おはよう、柴くん。今日も元気いいねー」

「そんなの当然に決まってるじゃないですかー、僕は先輩とは違って人生勝ち組なので!」

 ニコニコとした笑顔を崩さず、柴くんは今日もとげとげの言葉を私にくれる。私は今日も、そのとげごと柴くんを抱きしめる。

「あぁー柴くんはほんっとにかわいいねー、家に持って帰って剥製にしたい」

「僕が死んだら是非。それまではお断りですー。

 あと毎日言ってますけど人が来るかもしれない場所で抱きしめないでくださいって。あとで先輩のほうが苦労するんですからね」

 んー、といいながら私の腕を無理やり引き剥がす柴くん。容赦なく男の子の腕力を使うのでいつか私の腕が折れるかもしれない。自業自得なんだけど。

「私のこと心配してくれるのー? やっさしー」

 腕折られそうになって何言ってんだ、って感じだけど柴くんの発言から自分の得になりそうなことを探すのは私の趣味のようなものだからやめようとは思わない。

「そんなわけ無いに決まってますよー。先輩もわかってるでしょ? そう言えばやめてくれやすくなると思ったからの発言です。あとあなたにかかる苦労の百分の一でも僕に振りかかるなら事前に止めときたいですし?」

 そう言い終わったタイミングで廊下の角から知ってる顔が近づいてきた。合唱部の二年生、つまり私と柴くんと同じ部員の女の子だ。

「あ、なおちゃんだー。

 おはよー」

 彼女はこちらに気さくに挨拶をしてきた。

「かなちゃん先輩っ! おはよーございます!」

 元気に挨拶をするのは柴くん。私は口をつぐんだまま。

「なおちゃん今日もかわいいねー、うりうりしちゃうっ」

 そう言いながら柴くんの頭をなでなでする『かなちゃん先輩』。といっても彼女は私とタメなので先輩ではないのだが、私は彼女の名前をいまいち覚えてないのでほかの呼び方がわからない。そういうところが駄目なんだろうなー、けど気にするだけ損なものは覚えても損だろうしなー。

 あと、柴くんは本名を射羽 奈桜というのだけれど、見た目が柴犬みたいだから私は柴くんとよんでいる。だから時々本名を忘れてしまうんだけど。逆に私の名前は美陽凪 美碧だけど、ロシアの血が入っていることと目が青いことからロシアンブルーとの連想で柴くんが猫というあだ名をつけてくれた。

 とまあ私が今意味をなさないことを考えている間に二人のじゃれあいが終わったようで、『かなちゃん先輩』がその場を去ろうとする。

「なおちゃん今一人でしょ? 教室のとこまで一緒行かない?」

 柴くんのことを見ながら言う。結局一連の流れで彼女は私のことを認識したような素振りは全く見せなかった。こういうところプロだなーって思うね。

「んー、ちょっと用があるので遠慮しときますね。ごめんなさーい」

 少し申し訳なさそうな顔でふにゃっとした笑みを見せる。それに対し、『かなちゃん先輩』は一瞬眉をひそめたものの、すぐに笑顔になり「わかった。じゃまた部活でねー」と言い残し去っていく。

 彼女が廊下の先にある階段に行ったのを見て、柴くんは振っていた手をすぐさま下ろした。

 その方向を向いたまま、つまり私の横、ちょうど顔が見えないくらいの向きのままこちらに話しかけてくる。

「猫先輩、まだ無視されてるんですねー」

「それもこれも柴くんが可愛すぎるのが問題なんだよー」

 私も柴くんの顔を見ようとはしない。彼が今、顔をそんなに見られたくないことを察しているからだ。

「僕のせいにされても……。猫先輩が人に興味持たないのも問題でしょ。むしろそっちが根本的な原因ですよね?

