リザーブドライバー

@ideatakashi

第1話

 いかにも日本でドライブをしていると感じさせる立体交差の暗がりを一瞬で駆け抜けると、視界に名だたるグローバル企業の名を記した壁が飛び込んできた。伸びるべき鼠色の道はヘアピンのように左に折れ曲がっている。まるで罠だ。ギリギリまでアクセルを踏む足を緩めず、度胸試しと行きたいところだが――。

「ギアを落として。ゆっくりでいいから。ステアリングを左に、丁寧に……そう、それでいい」

 莉子は、大人しく無線を通じて聞こえてくる声に従った。クラッチパドルを引いて減速すると、教習所の教官に委縮しながら従う仮免ドライバーのような気持ちなってきた。莉子自身は、仮免どころか、日本でも数えるほど人間しか持っていないスーパーライセンスを所持しているというのに。ふうとため息を吐くと、先ほど少し痛めたらしい首がジンと響いた。

 ヘルメットに細く冷たい雨が、パチリパチリと音を立てながら、ぶつかる。ウェットタイヤの溝から飛沫をあげて、莉子の駆る極彩色のピンク色をした悪趣味なマシンは、折り目正しくスプーンカーブを曲がり、バックストレートの観客たちからも目で追えるスピードで、西ストレートに飛び込んでいく。そこから彼女は、遠くで赤い旗が振られているのを確認した。

 どこかで誰かが、派手にクラッシュでもしたのだろうか。どよめきは聞こえないし、救急車の姿も見えない。会場の弛緩した空気から、クラッシュはたいした被害ではないことが察せられた。レースの中断は大事を取ってのものなのだろう。

 それならば、もっとチャレンジすべきだったと、莉子は1.36.666とやたら6の数字ばかりが並んだ不吉な己のラップタイムを眺めては、口をへの字に折り曲げた。

「よくできたじゃないか。今のところ、タイムは十三番手。上出来だよ。Q2の準備も必要かもしれないな」

 拍手をしながら、チームディレクターのエディが莉子を出迎えた。その仕草は芝居がかった過剰なものだったが、そこには皮肉も、嘲りもまざっているようには見えなかった。それがかえって莉子のプライドに擦り傷を負わせた。彼女がリザーブドライバーとして所属しているチーム・ボレ・シティ・レーシングは、その昔は、この世界にゴロゴロいた物好きの小金持ちオーナーが道楽でチームを立ち上げた類のプライベーターチームと呼ばれるしがない三流レーシングチームである。

 走るモーターショーと化した今のフォーミュラレースは、フェラーリやルノー、メルセデスといった古参から、方針転換を図って参戦したレクサス、果ては、EV界から殴り込みのテスラといった世界を股にかける多くの高級スポーツカーメーカーたちが、ブランドの威信をかけて、より速いマシンを作る為に多くの時間を費やし、手塩にかけて幼少の頃からレーサーを育てあげている。

 そして勿論、その為には、世界中から巨額の富をかき集めなければならない。

 このご時世でプライベーターチームとしてやっていけるのは、長年の威光と、伝統と、顔の広さによって、エンジンメーカーを引っ張って来られる名門チームか、母国のご自慢のドライバーを是が非でもデビューさせる為に、国をあげてチームごと作り上げたような半官製チームかくらいなのである。稀に莉子が所属するボレ・シティのような純然たるプライベーターチームもスタッツの最後尾にその名を連ねたりすることもあるが、一年か、二年でその姿を消していくのが通例である。そのようなチームでも、たいてい一度か二度は、チャンスをものにして、入賞、上手くいけば表彰台に自身のレーサーを送りこむことが出来るものだが、文字通り、桁違いの懐事情の寂しさを抱えるボレ・シティはチーム発足後、未だに入賞してポイントを獲得したことがない。マシン一つとっても高級品という意識が強い為か、完走率は意外と高いにもかかわらず。

 それなのに、表彰台どころか、十位以内の入賞経験すらないというのは、よほどマシンが、レーサーが、のろまなのである。周回遅れで立ちふさがるその姿は、他のチームのレーサーから陰で「動くシケイン」だの「高速道路に迷い込んだ電動自転車」だの揶揄されているのは当然、莉子の耳にも入っていた。

