4ー章終わりー


 頬に何かが当たる感覚でエクセルは目覚めた。


「ん」


 背中の感覚は柔らかい。ベッドに寝かされていたことがわかる。ゆっくりと開けたまぶたで視界が広がっていく。するとそこにはライドでもベルナでもセブリでもない者がいた。

 彼女によって少しばかり残っていた酔いは吹き飛んだ。


「エクセル。ようやく起きたね?」

「クーエ……?」


 仲間の中でも一番忘れられない顔がそこにあった。鏡のような瞳、筋の通った主張し過ぎない鼻、みずみずしい唇。それらをすべて微笑みのために使っている。そして髪。星を流す長い髪。そこから香る相手の鼻を包むようなにおい。

 戦いを好まないが、それでも戦うことを選んだ強さを持つ選ばれし者。南の剣。


 クーエ・パトロナ。


 目覚めたらいきなり彼女が目の前にいることで、エクセルはもう固まるしかなかった。そして彼女の手が頬に触れていて、頭は彼女の布越しの太ももの上、いわゆる膝枕という状態。

 酔ってなどいられなかった。エクセルは力を振り絞ってだらしなくない顔を作る。頭を上げ、彼女の太ももから離れる。ベッドの上に座り周囲を見回す。泊まっていた宿の部屋に違いなかったが、ベルナとセブリはいない。

 窓の外はまだ暗い。夜中らしい。部屋の灯りは弱々しく揺れている。


「なんで……?」


 いるのはやはりクーエだけだった。彼は思わずマントのフードを被ろうとしたが、いつの間にか脱がされていてマントは遠くに掛けられていた。だから動かなくなり筋肉が削ぎ落とされたしるしの左腕を彼女に見られてしまっていた。

 とっさに右手で隠そうとするが、隠れるはずもなく、より相手の注目を集めるだけ。

 一番に見られたくない相手に見られてしまったエクセルは、それでもなんとか隠そうと色々と試してみるが滑稽なだけに終わる。


「左腕、痛い?」


 向かい合って座る形。戦いをしに来たわけではないから、彼女の服装は旅の頃のものではなく、シックなブラウスと長いスカート。

 彼女の両手が彼の右手をどかし、ひどくやせ細った左腕を包み込む。服装は違っても、一つ一つが三年前の、エクセルが最後に見た彼女とまったく変わりなかった。その微笑みが強がるのを難しくさせる。


「痛くはない。でも、たまに気持ち悪くなる」

「ごめんなさい。どうしてあげれば楽になるかわからなくて……。腕、こうしないといけないって思ったの?」


 ベルナが話したのだろう。内心あまり良い気分にならない。話したのは自分なのだが。


「謝りたい気持ちもあった。俺のせいであの戦士たちはどこにも行けなくなったんだから。でも……どこか剣を手放すのもいいって思ったんだ」


 思い出さなくとも浮かぶこれまでのこと。ひたすらに身を隠し、しかし隠しきれずに罵声とともに石を投げられ、ぶつけられ、身に覚えのない悪意を浴びて浴びて浴びせられ続け、これが終わることなどないと本当に気づいたとき、彼の心はとうとう壊れ砕けた。


 衝動は周りではなく、すべて己へと向かった。左腕。この左腕さえなければ「蛮者」と呼ばれることはなくなり、ただの一人と戻ることができると彼は考えるほどに疲れ果てた。


 そして殺意を向けられた戦士たちの武器が目の前に迫ったとき、彼の覚悟はほつれたのだ。


「バカだった。一人でレメリスを守る剣になれれば、いつかまた『蛮者』でなく、『勇者』と呼ばれるようになるかもしれないと思った。そんな程度の覚悟だったから気づけなかった」

「聞かせて、エクセルは何に気づいたの?」


 左腕がより強く握られる。


「剣は自分を捨てなくてはいけない。かっこいいだとか、勇者に戻りたいとかそんな英雄願望などすべて捨て、折れず錆びない剣にならなくてはいけないのだと。己自身が研ぐものにならないといけないのだと。そうでなければもう目の前の、レメリスすべてを憎んで恨んで呪うしかなくなる。俺は異人の王の言葉の存在にはならない。だからそれを覚悟させる試練だったんだ、あれは」