 たとえばさー、さっきの人の名前言えます?」

 その質問に、私は即座に答えた。

「知らない」

 きっぱりと言い切ると、柴くんが目線を向けてきたので私も柴くんの方を見る。

「だって向こうが知らないふりしてきてるんだからこっちだって知らなくてもよくない?」

 さっき考えてたことみたいな言葉を言う。

「じゃあ例えば僕に非があるとして、僕が高校に入ってくるまでは無視されてなかったんですよね? その時はどうしてたんです?」

 その質問に、私はうーむと言いながら記憶を探る。過去を思い出すのは苦手なんだけどね。

「無視はされてなかった……はず。向こうは何故かこっちの名前知ってたけど、私合唱部の自己紹介の時参加してなかったから相手の名前は知らなかったな」

 という発言に、柴くんはやれやれと首を振る動作。魅惑の髪がそれにあわせてさらさらと揺れる。触りたい。

「そういうのが駄目なんですよ。相手の名前の把握くらいはしなきゃ、嫌われるに決まってますよ」

 女子高生ナメてんですか? と眉をひそめられる。柴くんは女子高生になったことがあるのだろうか。

 まあこのまま言われっぱなしでもいいんだけど、せっかくだから柴くんに言いたいことがある。

「とかいってるけど柴くんあの子のこと嫌いでしょ?」

「んなのそうに決まってるじゃないですか。基本的に面倒な人間は嫌いです。女子高生ウザいです。髪触らないでほしい」

 先ほど『かなちゃん先輩』としゃべっていた時の笑顔が嘘のように人を卑下する顔になる。

「けど愛想よくするんでしょ? 柴くんも面の皮厚いよねー」

「自分が有利に生活するためにはこの容姿を使うのが手っ取り早いだけですよ。先輩だって好きでしょ? この顔」

 打って変わって天使のような笑顔を見せる。この子はきっと天から使わされたのだろうと本気で思う。そうじゃなかったらそのうち神様にさらわれるだろう。

「だから抱きしめんなって言ってるでしょ。覚えてないんですか? 頭の病院いきます?」

 おや、無意識に抱きしめてしまったようだ。またもメリメリと腕を引き剥がされる。

「だってー、柴くんかわいいんだもん」

 ぽんぽん、と柴くんの頭を撫でる。「さっき髪触らないでほしいって話しただろ」という目で見上げてくる。

「自分が身長あるからってバカにしないでほしいです」

「柴くんちっちゃいもんねー、まだ私の鼻くらいまでしかないじゃん」

「そっちが高すぎるんですよ、この身長おばけ。

 それに、僕はまだまだ伸びしろがあるんですから」

「えー、柴くんにはちっちゃいままでいてほしいなー」

 そう言いつつのせたままの手で柴くんの頭をギュギュッと押す。腹パンされた。

「冗談でもやめろ」

「あっはは〜、身長気にしてる柴くんかっわい〜」

 お腹をおさええながら冗談っぽく言ってみる。さっきのは結構きたなあ、保健室に行かなくていい程度にじわじわ続くやつだ……。手加減の仕方をわかってる……。

そんな私の様子をおそらくわかっていながらも、何事もないかのように腕時計を見てスタスタとあるきだす。私も、それについていくように歩く。

「……猫先輩なんでこっち来てるんですか」

「え? 柴くんがそっち行ってるからだけど」

「はぁ……あなたは犬ですか。

 先輩こっちから来たんですから向こうに用があったんじゃないんですか?」

 柴くんが進行方向を指差して、そのあと今来た方向へ指を向ける。

「あっそうだった。なんか職員室にとりに来いって言われてたんだった。朝から迷惑だよねー」

「僕からしたらあなたが迷惑ですけどね。時間やばいですよ、早く行ったらどうなんですか」

「はーい。柴くんやっぱ優しいね? ばいばーい」

 言い逃げして去る。今日は朝から柴くんに会えたし、とても良い日だ。雑用を命じた先生にも感謝してやろう。

 気が向いたら今日は久しぶりに部活でもいこうかな。


◆     ◆      ◆


「やっぱくるんじゃなかったかなあ」

「あなたが悪い」

「あっ今小声で悪口言ったでしょ! 聞こえた!」

「先輩、静かにしましょう?」

「あーいい子ぶりやがって! かわいい!」

「黙ってください」

 口に人差し指を当て、「しーっ」と言う柴くん。かわいい。破壊力抜群。私はよろめいた。周りの女子も胸を押さえてよろめいていた。

「さっきの言葉訂正。部活来ると柴くんがずっと皮被っててかわいいからいいことある。来てよかった。たまに来るのもいいかもしれない」

「来るならちゃんと練習してください。今は休憩中だからいいとしても、なんでずっと僕の隣にいるんですか。パート違うでしょ」

「柴くんのパートも歌えるよ、私」

 ラ〜、と低い声を出す。遠目から見てる一年の女の子たちがビクッと驚いている。ちょっと低すぎたかな?

