ただの……人間だっ!

 カルミアが放った矢じりのない矢が、逃げ出したゴブリンの後頭部を貫いた。ゴブリンはうつ伏せに倒れた。即死だった。


「……一応、襲ってきた分は全滅かしら」


 構えたままのカルミアは、大弓を下ろして言った。歩き出し、放った矢の回収を始めた。

 

「ゴブリンにリザードにオオネズミの混成部隊か。一本道になっとるしな。こりゃあ、いよいよ近いんでねぇの」


 血塗れになった手斧を蜥蜴の魔物であるリザードの死体の衣服で丁寧に拭きながら、カリュプスが言った。


「迷わない、のは、いいんですけど、数が多いの、は、ちょっと……!」


 鼠の魔物であるオオネズミの眉間から退魔の剣を必死に引き抜こうとしながら、千尋が言った。剣の切っ先から少し下が殆ど埋まっていた。


『もう……、鈍器みたいに使うなって、あれほど……!』


 千尋の胸ポケットから顔だけ出したチャコが文句を言った。


「そうだけど、剣の振り方なんて知らないんだけどっ!?」


 そこまで言った所で剣が抜け、千尋は盛大に尻餅を突いた。


「痛た……」

『……はあ……』


 痛そうにお尻を擦る千尋を見上げ、チャコは盛大に溜め息をついた。

 千尋は立ち上がってお尻をはたいて砂埃を落とし、オオネズミの死体の側にあったゴブリンの死体の衣服で剣身を拭った。


「……増援はなさそうね」


 矢の回収を終え、大理石で造られた壁に背中を預けて耳を張っていたカルミアが呟いた。二人が得物を納めるのを見てから背筋を伸ばし、通路の先を見やる。


『カリュプスさんがいよいよ近いって言ってたわね。……記憶してる限りだと、ベルゼブアはこの通路を抜けた先にいるわ』


 チャコがいつになく真剣に言った。カルミアとカリュプスが警戒を改め、千尋は緊張した面持ちになった。


「今更だけどさ……これ、勝てるのかな……」


 千尋が左腰に差した剣を見て言った。


『……誰か他に適任な人がいるって?』

「ち、違うよ! カルミアさんもカリュプスさんも凄く強いし、頼りになるし。でもさ、私だけその……、弱いじゃない」


 千尋は、視線を剣からカルミアとカリュプスに移し、最後にチャコに向けた。


「……私はさ……本当に何も取り柄がなかったんだ。ただこういう世界に憧れてただけの、馬鹿でさ……。でも……、戦うよ」


 千尋はそう言って、痛々しい程の決意を込めた表情で、通路の先を睨んだ。


「この先、抜けるまで罠はないと思うわ。鉱石人ドワーフ、どう思う?」

「同意見だわな。石畳の減り具合、大体同じだしの」


 カルミアとカリュプスは頷き合い、同時に千尋を見た。


「……行きましょう!」


 千尋は素早く何度か頷いて言った。



 千尋達が通路を抜けると、そこは、ほぼ完全な円形を成している広い部屋だった。かつて壁を飾り立てていた壁画は殆ど崩れていた。天井はそれ程高くはなく、ドーム状になっていた。

 唯一つ不自然なのは、光を取り込む大窓があり、そこから光が差し込んでいるのに、部屋は足元がどうにか見える程度にしか明るくない事だった。


「どうなってるの……」


 カルミアが思わず呟いた、その時だった。


『誰だ……』


 地の底から響くような低い声が部屋に響いた。

 直後、部屋の縁を沿うように紫色の炎が走り、部屋の最奥部にいた何かの全貌が照らし出される。

 身長は天井には届かないが千尋より遥かに高く、両腕両足は一対ずつで、あり得ない程に筋骨隆々としていた。全身は攻撃的な漆黒の刺に完全に覆われている。その顔には四方に伸びる鉤爪のような物が生え、乳白色に輝く両目には、瞳がなかった。


『ベルゼブア! 神殿を返してもらいに来たわ! 早く出ていきなさい!』


 チャコが千尋の胸ポケットから飛び出し、怒鳴るように言った。


『小賢しい小蠅ピクシーめ……。人間を連れてきたか。その程度で、殺せると思うなァ!!』


 異形――ベルゼブアは咆哮した。声が轟き、部屋が震えた。


「っ……!」


 震動に巻き込まれながら、カルミアが大弓を構え、矢をつがえ引き絞り、放った。

 矢はベルゼブアの左肩に命中したが、全身を覆う刺に弾かれ、ベルゼブアの足元に落ちた。ベルゼブアが矢を踏み折った。


「嘘っ!?」

「矢じりつけとらんからだろうに!」


 カリュプスが怒鳴るように言い、鞄とは別に腰に着けてあった雑嚢から丈夫そうな帯状の布と拳大の石を取り出した。二つ折りにした布の折り目の部分に石を巻き付け、原始的な武器であるスリングショットを作る。

 カリュプスはスリングショットを持って振り回し、勢いが最大になった瞬間に石を前方に放った。

 石はベルゼブアの右目に命中し、ベルゼブアは一歩下がった。右目とその周辺が潰れていたが、即座に修復された。


「堅くて柔いか、質悪いのぉ」

「感心してる場合!?」

「う、うわあああああ!!」


 カルミアが怒鳴った瞬間、千尋が剣を引き抜き、両手で

持って引き摺るようにして走り出した。


「ちょっ、闇雲に突っ込んだら……!」


 カルミアが制止する声は届かなかった。

 千尋は突進を続け、ベルゼブアの眼前まで迫ると、


「ああぁっ!」


 右足を踏み込み、剣を振り上げる。


『ふん……』


 ベルゼブアは左手で剣身を払うと、がら空きになった千尋の鳩尾を右拳で殴った。千尋は吹っ飛ばされ、床に叩きつけられ、カルミアとカリュプスの間に剣と共に転がり、仰向けになって止まった。