 現在、予選順位十三番手。このチームでは上出来の成績。それどころか、急遽、借り物のマシンに乗ることになった代役のリザーブドライバーという立場の莉子にしてみれば、先ほどの走りは、完璧に近い仕事ぶりといっても過言ではなかった。

 それでも、莉子は、

「教官の指示に従いましたから。けれども、年間チャンピオンを争うレーサーたちが、複数、マシンとタイヤのテストを兼ねて、馴らし走行をしていましたからね。今度のタイムアタックではギアチェンジして来るでしょう。次のタイヤの心配はしなくてもいいと思いますよ」

 と、憎まれ口を叩かずにはいられなかった。エディは何も言わずに黙っていたが、莉子が、バラクラバと呼ばれるヘルメットの下に装着する耐火性の目だし帽を乱暴に丸めて、ピットを去ろうとすると、

「本当に今の君にはあれで上出来なんだ。変なことは考えない方がいい。君はウチのマシンをひ弱と思っているかもしれないが、僕に言わせれば、ティレル・020のシャーシみたいな君の首筋の方がガラス細工のようで心もとなく感じるよ。いくら最新技術でドライバーの肉体的負担が減ったからといってねえ……しかし、ティレルかあ、それでもウチなんかでは口に出すのもおこがましい名門チームだった。君もせめて、チームにホンダのエンジンを持ってきてくれたらなあ」

 そう言って呼び止めるなり、不相応なふるまいをする補欠に対して、粘着質の激しい厭味をぶつけ出した。今度は、莉子の方が何も言い返せずにだんまりを決め込むしかなかった。恨めしそうに首筋を撫でながら、エディを見上げるだけで精一杯だった。

 毎日、拷問のように、ダンベルを首からぶら下げながら、鍛えようとしても、一向に逞しくならない東洋人の女性の細い首。そのハンディキャップは時に莉子に反骨心という武器をもたらしてくれるし、身体を奮い立たせてもくれる。だが、世界的にはまだまだ裕福と見られている日本のそれも非常に珍しい女性ドライバーというスペックで、チームから期待されているペイドライバーとしての役割に関して、期待外れの烙印を押されていることをエディに突かれてしまったことが何よりも癪だった。せっかくの母国グランプリだというのに、テレビの地上波中継一つない。それが全てを物語っていた。

「気を落とすなよ、莉子。俺は君の走りは素晴らしかったと思うよ」

 その光景をチームのピットガレージからずっと眺めていた同僚ドライバーであり、チームの顔であるリオが莉子のもとに歩み寄って来る。彼は彼女の走りをねぎらうかのように、おどけた風にして、莉子の肩を揉むそぶりをした。彼は我の強い人間が集まるフォーミュラカーのドライバーの中では、かえって目を惹くほどの実直な人柄を携えている。その人の良さはそのまま彼のマシンコントロールにも表れた。チームのエースドライバーでありながら、未だに一ポイントもチームにもたらしていない彼が手にした栄冠と言えば、スポーツ記者たちから投票で与えられた「ベスト・セーフティ・ドライバー」という名誉なのか、不名誉なのかすらも、悩むような称号だけであった。

「雨でロクに視界も見えない中、S字コーナーをスムーズに駆け抜けていった君のポジション取りは流石だったよ。身体がコースを覚えているのだろうね。カルロスではああはいかない」

 リオの言うカルロスとは、このチームのセカンドドライバーのことである。彼はリオと同い年の二十五歳でありながら、格段に才能のあるドライバーであったが、一見陽気そうな名前とは裏腹に大変気難しく、テスト走行で、スプリングの硬さに一ポンドほどでも、違和感を覚えれば、直ちにエンジニアたちに食って掛かった。おまけにこのアメリカン人ドライバーは、ヤード・ポンド法をきめ細やかさの足りない欠陥指標であると、蛇蝎のごとく嫌っており、うっかりエンジニアの一人が、