「それだとバスですよ。無駄に女の子ビビらせないでください。あとで面倒でしょう?

 ほら、休憩終わりますから自分のとこ戻ってくださいよ」

 ぐいぐい、背中を押される。背中に感じる手の位置がまた低くて可愛いんだよなあ……身長差を感じる。

「……早くしないと脇腹の肉つねりますよ」

背後からぼそっと脅迫される。

「それは勘弁してもらいたいっ」

 柴くんから遠ざかる。そのまましぶしぶとソプラノパートの人たちがいるほうに行く。さっきから感じていた視線をもっと強く感じる。面倒だなあ……。やらなきゃいけないことがあるでもないし。

「美陽凪さん? さっきまでテノールの方にいたみたいだけど、歌える?」

 ソプラノのリーダーらしき女子の先輩が一応というふうに声をかけてくる。長たるもの、こうやって問題児にも声をかけなければいけないのだろう。大変だね。

「大丈夫ですよ、それはもう」

 私の返事に、不満そうな長さん。そりゃあこれまでまったく部活に来てなかったやつが大丈夫だなんてほざいたら気も悪くするだろう。けど私はこれまでもそうだったんだからわかってほしい。いや、わかってほしいわけじゃないけどそういうもんなんだって思っていただけたらお互いに楽なのに。

「楽譜は? ありますか?」

 長さんが確認してくる。

「ああ、それならさっき柴くんの持ってるの見ました」

「なおちゃん? 彼はテノールでしょう。一緒にいたところで……」

「だってソプラノも書いてあるじゃないですか。歌えますよ」

 その曲で一番難しいとされそうな部分をソプラノパートで完璧に歌ってみた。一年はざわめき、二年は相変わらず存在していないかのよう。三年は苦々しげな顔になった。

「私のぶんの楽譜は大丈夫です」

「……ええ、そうみたいね。けど練習には参加していただきます」

「まあ今日はそのために来ましたので」

 柴くんにあいにきたんだけどね。

 その後はちゃんと練習したけど、ちゃんと掴めてないところを「こうしたほうがいい」と言ったことが余計なおせっかいだったようで、また不況を買ったっぽかった。


◆       ◆        ◆


「人間との交流は難しい」

「ごく単純ですよ、相手が喜ぶ選択をすればいいだけです」

「それができないんだってばーぁ、海華もそうだけどどうやってるのか私にはわかんないよ」

 部活終わり、せっかくだから私は柴くんと一緒に通学路を歩いていた。合唱部の女子の方々は「なおちゃんは誰にでも好かれるから問題児にも好かれてしまった。けど優しいから一緒に帰ってあげている」と認識していらっしゃるようだった。というか柴くんがそうさせたようだ。二年の人たちは私の存在をないことにしているので、どうにせよ私たちの邪魔をする人間はいなかった。

「海華さん……あの人とはできればもう会いたくないですね。お世話にはなりましたが」

 海華は私の幼なじみだ。柴くんにとっては師匠みたいな立ち位置なのかな、詳しいことは聞いてないけど仲が良くないことは想像しやすい。というか仲良くはなれないんだろうなあ。