 彼女は変わらぬ微笑みを彼に向け続けていた。


「エクセルはもう十分かっこいいよ。そして立派なレメリスの剣(サーリアス)。だから大勢に石を投げられても、汚い言葉をかけられても、私は知ってる。エクセル・ロンロこそが本当の英雄なんだって。だから異人の王とも戦えたんだって」


 響きは甘い。エクセルの心がとける。もし今の彼女が一緒に来て欲しい、来ると言うならば、ライド、ベルナと違いそれを拒みきれる自信はない。

 もし彼女がそばにいてくれたならば。


「さあ、戻ろう?」


 もう目の前に彼女はいなかった。部屋に一人エクセルがいる。

 いや、違った。長いマントの姿が見える。酔いつぶれてベッドに寝かせたのは彼だ。セブリだ。まだ彼はエクセルが目覚めたことに気づいていない。椅子に座り眼鏡を掛け、ゆっくりと本を読んでいる。ややぼけているが見える。作物に関する本だ。彼の家は農家で、戦いが終われば継ぎたいと話していたのを覚えている。騎士警察になるというのは、彼の中でとても大きな決断だったろう。


 クーエは夢だった。


 ひどく酔いつぶれたことと仲間と出会って嬉しくなってしまったせいで、とんでもない夢を見たと彼は悪い気分になる。彼女の姿というだけで、簡単に覚悟が揺らぐ自分が嫌になる。すべてを捨てて剣になると決めたというのに。


 これ以上ここにいるわけにはいけない。エクセルは己の覚悟をより研ぎ澄ますため、今すぐに出ていくことを決めた。適当な理由を言って外に出られればどうにでもなる。三年前もそのようにして出ていった。

 全員大切な仲間。だからこそ、邪魔なのだ。研石には必要ない。

 決心したエクセルが起き上がると、やはりセブリは気づき、眼鏡を外して本を閉じた。


「具合はどうですか? びっくりしましたよ、下戸なのによく飲みましたね」


 差し出された水を飲む。酔いはまだあり、吐き気と頭痛がする。普段よりも圧倒的にひどいのはやはり度数のせいか。


「ベルナは……?」


 部屋に彼女の姿はなかった。外はやはり暗い。かなり夜更けのようだった。月の光は雲に遮られず部屋の中に入ってきている。

 彼しかいないのならば、出ていくのに好都合だ。


「ベルナさんはここの主人の方に会いに行きました。向こうからなにやらお話ししたい内容があると知らせが来ましてね。夜更けですけど、まだ起きている人もいる時間ですから」


 少し違和感がある話だった。ここの主人であるコランは今身柄を拘束されているのは間違いない。しかしこのような時間にわざわざ呼び出すようなことをする人だとはあまり思えなかった。そこまでベルナを信頼しているのかもしれないが、今でなければならない話があったのだろうか。

 あまり関係のない話ではある。


「そうか。ちょっと夜風に当たりたい」


 出ていける準備を整える。片手でもあまり手間取らないのは慣れのおかげだ。ライドからもらった剣も当然持っている。行き先はまったく決めていないが、今日はベルナのおかげで久しぶりに多く食べられたので数日さまよってももつだろう。


「ん、そうですか。そうですね、外の空気を吸った方がもっと酔いもさめるでしょうしね」


 何も疑いを抱かない。彼はそういう少年だった。騎士警察の服装をしていて大人の風貌でも根は変わらずセブリ・スニル。本の続きを優先したいのかもしれない。


「すぐ戻ってくる」


 彼はきょとんとした表情になり、首をかしげていた。


「え、ええ? お待ちしてます」


 部屋の扉を開け、出、閉める間際に彼は思い出したように言った。


「あ、褒めてもらいたいお話あるんで、戻ってきたらお願いしますね」

「ああ」


 今度こそ会うことはないだろう。だから話も聞けないし、褒めてもやれない。しかし彼の活躍がどこかで耳に入れば、それは嬉しいことだ。


 扉を閉め、一階へと下りる。この宿を離れることはベルナとの約束を破ることになる。彼女はひどく怒るだろう。そして愛想をつかしてくれる。エクセルはそれで良いのだ。彼女は竜刺姫なのだから。