「一ポンドほどの違和感ってところですかね」

 などと、口にしようものなら、平手で頬を打つ音がピット内に響き渡った。二台のマシンのパワーユニットを同等の仕上がりにするだけでも精一杯の懐事情の寂しいチームの中で、ステアリングのボタンの並び一つまでもが、己の満足のいくようにカスタマイズされてないと子どものように拗ねるカルロスはチームから厄介者と見られていた。

 そんな中、彼がスピード違反で逮捕されたというニュースがチームに飛び込んできた。

チームの凱旋レースでもあった熱帯夜の公道グランプリでも相変わらずに、二台とも周回遅れで完走できずじまいだった慣れた屈辱のレースの翌日に、そのコースと完全に同じ道を自身の愛車であるインフィニティQX10で爆走し、市警のお縄になったというのである。

「レースの復習をしていただけだ」

 彼は、そう言い放ち、反省するそぶりも見せなかった。

 マスコミは、その時の車内に、赤い雄牛マークのシャープな空き缶が転がっていたのを目ざとく発見し、

「カルロスは移籍したがっている」

 と、面白おかしく書きたてた。

 凱旋グランプリで二重に泥を塗られた形になったボレ・シティは、シリーズを残り一戦残した時点で、カルロスを解雇する決断を下したのだった。

 シンガポールから日本へ。カルロスを残し、チーム・ボレ・シティ・レーシングは、今シーズン最後のフライ・アウェイを行った。そして、サーキットに到着し、ガレージに佇むシートの主を失ったマシンをぼんやりと眺めていたチームの責任者でもあるエディは、突然、

「莉子、これも日本の神様の思し召しだろう。このグランプリ限定だけれども、このマシンは君の相棒になった。前の恋人の臭いが色濃く残る奴だが、大事にしてやってくれ」

 隣でマシンを眺めていた莉子に、そう言い残して、ピットウォールに消えて行った。

 莉子はチームのリザーブ、つまり控えのドライバーであり、このサーキットはセーラー服に身を包んで居た頃から、足しげく通った庭でもある。ディレクターの決断としては、至極、常識的なものだった。

 莉子は、この世界に飛び込むきっかけを与えてくれた自身の憧れのドライバーと殆ど似た境遇でのトップカテゴリーでのデビューに、心が恋する乙女のようにときめいているのを感じたが、直後に飛び込んだラジオの天気予報ですぐに現実に引き戻された。急速に発達した台風が方角を変えて、日本列島に近づいていることをラジオは伝えていた。台風が直撃するのは、どうやら九州と山陰の一部だけであるとのことだが、それでもサーキットの路面がびしょびしょに濡れることは免れられそうもなかった。

 おまけに今年のシーズンはとてもドラマチックで、最終ラウンドを残して、なんと五人のドライバーが一〇ポイント差の中にひしめき合ってチャンピオンの座を争っている。このレースが予選から大変、荒れた展開になることは誰の目にも明らかだった。ボレ・シティはさしずめ、嵐の気配を前にして、家の倒壊を心配し、ただ無事を祈る村の吾作でしかなかった。

 いくらまだまだ小娘とからかわれる二十二歳になったばかりの莉子であっても、ただでさえ、専属ドライバーの逮捕という悪いニュースに重ねてこれ以上、不穏な動きをしては、数少ないスポンサーの心証に響くことくらいはわかっていた。チームスタッフのみんなが来年のサラリーの心配をすることなくクリスマスを迎えたがっていることも。スタッフだけでない、もう一人のドライバーであるリオもムスリムでありながら、チームスタッフと同じことを願っていることは、彼のふるまいからも見て取れた。

「日本の神様なんてものは信じないけれど、今回、神は確かに俺でなく、君に微笑んだようだね。君が十三位で、俺は十九位。一台コースアウトしてタイムがないから、俺は実質最下位だ。その分、テレビで長い時間、マシンを映すことが出来たからスポンサーも喜ぶのではないかな。ただ、マシンの左サイドで微笑んでいるこの女の子にはスカーフを巻いてもらわないと、僕の故郷では、放映することは出来ないかもね」