「あ、そうだ。今日海華んとこ行こうと思ってたんだったっけ」

 数週間ぶりに会いに行こうと思って連絡してたことを思い出した。

「じゃあその方面に行く道で別れますか」

「あー待って待って。海華に連絡入れるから」

 道の端によってスマホを取り出しSNSアプリを起動する。海華に

『今日行くって行ってたのやめる、ごめんね』

 と送る。するとすぐ既読マークがついた。

『おk 。なんかあった?』

 直後に返信が帰ってきた。さすが海華、プロフェッショナルである。

『ちょっと柴くんと一緒に居れたから久々の逢瀬を楽しんでる』

 ささっと文を打つ。フリック入力は海華に無理やり鍛えられたから一般のそれより速く打てる。

『そかー、それなら仕方無いね、また明日おいで。

 うちの弟子にもよろしく言っといてよ』

「海華が柴くんによろしくだってさ」

 隣で立ち止まってくれている柴くんに声をかける。

「僕はもう会いたくないですね」

『柴くんもう会いたくないってさ』

 柴くんも海華もお互いの連絡先は知らないだろう。下手したら二年ぶりとかの師弟交流かも。内容が内容だけど。

『はは、あたしもできたら奈桜にはもう会いたくないかな』

「海華も会いたくないってさ」

「まあ、そうでしょうね。僕らは天敵同士みたいなものですから。気分が良くない」

 同族嫌悪というやつかな。それよりも深いかもしれない。器用だからこそ生きやすく、生きていない彼らのことを私は知っているけれどわからない。

『奈桜が言ってることはなんとなく予想がつくよ。あたしもそれに同意だなー。

 ま、今日は楽しんできなよ。あたしは明日みあが来るのを空華と一緒に待ってるからね』

「『りょうかいー、ありがとっ』っと……。

 海華に許可取れたし今日は柴くんとデートだねー。楽しみ!」

 スマホの電源を切り、かばんにしまって歩き始める。柴くんは私についてくるものの、周りに人気がないからか露骨に不満そうな顔をしている。

「いい加減二人で出かけることをデートっていうのやめてくれませんか? そうじゃないってわかってても胸糞悪いです」

「まあまあ、中学の時はよく一緒に帰ってたじゃん。久しぶりの一緒だしなにかしようよ」

「なにかってなんですかそれによって答えが変わります」

「もっと可愛く言って」

「今日は何をするんですかっ? 僕教えてほしいなぁ」

 すっと抱きつこうとしたらかばんを構えられた。その持ち方は自分の体を守りつつすぐ武器にもできるようなものじゃない……? 生命の危機を感じるんだけど。

 両手をちょっと上げて攻撃の意志がないことをしめしながら柴くんからちょっと離れるとかばんを降ろしてくれた。

「懲りない人ですね」

「ほぼ無意識で抱きしめようとしてたからね」

「犯罪ですよ」

「柴くんが通報とかしないってわかってるもん」

「たちの悪いストーカーみたいですね」

「はは、冗談。柴くんにストーカーなんてしたら生活できない体にされるじゃん」

「よくご存知ですね。それを普段からわきまえておいてください」

 そういうことを私にはしてこないというある程度の確信があるからこそこうやってちょっかいかけれるんだけどなー。

 住宅街を抜け、人通りの多い場所に出る。

「で、どこ行く?」

「やっぱり決めてなかったんですか」

 そう言って、柴くんはどこかへと歩きだした。

「どこ行くの?」

「カラオケです」

「へー部活で歌ったあとにまだ歌うんだ」

 呆れた目で柴くんが見てくる。この子器用だな。全く歩みを緩めないよ。

「部活で歌うのと趣味で歌うのは違うんです。わからないんですか?」

「歌うことに対して特に何か思ってるわけじゃないからね」

 その言葉にため息をひとつつき、柴くんは前を向く。

 カラオケ店に着き、柴くんがカウンターで店員さんとやり取りする。私はこういうところにくる習慣がないので柴くんの後ろにいるしかできない。

「高校生ふたり、二時間でおねがいします。機種は何でもいいです。ドリンクは両方麦茶で」

「わかりましたー、ではお部屋三番、左手のほうにございます〜」

 受付にいたお姉さんからかごを受け取り、私に「ドリンク持て」という視線を向ける。カウンターに置かれているグラスをひとつずつ手に持ち、柴くんの後について行って三番の部屋に入る。

「ねぇあのさ、朝あった時柴くんちょっと違わなかった?」

 グラスをテーブルに置きながら声をかける。

 柴くんが私のその指摘に、苦い顔をする。

「はは、柴くんってさ、目は口より物を言うよね。『覚えてたか』ってのと『わざわざ指摘しないでよ』って言ってる。そんなんじゃ海華に怒られるぞ」

 そう言って黙ると、少しの間沈黙が降りた。ルームに置かれているモニターのやけに楽しそうな声だけが部屋に満ちた。

 お互いに向き合うようにソファに座る。

 柴くんが観念したように口を開く。

「……猫先輩に会うの久しぶりだったのでどう対応してたかいまいち忘れてたんですよ。海華さんには言わないでください」

 そしてまた黙る。私は少し考え事をする。

「柴くんさー、私の代わりを見つけようとかはしないの?」

 モニターの音量を下げ、空気を話すモードに変える。柴くんもそれをわかり嫌そうな顔をする。しかしちゃんと話はしてくれるようで、返事をしてくれた。

「代わりも何も、これ以上『僕』のことを知っている人間を増やすつもりはないです」

 机の下の柴くんの足が見える。つま先を遊ばせ、視線をその足先に向けている。そしてそのまま話しはじめた。

「先輩が言いたいこともわかります。海華さんにとっての空華さんのように、僕には先輩が必要なのかもしれない。守りたいもの、または自分が存在していられる場所。そういうものがあるべきなのかもしれない。

