夏、是枝悠人が友達を作るまで
脳内企画
第0話 プロローグ
一人の少女が街の中を走っている。わき目も降らず、ただ前だけを見て、彼女は市場を駆け抜けた。ひどく焦ったようなその様子に、馴染みの店主が驚いて振り返る。何かあったのかと声を投げたが、彼女にその声は届かなかった。少女は何度も人にぶつかった。それでも彼女は足を止めずに走り続けた。
市場を抜けて少女の進む道は住宅街へと入った。石造りの小さな階段、小道をまたぐ煉瓦のアーチ橋の上、住民達がそれぞれ好き勝手に施した増改築によって入り組んだ道を迷うことなく進む。彼女にとってはすっかり通い慣れた道だった。
住宅街の奥、少しせり上がった台地のような場所に建つ、小さなアパート。外付けの階段を駆け上がり、少女は一枚の扉の前にたどり着いた。立ち止まった途端に、汗が噴き出す。胸を突き破りそうなほど心臓は大きく脈打っていた。息を切らした彼女は肩を大きく上下させながら、額から伝う汗を鬱陶しそうに手で拭った。
本当ならばすぐにでも扉を開きたかった。
しかし少女は、無意識のうちに扉の前で立ち止まってしまっていた。何かが彼女の頭の内によぎり、それが彼女を躊躇わせた。
それでも立ち止まったのはわずかな間だけで、彼女はすぐに扉の取っ手を掴むと、それを捻り、手前へと引いた。扉が小さく音を立てて開く。その奥からは、灯りの消えた小さな部屋が姿を見せた。
薄暗い室内を見た少女の膝がわずかに震える。倒れそうになるのをこらえ、体に力を入れなおし、彼女はゆっくりと部屋の中へと入った。
すぐに少女は部屋の主を探す。
けれど部屋のどこにも人の気配はなかった。それは扉を開いた時にすでにわかっていたことだったが、少女はそれを認めず、何度も辺りを見回した。
さらに奥へと進む。部屋の中央にあったダイニングテーブルに、少女は手をついた。
テーブルの上にはマグカップが二つ。
一つは空で、もう一つは半分ほど中身が残っている。どうやら、中身はミルクのようだ。
マグカップの傍に紙が一枚落ちている。部屋の主が残した書置きだと、一目見てわかった。自分の名前が入っている。少女は震える手でそれを拾い上げると、そこに書かれている文字に目を落とした。
『 君の実験がうまくいったなら、
きっと僕は、何の断りも無く君の前から姿を消してしまうだろう。
君にとっては裏切りのように映るかもしれない。
でも誓って言うけれど、そんなつもりはないんだ。本当にさ。
この手紙を読んでくれたのなら、それはそれで嬉しいけど、
願わくば僕のことなど気にせず、僕がいないということに慣れてほしい。
僕はもうこの部屋に来ることは無いし、このめちゃくちゃな住宅街にも、さわがしい市場にも、
このルウィーエという星にも姿を現さない。
正真正銘、ここに書いてある言葉が僕の最後の言葉なんだ。
だから、これを読んだ後はまたいつも通りの暮らしに戻ってほしい。
君の、君たちの暖かさが嬉しかった。
おかげで僕は、これまで考えたことも無いようなことを考えるようになった。
先の見えぬ未来に対する恐れはもう無い。
きっとうまくやるよ。 』
いつしか少女は床の上に座り込んでいた。
全文に目を通し終えると、紙を持っていた彼女の手が下がり。しばらくの間そこから動かなかった。
部屋に入ってからどれくらいの時間が過ぎたのか、まるでわからなかった。
少女がゆっくりと立ち上がる。
部屋の主がこの場所にいないことを彼女は既に認めていた。
その上で彼女は誰かを探すでもなく、ただこの場所で起きた出来事を懐かしむように、部屋の中を見まわした。
それから彼女は一度だけ目を伏せ、部屋を後にした。
何処からか入った風が一度だけ風鈴を鳴らすと、それきり部屋は沈黙に包まれた。
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