 今シーズンのボレ・シティのマシンはシャーシをショッキングピンクで塗りたくり、ノーズのカーナンバーの下には中国の通販サイト、最初からぶつけて曲がったようなデザインのフロントウイングには、UAEとシンガポールの航空会社、リアウイングには日本のゼネコンの現地法人の企業名が記されている。通販サイトは日ごろから、ボレ・シティの戦績の悪さに文句を言ってくるし、二つの航空会社はマシンがクラッシュすることが縁起でもないと極端に嫌がる。そして、ゼネコンの現地法人は、マシンがDRSと呼ばれるシステムを用いて、空気抵抗を軽減するためにウイングの傾きを変えると、広告が見づらくなると、苦情を入れた。そんなクレーマーだらけのスポンサー陣の中で、唯一、穏やかにボレ・シティの悪戦苦闘を見守ってくれているのが、日本のとあるアニメ制作会社であったが、この会社がチームに要求したのは、企業名を打った広告などではなく、マシンの片側に大きく、アニメのキャラクターを描いて、マシンをいわゆる「痛車」ならぬ「痛フォーミュラ」にすることだった。一部のアニメファンの間では、マシンを象った模型が小さなブレイクを果たしたのだが、世界中のモータースポーツファンからは、冷笑と嘲笑を持って迎え入れられた。

 おまけに軽自動車よりも軽いこのマシンは、ダウンフォースと呼ばれる負の揚力を発生させなければ、スピードに耐えられず、たちまちビニール傘のようにふっとばされてしまうので、極端に側面を抉ったようなデザインになっている。その為、誰もどんなキャラクターなのかもしらないこの判こを押したようなアニメ絵の彼女は、水中から覗いたように屈折して見えて、「痛車」としてもあまり出来のいいものではなかった。

 馬力不足でサーキットを駆るマシンのことをチームのエンジニアやメカニックでさえもカッコいいマシンだとは、思えていないようだった。

 ピットのVIP席から、自チームのマシンを眺めるエディがある時、

「莉子、君の国では、煙草は百害あって一利もないものと揶揄されているようだけれども、少なくともモータースポーツの世界では、その限りではなかったようだ。跳ね馬を優美にオーバーテイクしていく銀色のマクラーレン、どのチームよりも勇敢だった鮮やかな水色とイエローのルノー、君のアイドルとともに果敢にアタックを続けたゴールドの差し色がチャーミングなB・A・Rホンダ、そして、私のアイドルでもあったフォーミュラカーの代名詞である紅白の伝説のあのマシン……アグレッシブなレースには、常にドライバーのモチベーションの上がる美しいマシンがあったものだよ」

 と、自嘲気味に呟いていたのを莉子は、思い出した。

エディの無線は切られていたので、その弱音はリオとカルロスの耳には届かなかったが、まだ二人とも周回遅れながら、命がけでチェッカーフラッグに向かってマシンの操縦に全神経を集中させている真っ最中だった。

 ボレ・シティのピットガレージを支配する空気は間違いなく三流レーシングチームのそれであった。そのようなことは、実績もコネクションも中途半端な者の寄せ集めであることを自覚しているチーム全員が百も承知であることだったが、かつてのフォーミュラ界には、それでも夢を追うことに誇りを持つ堂々たる三流チームがいた。しかし、エコロジー、セーフティ、オートメーションをクルマ社会に課す世間の風潮の中で、フォーミュラカーによるスピードバトルが存在意義を提示するためには、多くの名目が必要となっていた。

 三流チームであろうが、その名目の提示は競技に参加するためには必須な踏み絵であり、速さへの夢を無邪気に語ることなど、許される空気ではなかった。一つのレースが終わる度にボレ・シティのピットガレージは卑屈が降り積もっていった。それにあてられたくない莉子は、空気の澱みを察知すると、

「すみません、私、お手洗いへ行ってきます」

 と、たった今、リオに向かって言ったように、この定型句を告げて、その場から離れることが、もはやルーティンとなっていたのだった。サーキットの女性用トイレに向かう足取りの中、視界の片隅に居直るように佇んでいた極彩色の莉子の臨時のマシンは、次第に小さくなっていき、やがて目尻の端で、泡が消えるようにフェードアウトした。マシンの側面で微笑む彼女は相変わらず、変わらない笑顔を浮かべていて、莉子の心にささくれを作った。

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