 ライドはどうしているだろうかとも思う。置いていってしまったが、今必死に探し回っているのだろう。そして見つけられず愛想をつかしてくれることを願う。エクセルはそれで良いのだ。彼は故郷の戦士なのだから。


 宿から出た。月の光がまぶしく感じる。まるでエクセルを責めるようなまぶしさに、彼は右手で遮るようにするが、漏れたものがまだ目に刺さる。フードだ。フードを被り忘れていて、彼は深く目元を隠すように被った。


 とても良い一日だった。クーエとは再会できなかったが、三人に会えてとても良かった。これもまた与えられた試練。再会してもなお、その覚悟を貫くための。

 一人世界に捨てられ、消え、大きな争いがないよう願いつつ己を研ぎ続ける。


 これが剣。レメリスの剣(サーリアス)。


 選ばれし者、かつて勇者と呼ばれた蛮者エクセル・ロンロは、こうして剣としての完成度を高める、終わりのない旅の続きへと再び足を踏み出す。すべてを捨てるからこそ、すべてを守ることができる。


 本当の戦いはこれから始まるのだ。


「エクセル」


 確かに歩いていた足が、力をなくした。そしてそのまま前のめりに転んでしまう。エクセルはなぜ前を向いていた視界が、今こうしてでこぼこと並んだ石畳になっているのかすぐ理解できなかった。

 遅れて右足に痛みが走る。上手く立ち上がれないまま頭を冷静にするよう努め、どう行動するべきか考える。


「三年前も別れの一言もなかった」


 声がエクセルの背後から近づいてくる。妙な響きなのは異人の術で変えているのか。


 しかし誰かがいる気配などなかったはず。選ばれし者のエクセルですら気づかないのは、「選ばれし者の中でも特に気配を消す特性を持つ者」くらいだ。

 東の剣、ライド・オーロ。エクセルを戦士へといざなおうとした青年。

 そうとは思えなかった。そうでないと思いたい。彼のロングソードではこのような鋭い痛みを与えることはできないだろう。おそらく足そのものがなくなる。


「レメリスの剣(サーリアス)は封印したというのに」


 ならばこの気づかない内の鋭い斬撃、できるのは「選ばれし者で一番の速さを持つ者」

 北の剣、ベルナ・ルーラー。エクセルの話を真剣に聞き、怒り、優しくしてくれた少女。

 これもおそらく違う。違うと思いたい。相手は今近づいてきている。エストックで刺したあと、わざわざ距離を取る必要はどこにもない。


 そう思い込みたいだけかもしれない。


「ここで終わりにしましょう?」


 相手を考えている場合ではない。無駄な時間。応戦だ。今エクセルは襲撃を受けている。

 背負っていた剣の紐を外し、抜けずに鞘のまま手に持って立ち上がり、声の主へと体を向ける。

 そのときすでに何かが彼を狙って飛んできていた。

 偶然だった。鞘に収まった剣でそれを弾けたのは。そしてその感覚で銃弾であることがわかってしまった。エクセルは信じたくなかった。しかし目の前にいる者は確かに彼に銃口を向けている。


「驚くことじゃない。こうなると想像しなかったんですか?」


 制帽の奥にある瞳は、この瞬間をずっと待ち続けていたものだ。エクセルを撃つことをずっと。装飾が施された回転式拳銃の狙いは確かで。

 宿の二階の窓が、開いている。声はもう奇妙な響きでなく、少年のもの。

 もう一発、放たれた。おかしいものだった。普段と違い彼の目でもってしてもぎりぎり捉えられる弾速で飛んでくるそれに、酔いと仲裁のときの傷みで右腕の反応が追いつかない。

 右肩が貫かれ、持っていた剣が落ちる。それでも相手は誰であれ気持ちはすでに切り替えている。彼は諦めない。


「想像しないから」


 彼の言うとおりだった。路地から飛び出してきた姿をまったく感知できず、気づいたときには避けられず左足を剣で刺されてしまっていた。両足が潰され、エクセルはその場で膝をつき逃げるのも難しくなった。


「そう、『勇者の帰還』はすぐそばにいる」


 そのときエクセルはこれもまた夢だと思い込みたくなった。襲撃者は二人。一人でも衝撃だったが、もう一人の剣と姿はそれをさらに超える衝撃だった。彼はベルナに言った言葉を思い出す。


