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 部屋から出ると、ベルナは扉に軽くもたれかかって大きく息を吐く。彼の耳に入るかもしれないが、しかし我慢できなかった。

 ぱんぱんと自分を鼓舞するように頬を叩く。そして歩き始め、一階の玄関へと、つまり外へと向かっていく。ベルナとエクセルが泊まっている部屋以外とても静かで人がいる気配がない。やはり今晩の宿泊者は自分たち一組だけ。


「エクセルと話がしたかったから来たのに、あたしは」


 あの頃の、三年前となんら変わらないように会話をしに来たのに、それがまったくできていない。伝えたいことの一つも伝えられていない。


 考えが甘い甘く甘すぎたのだ。


 彼は何も言わずいきなり姿を消す性格ではなかったし、それにこの三年間で蛮者と気づかれ罵詈雑言やひどい目に会わされてきたのだ。あの動かなくなった左腕もそれに関係しているだろう。こめかみにある古傷もそうだ。あんな傷、戦いでついた記憶はない。戦いでつくはずがないのだ。彼の強さを知っているからなおさらに。

 そんな経験があって三年前と何一つ変わらない明るく優しく能天気で熱いエクセルであるならば、それは得体の知れない存在だ。ベルナにとっては心地良いことだとしても、あってはならない心地良さなのだ。


 今のエクセルを知らなければならない。そうすればきっともっと会話をすることができる。ベルナは昔の彼と会話をしに来たのではない、今の彼と会話をしに来たのだ。


 彼はベルナが竜刺姫としてもてはやされていることを知っているだろう。それに対して彼がどんな感情を抱いているかは知らない。

 しかし彼の前でベルナはそうでありたくはなかった。選ばれし者北の剣でもない。ベルナ・ルーラーとしてありたかった。

 ほんの少しでも今の彼の支えになれるならば、助けになれるならば。三年前、蛮者となった彼のために戦えなかった自分の、彼に対する償い。自分勝手であろうとも、彼に捧げる償い。そのために。


「お客様、何か?」


 声がし、目の前に細い壁が現れ、思わずベルナは目を大きくしてしまう。

 女主人コランだ。薄暗いなか痩せた短髪の女主人がそこにいた。コランの背が男性くらい高いのと、ベルナが小柄なせいもあって、彼女の視線では顔が目に入らなかったのだ。壁は古いワンピースドレスのくすんだ黒布。

 痩せていても目立つ大きな胸。ある程度ふくよかな彼女の姿を想像し、それはとても美人で周りの目を引く存在だったろうと思う。心苦しくも幸せな日々を過ごした人も多いはずだとも。


「あ、いや、晩ご飯を買いに行こうかと思ってー、は、はは」


 見上げ、愛想笑いで驚いたことを隠そうとするベルナ。コランの表情は人形のように固く、怒らせてしまったかと苦く思う。


「お一人で?」

「疲れたみたいで、お使いというところで、はは」


 笑顔を作ってみるも、下手なのでにやけ顔に近いものになってしまうことは、ベルナ自身も知っていた。竜刺姫として行事に参加し続けているが、一向に上手になる気配はない。絵では誤魔化せているけれども。


「どこかお加減が?」


 心配の言葉を掛けているが、しかしあまり心配しているように聞こえなかった。この場合はこう言わなければならないと、覚えていた言葉をそのまま流しているかのような。

 それが接客なのだと言われればそうなのかもしれないが、しかし。


「ただの旅疲れなんで、大丈夫です大丈夫、なんとまなことないです」

 コランは胸の前で手を組み瞳だけ動かして背の低いベルナの顔を見るようにした。その瞳にベルナはあまり良い気分にならないものを受け取った。

「ギレルはこの辺りでも大きい村です。この時間でもまだ開いている店はありますので、きっと好みの夕食を見つけられるかと」


 するとそれで離れるかと思っていたベルナだったが、コランはあの瞳のままにより一歩踏み出し提案を一つ。大きな彼女に小さな少女は圧迫感を受ける。


「ご案内いたします。私も向かうところでしたので」

「ぇえ?」


 間抜けな声を漏らし、ベルナはぽりぽりと頭をかく。竜刺姫としての彼女しか知らないプロテレイの人々からすれば、イメージと違う仕草。しかし本来の彼女はこういう人間だ。エクセルには言えない理由で髪を伸ばしてみても。


「では行きましょう。お連れの方のお腹がより鳴ってしまう前に」


 コランが外への扉を開けて出、まだ中でぽかんとしてしまっているベルナを待つ。少女の困った瞳と妙齢の女性の固い瞳がつながってしまう。しばらくその時が流れ、結局ベルナは断ることもできずに一緒に行くことになったのだった。


 夜の影に覆われた道の石畳にベルナのブーツが乗る。

 数歩歩いてベルナは泊まっている部屋の窓へと見やる。れんがに収まった二階の窓の一つ。中の火の灯りが漏れている。


「やっぱり俺も行く! ベルナだけおいしいもの食べるつもりだな!? ちょっと待ってて!」


 エクセルの姿も影もない。二階関係なく窓から飛び出しても来ない。

 仲間としての信頼か、それとも無関心か。その答えを考えたくはないが、これまでの彼の様子から、おそらく。子供っぽいところが三年前は嫌だったが、今では寂しく感じる。


 コランの後ろをベルナはついていく。髪に宿る香りは仲間の一人、「選ばれし者南の剣クーエ」のことをふと思わせる。彼女はコランと違い、星々を流す川のようなとても長い髪だったが。