「チヒロちゃん!?」「嬢ちゃん!?」


 二人が駆け寄るのに反応して、千尋は酷く咳き込んだ。立ち上がれなかった。


『その剣、退魔の剣か……』


 ベルゼブアは少しだけ焼け焦げた左手を見て、


『小蠅ぇ、殺す気ならばもう少しマトモなのを連れてくるんだなぁ!』


 次にチャコを見て、嘲笑うように言った。

 チャコは、何も言い返さなかった。代わりに千尋の胸に降り立つと、


『【大治癒】』


 控えめに治癒魔法を唱え、青い光で千尋を包み、傷を癒した。


「大丈夫!?」「無事か!?」


 カルミアとカリュプスはそう言いながらベルゼブアを睨み付けた。


『大丈夫、傷は完全に癒したわ。ただ……』

「責め手がないんでしょ?」


 千尋は顔だけをベルゼブアに向けて言った。チャコはそれを見て千尋の体から離れた。


「……二人共」

「どうしたの?」「どうした?」

「ちょっと、いいこと思い付いたんですよね」


 千尋は悪戯を思い付いた子どものような笑みを浮かべて言った。


「聞きたいんですけど、カルミアさんの矢って何までなら貫けますか?」


 千尋は二人がどうにか聞き取れる程小さな声で言った。


「……私が使える魔法を全部足せば、鉱石人が使うような金剛石ダイヤモンドでも貫けるし、砕けるわ。……それをやろうとしたら、時間が少しかかるけど」

「どのくらいですか?」


 カルミアは少し考えてから、答える。


「最速でも、八十数えるまで」


 千尋はそれを聞いて、カルミアに何か耳打ちした。カルミアは驚愕の表情を浮かべた。


「……本気なの?」

「その位無茶しないと倒せないと思います」

「……今回だけよ」


 カルミアが頷くのを見て、千尋はカリュプスを見た。


「な、何さね」

「私とチャコちゃん、三人でアイツの気を逸らしてください」

「……ああ、この森人エルフに何かやらせるのな」

「そうです」

「あいわかった」


 カリュプスが頷いて立ち上がるのを見て、千尋も剣を掴んで立ち上がった。


『……回復なら魔力が続く限り、幾らでもやるわ。……死なないでよ』

「わかってるよ。私はただの人間だから」


 千尋は右肩の上に浮かぶチャコを見て頷き、剣を下段、引き摺るような形で構えた。


「じゃあ……行動開始っ!」


 千尋が叫び、ベルゼブアに向かって走り出した。

 カルミアは背を低くして、ベルゼブアの視界から離れるように動き始めた。

 カリュプスはカルミアと反対方向に移動しながら、宝石や鉱石を入れた鞄に手を突っ込んだ。


『邪魔だぁ!』


 ベルゼブアは叫ぶと、千尋目掛けて口から蒼白い火球を放った。


「【屈しない物よよこしまなるわざを欠き消せ】!」


 カリュプスは早口で魔法を唱え、金剛石を火球に投げつけた。金剛石が火球とぶつかり、それぞれの勢いを相殺した。

 千尋はそのまま走り、ベルゼブアの股下を通り抜けた。ベルゼブアは左足を軸に回転して千尋を追い、右足を振り抜いた。


「うわっ!?」


 千尋はそれを紙一重で避け、地面を転がる。

 ベルゼブアは転がる千尋を狙い、体重を乗せて足を振り下ろした。


「【硬鋼鉄壁】!」


 すかさずチャコが割り込み、簡略化した魔法を唱えた。燻んだ鋼色の壁が千尋とベルゼブアの足の間に割り込むように出現し、足を受け止めた。


『早く出て!』


 チャコの悲鳴のような呼び掛けに千尋が頷き、壁の下から抜け出た。直後壁が砕け、叩き付けられた足を中心に床が皹割れ、轟音が響く。


「出来たぁーっ!!」


 その瞬間、カルミアが叫んだ。轟音に勝る声量だった。


「天井! 皹! 撃って!」


 千尋がカルミアよりも大きな声で叫んだ。


「当たれえぇ――――っ!!」


 カルミアは、自らが使える魔法の限界量をかけた、三本しか持っていない本黒檀でできた矢の一本を、天井の中心にある皹に向けて放った。

 本黒檀の矢は完璧な狙いをなぞって飛び、天井に命中し、砕きながら進んだ。天井の中心まで進んだところで、


 矢の大きさからは到底あり得ない程の大爆発を起こした。


 大爆発によって天井が砕け、部屋に、特にベルゼブアがいる場所に落ちて行く。


『くそっ――』

「逃がすか!」


 千尋が叫び、退魔の剣をベルゼブアの左足の甲に剣身の根本まで突き立て、床に縫い付けた。剣の切れ味に任せた力業だった。

 ベルゼブアは苦悶の声を上げようとしたが、その口を瓦礫の塊が塞ぎ、続けて降り注いだ瓦礫がベルゼブアを押し潰した。


「あ……あ……」

「何と……」


 カルミアとカリュプスは目を見開き、


「……チヒロちゃ――――――――ん!!」


 カルミアは、慟哭した。

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