「俺が殺されるわけないだろ?」


 しかし死というものは手紙も送ってこずに現れる。今まさに。エクセルは諦めてはいない。レメリスの剣をまっとうするために諦めてはいないが、どうにもこの場を切り抜ける手段が思い浮かばなかった。

 銃弾を放った少年は月を背にしながら傷を負ったエクセルを見続けている。月光で顔に影がべっとりと付いている。


「無言ですけど、何か言うことは?」


 その発言に反応するよりも、エクセルは少年の隣に移動する、左足を刺した襲撃者の姿を目で追い続けていた。

 鏡のような瞳、筋の通った主張し過ぎない鼻、みずみずしい唇。それらはもうすべて微笑みのために使われていない。そして髪。星を流す長い髪は肩の辺りまでで切り揃えられ短くなっている。それでもそこから香る相手の鼻を包むようなにおいは今もエクセルの鼻に抵抗なく通る。男装もまた似合う。

 見間違えるはずがない。忘れるはずがない。だからこそ。


「言えないよ。本当に驚いてるから」


 久しく聞いていなかった声。その第一声は再会を祝う言葉ではない。


「あの旅の途中でも、罠にはまったりするとああいう顔してましたね」

「そう。なんとか自分の中で抑えようとするんだけど、ぴょんと飛び出してしまう。それはこのひどい三年間でも変わらなかったんだね」

「僕たちも三年で色々と変わった。でも変わらないところもある。それはエクセルさんでも同じだったというわけですね」

「そう。でもこれからもっと変わる。私たちで大きく変える。このときのために私は『封じた剣』を再び手にしたんだから」


 その剣の斬撃は星ですら断つ。比類なき鋭さはまた相手への優しさ。世界からの祝福として宿る、死にゆく相手へ安らぎを与える刀身。


 種類はサーベル、名は「オルコ」

 選ばれし者「南の剣」だけが振るうことを許された剣。

 当然今、エクセルの目の前でそれを握っているのは南の剣本人。

 クーエ・パトロナ。十九歳となった彼女。


 そしてその隣にいる、彼に銃口を向けるのがセブリ。セブリ・スニル。選ばれし者「西の剣」


 二人は今隣同士に並び、二人共々月光を背負っている。

 かつての仲間が今こうしてエクセルに立ちはだかっていた。


「選ばれし者の剣の封印を解いた……?」


 ようやくエクセルが口に出せたのは、セブリのことでもベルナのことでもこの状況のことでもなく、剣のことだった。これもまた彼の弱さだった。


「そう。みんなで封印した五本。でもオルコだけ解いて今ここにある」

「約束したはずだ。それはこれからのレメリスにとって争いの元になるからと……もうここで振るうべき剣じゃないって……」

「何も言わずにいなくなった君との約束を守る義理があるの?」


 ゆっくりとこつこつとブーツの靴音を鳴らし、クーエが近づいてくる。短くなってもその髪は月の光も得、きらめいている。切っ先を下げた剣が一歩ごと揺れる。

 エクセルよりも小柄だが、精神的な圧迫を受ける。

 控えるセブリは腕を組み、じいっとエクセルを見つめていた。

 気合いを入れると、まだ両足は動くことにエクセルは気づく。右足はセブリの銃弾が貫通していて、左足はオルコによる刺し傷。血が多く流れようとも、まだ諦めはしない。彼はふらふらと立ち上がる。


「エクセル。会いたかった」

「レメリスに良くないことを起こそうというなら、俺には死ねないわけがある」


 わけがあろうとも切り抜ける手段はない。祈りも意味がない。なぜならこの蛮者となってレメリスが彼を助けてくれたことはない。与えるのは試練のみ。食事の前に指で円を描くのは、本来周りの人々と同じようにレメリスへの感謝を示すものだが、今の彼はその食べ物への感謝の意しかない。

 選ばれし者の力を与えてくれたが、跪(ひざまず)くつもりはない。


「一人そう思って、思って、思い込んで……」


 穏やかな再会など、元々望んで良いはずがなかった。今ここにいないが、ライド、ベルナもこの二人の協力者であってもおかしくはない。ライドとともに行くこと、ベルナとともに行くこと。その提案を心の底から受け入れていればこうならずにすんだのかもしれないが、今のエクセルには目の前の現実を打ち破ることの方が重要だった。