 けど、なんでそこまでして生きなきゃいけないんですか? そうやることで生きたとしてなんになるんですか?」

床に向かって吐き捨てるように言う。その姿は、とても生きた人間のようだった。あぁ、この子は今ちゃんと生きているんだなって思った。どこか安心めいた気持ちが私の中に広がる。その気持ちをなくさないうちに、忘れないうちに私は何かを残さなければならない。

「柴くんは無理して生きるつもりはないけどだからといって死にたいわけでもないんでしょ?」

 柴くんがこくりと頷く。

「だからといって、他人に頼ってまで生きたいとも思ってません」

 相変わらず、床の方に顔を向けながら、自分のこと、話したくないはずのことを話してくれる。

 柴くんの見方はわかった。ここからは、それを変えればいい。

自分の心を探す。うつりゆくその中に、変わらないもの。私の中にある変わらないもの。そいつを初めて外に出してみることにする。

話したいようなものでもないが、だからこそ柴くんと同等になれるだろう。この狭い部屋で、違う場所に立っている柴くんと同じ場所に行くことができるかもしれない。

柴くんはもう話すことはないとばかりに口を固く結んでいる。都合がいい。息を吸い、吐く。またちょっと吸い、私は話しはじめた。

「私はさ、苦しみたくないんだよ。生きたくはないけどそれよりも死が訪れる時、苦しみたくない。今、自分から命をなくすためには痛みや苦しみが必ずと言っていいほどついてくるでしょ? だから死にたくはない。けど究極的な欲求は常にそこにあるんだよ。

 楽に死にたいから生きている、ってことかな。そういう機会が訪れるまで、または訪れず不意に死ぬまで、しかたなく生きてるんだよ。で、せっかく生きるなら楽しい方がいいじゃん? けど私こんなだから楽しいと思うこともそんなにないし、すぐに忘れちゃうし。

けど、柴くんと一緒にいると楽しいんだよ。そう言えるんだよ。だから、これは私の頼みみたいなものなんだよ。私が柴くんと一緒にいたいから、一緒にいる。柴くんのためじゃない。私のため。

 柴くんが他人に頼るんじゃない、私が柴くんに頼るってことだから、うーん、……まとめ方がわかんないや。

 まあ、そういうことにするっていうのはどうかなってさ、ね」

 立ち上がって柴くんの元へ行く。そのさらさらの髪に触れる。指の中で弄ぶ。

「……猫先輩はなんでそんなに他人のために何かできるんですか」

 髪に触っていることに対しては何も言わず、されるがままに動かない。

「他人じゃなくて柴くんだからだよ。私は柴くんの事好きだからね」

「恋愛なんてしないくせに」

「恋と好きは違うのだよ、少年。恋をしなくても好きになることはあるさ」

 髪を触っている私の手を掴み、そっと自分の頭から離す。それが先ほどの提案に対しての肯定と受取り、元の席に戻る。

「ねー柴くん、なんか歌ってよ」

 麦茶をすすり、背もたれに背中を預け完全にリラックスした体勢になる。

「なんかって何ですか」

「んー、最近流行ってるやつ。時々聞くようなやつ。そしたらそれ聞くたびに柴くんの歌声を思い出せるからね」

「左様ですか。流行りものなら歌えますから適当に選びますよ」

「任せたー」

 なにやら機械をいじり、淀みなく曲を決めていっているらしい柴くん。私が最後にカラオケに来たのはいつだったか、きっと海華と空華と来たと思うから二年ほど前だろうか。

 柴くんが歌い始める。女性アーティストの恋愛ものの曲だった。歌詞の意味はわからなかったけど、曲調の変わり方がいいなと思った。きっと柴くんもそこを気に入ったのだろう。二曲目は、男性アーティストの歌う殺人鬼の曲だった。これは歌詞の意味がわかった。曲の中で高いところと低いところがあり、柴くんの歌声が存分に楽しめるものだった。歌い終わって柴くんは「この曲は普段聞くことはないと思いますがお気に入りです」とコメントしていた。あとでもう一度リクエストしようかな。