 ライドはおそらくまだ何も知らない。しかしベルナは知っている。クーエのことで、エクセルにはとても聞かせられない話を。彼と会話をしに来たが、それだけは絶対に言わないと決めている内容。彼が聞けばそれはもう、ひどく悲しいことが起こり、今よりもっと人から隠れてレメリスを捨てるだろうから。


 エクセルが偽名と疑う彼女は、後ろを歩く客を人が誰もいない路地に誘い込もうとすることはなく、確かに光の多い賑やかな所へと案内しているようだった。

 村の中心部。円形状の広場を囲うように建物に入る店と出店が並んでいて、それぞれの火の灯りと人が集まってまだまだこれからという夜の長さを感じさせていた。月はもう主役ではない。


「ここならばすでに調理されたものがあるので、持って帰ればお二人での楽しい夕食になるかと」


 そう言う彼女のように髪をひどく短くした女性はこの広場に誰もいなかった。この村の伝統でもなければ、はやりでもない。それがコランの髪型。そして明らかに彼女自身を異質なものとして扱っている雰囲気があった。

 あまり長居するつもりはなかった。ベルナに気づく人がいてもおかしくはないからだ。別に気づかれてしまっても構わないが、竜刺姫としての振る舞いをここで求められるのは疲れる。

 そういえば、と。ベルナはチップのための貨幣を出すが、コランはそれを受け取りはしなかった。白い手袋をした手は出なかった。


「私も用事がありましたので」

「そうだとしても……」

「夕食にお使いください」


 そうは言われてもベルナはなんだかもやもやした気持ちばかりを残してしまう。確かに良い気分にならないものを受け取ったりはしたが、だからといって案内をした礼はしたいのだ。


「それなら荷物持ちくらいやります」

「いえ、結構です。ルーレント様はご自分の用事をお済ませください」


 口に出されたベルナの偽名、「ルーレント」は別の意味が込められているような響きだった。彼女はベルナから離れ、どこかの店へと入っていった。

 別に追いかける必要はない。追いかけてなんとしてでも礼を受け取ってもらおうとするのはとてもみっともない。彼女が何を思っているかはわからないが、ああ言うのであれば、もうそれで良いのだとベルナは自分に言い聞かせた。


 夕食を探していると良いにおいがしてきた。出店で焼かれている肉のにおいだった。串に刺されて炭で焼かれている。買った人はそれを自分好みに塩や香辛料をまぶして食べている。肉汁がこぼれそうになって、口を押えている姿がおいしさの証明になる。

 肉はこの辺りで獲ってきたものだろう。値段がプロテレイで買うよりも圧倒的に安い。この一串五きれの焼いた肉をプロテレイで買おうと思えば、それは目の前の値段の軽く三倍はする。


 ベルナはこれを買って帰ることに決めた。ベルナ自身肉は好きであるが、それよりエクセルはもっと好きだったからだ。今は体が大きくなっているが、三年前のまだ大人に比べて体が小さい頃でも大食漢だった。周りの大人よりも、さらにそれよりも食べるライドよりも食べることができていた。

 旅の途中で異人と大食い勝負という剣を用いない比較的穏やかな戦いがあったが、それも見事エクセルは勝利し、村を一つ解放したことがある。異人は掟を持つ。勝敗の結果を重視する掟が。確かに異人は侵略者であったが、その辺りの単純明快さはベルナも好意を抱いていた。


 あのときの食べた量を思い出すと、今でもベルナは気持ち悪くなる。さすがのエクセルでもそのあとは腹を壊して大変なことになった記憶がもれなくついてくる。あのとき別の異人との戦いになっていれば未来は変わっていたかもしれない。


 彼自身空腹は我慢できると言うのだが、それでも明らかにしっかり食べているときよりも発揮できる力は落ちていた。彼を万全の状態で戦わせるというのは、旅の中でもかなり重要な事柄で、負担だった。

 今回のことのように空腹で動けなくなったことも何度かある。


「おおー肉! さすがだなベルナ! ありがと! これで明日も頑張れる!」


 今の彼がこういう風に素直に喜ぶことはないだろうが、しかしあの焦点が合っているのかわからない目も肉にびったりと合うだろう。ひどく空腹だから口の中をよだれで満たして、あの険しい表情がどのように崩れるのか楽しみになる。十七歳にもなるのに口いっぱいに頬張って、みっともなくも微笑ましい姿。

 そうなればからかってやろう。そうすればきっともっと気軽に会話できるようになる。

 串焼き肉の入った紙袋を持つベルナの帰り道の足取りは軽くなり、いつの間にかスキップになり、次に大きく跳ねて建物の屋根を軽く超えてしまう。


「おわ、しまったぞ」


 紙袋の中の肉がぐしゃぐしゃにならないよう気をつけながら、どこかの民家の屋根に柔らかく着地する。住んでいる人が慌てた様子が中から伝わってこないので、おそらくうまく着地できている。

 紙袋を開けてみると串焼き肉は無事で、しっかりと跳ねてしまう前のまま。

 ほっとして彼女はそのまま建物屋根伝いに宿へと戻ったのだった。村の静かな時の流れる方へ。


「ただいまーエクじゃなくてクレルー」

「ああ、おかえりベラリア」


 出かける前に座っていた椅子に座り続けていた彼はしっかりと彼女の帰りに反応した。

 そこでベルナは見逃さなかった。彼の鼻がぴくりと動いたことを。相変わらず険しい表情だが、あの裏には空腹でもう今か今かと待っていた気持ちがあるのだろう。

 遅くなってしまったけれど、部屋に戻ってさあ夕食だ。火の灯りの下、二人きりの夕食。

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