「自分をレメリスの剣(サーリアス)と打ち続けて」


 話の流れがあまりわからない。彼女は目の前のエクセルと会話をしていないようだった。意図を読みかねていたとき。

 左半身がやけに軽くなった。


「『それがなければ』やめられるでしょう?」


 酒はまだ残っているが、幻を見るほどではない。ならばこの目に映るものは幻などではない。


「しるしの左腕」がなくなっていた。

 切り落とされたのだ。

 動かなかったが感覚はあった。それももうない。石畳へと落ちたしるしの左腕は、元々付いていたところからとめどなく落ちる血によって、やせ細っていても見栄え良く飾られていった。


「レメリスはその左腕のみ選ぶ。その左腕をなくしたとき、また新たな者をレメリスは選ぶ。恐れよ少年。それは『一度きり』の左腕」


 頭の中で響く声を振り払い、エクセルが取ったのは拳を振るうことだった。動きづらくとも彼はそれを選んだ。

 しかしその拳はあっさりとかわされ、簡単に転がされてしまう。受け身も取れず地面へと倒れ込み、目の前で左腕は彼女に拾われる。中に残っていた血は切断面からこぼれ、地面との間に細い糸を引き、やがて切れた。


「とても辛かったから、逃げたかったから休みたかったから左腕こういう風にしちゃったんだね?」


 オルコのせいか、切断されたところはまったく痛みがない。むしろ穏やかな気持ちにさせようとするくらいで、エクセルは何度も頭を振って気を張り続ける。


「とどめを刺さないのか……?」

「死なないでいて。エクセル、大丈夫だから」


 エクセルの頭はようやく様々な感情が入り乱れ混乱していく。


「しるしの左腕を持っていって一体何をするつもりなんだ……っ」


 左腕を近づいてきたセブリに渡す。彼はどこかに置いていたらしい箱の中にそれをしまい、鍵も掛け厳重に保管した。クーエはしゃがみ、倒れてしまって顔だけ上げているエクセルと視線を合わせた。


「私考えた。どうしてエクセル一人がこんなひどい目に会わなくちゃいけないのかって。そして自分に何ができるのかって。そして見つけた。今の世界は間違っていると。選ばれし者がレメリスのためにある力なら、自分たちのためだけにくだらない嘘を作った国々、そしてそれを簡単に信じる人々、英雄を蛮者に落としたそれらすべてを正さなきゃいけないと」


 優しさに満ちあふれた瞳。しかしエクセルは彼女にこのような決意をさせてしまったことに心をえぐられる。自分一人ですべてを抱え込もうとしたが、そんなことはできていなかった。実際にしてしまったことは、それぞれにひどい責任を押しつけてしまったことだったのだ。

 裏切りの代償は、今こうして払われている。


「もうエクセルはしるしの左腕をなくして、選ばれし者ではなくなった。だからそのことと、そしてこれからのこと、エクセルにはとても許せないことだと思う。でも、これが私の選んだこと。あのときのエクセルが選んだように、私も選んだ」


 ふっと頬に暖かい感覚。それは夢に見るほどに待っていた感覚。クーエの手のひら。


「エクセルは十分頑張ったよ。だから休んでいて。すぐにこの世界を堂々とエクセルが歩けるようにするから」


 彼女の手に触れてしまったからか。エクセルは穏やかな気持ちを振り払うのが難しくなった。そしてそれとともに意識が遠のいていく。もっと目の前にいる彼女の姿を目に焼き付けたかったが、体は言うことを聞かない。


「……セルっ!」


 耳も遠くなり、誰かが彼の名を呼んだことにも気づかない。呼んだのはクーエでも、セブリでもない。一人ではない誰かなのだが、もう今の彼は意識を保つので精一杯だった。


 すぐそばで慌ただしい出来事が起こっているらしい。もうまぶたを閉じてしまったエクセルは、それが一体何であるかどうでも良かった。何かが炸裂する音、何かがぶつかりあう音。それらが何度も何度もすぐ近くで続いている。

 エクセルはそこでついに落ちた。冷たい石畳の上で、きれいに切られた切断面から流れる血をシーツにして。


 選ばれし者。勇者エクセル・ロンロの逃避は今ここで、左腕をなくしたことによって大きな転機を迎えることになったのだった。


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