 その後も何曲か歌ってもらい、最初に入れた曲はすべて歌い終わったようで、できた時間に柴くんが私に声をかけてきた。

「猫先輩も歌ってくださいよ」

「えー、柴くんが楽しそうに歌ってるの見てるだけでいいよ」

「何か歌えるのないんですか、海華さんに教えてもらったりとかしてないんですか?」

 ちょっと考えて記憶を探る。

「あー、覚えてるかはともかく流行りものを叩きこまれたことはある気がする……二年前くらいかな」

「二年前ですね。だったらメジャーどころはこのあたりかな……」

 ピッピッと三曲ほど選んで送信する柴くん。段々その機械の使い方が私もわかってきた気がする。次来た時には忘れているんだろうけど。

 結局私はリクエストされた曲がすぐには思い出せなくて出だしを柴くんに歌ってもらって思い出したら交代するという手法で曲を歌った。不正行為(柴くんの声が聞きたいあまり思い出せないふりをする)をするとテーブルの下で足を蹴られるのでなんだかんだしっかり歌うことになった。

 その後、柴くんに歌ってもらったり、柴くんが一度歌ったものを私が歌ったりと、時間終了の電話がかかってくるまで歌って過ごした。

「柴くん歌うの好きだねー」

「まあ多少は。自分が歌うのは嫌いとは言えませんね」

 帰り道、歩きながら歓談みたいなことをする。

「今日は柴くんの歌声がいっぱい聞けてよかったー。しかも楽しそうなやつ。

 あっ! 録音しとけばよかった……」

「本当にストーカーみたいなことしないでください。

 ……で、どうするんですか」

「一緒に帰る? それとも一緒に行く? 曜日を決めて放課後会う?」

 指を立てながらひとつずつ言う。

 柴くんが考え始める。その横顔を少し上から眺める。私は美形が好きというわけではない。そもそもあらゆるものに対して好きと思うことはない。けど、柴くんの横顔は好きだと思うのだ。私はなぜ柴くんのことが好きだと思うようになったのだろうか。柴くんに関することはよく覚えているはずなのにいまいち思い出せない。

「放課後、ですかね。それが一番だと思います。僕は部活がありますが、なんとかなると思いますし」

「あ、そうだ。休日っていう手もあるかもね、時々出かけてもいいしさー。

 ま、細かいことはまた今度決めようよ。とりあえず次いつ会うか決めてさ」

 思考を振り払う。新しい思考を迎え入れる。私は放課後は基本的にすぐ帰っているので予定はない。その旨を柴くんに伝える。

「じゃあ来週の火曜日の放課後にしましょう。教室に迎えに来てください。忘れないでくださいよ」

「もちろん。柴くんのことは忘れないよ。

 来週ね、んー遠いなあ、楽しみ!」

 ドサクサにまぎれて手を握ろうとしたら叩かれた。容赦なく。

「懲りない人ですね、全く……。

 これでもあなたには多少の信頼をおいてるんですから信用に足る行動をしてください」

 叩いた手をグーパーしながら柴くんが言う。私も叩かれた手をグーパーしながら言った。

「それは嬉しいね、今後はそのあたりをわきまえて行動するよ多分」

 多分じゃ駄目です、と言われながら歩みをすすめる。

「家まで送ってくれる?」

「そのつもりでしたけど……不満ですか」

「ううん、むしろ嬉しい。海華に感謝だねー」

「そうですね。海華さんのおかげでだいぶ楽に生きれている気がします。深みにはまっている気もしますけど」

「そういうことじゃなくてさー、私が嬉しい」

「そうですか。それ僕に言う必要あります?

 ほら、歩くの遅いです。早く行きますよ」

 すたすたと歩いて行く柴くんの後を追いかける。その後も話しながら歩いているとすぐに家についてしまった。

 ロックを解除し、玄関扉を開ける。

「じゃあねー、柴くん。来週の火曜日ね、忘れないよ」

「ぜひ忘れないでください。では、さようなら」

「うん。またね」

 ドアが閉まる。柴くんがいなくなる。

 キッチンにいる母さんにただいまを言う。階段を上がる。

 ふと虚しくなって、「はは」と乾いた笑い声をだし、自分の部屋のドアを開けた。

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猫と柴の話 早川 千鶴 @chiduruhayakawa

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