クロ 1

 クロは、僕の友だちだ。


 クロと出会ったのは、去年の五月のことだった。

 小学校三年生に進級した僕は、例年通りに友達ができずにいたし、例年通りに勉強も運動も母親に言えないような成績を取ってばかりいた。そんな自分のダメ加減に、がっかりするとか寂しいとか悲しいとかそれ以前に、ああ、やっぱりな、なんていう、慣れとか諦めにそっくりな、そんなため息ばかりをついて、毎日を送っていたように思う。

 一人で学校に行って、一人で教室で過ごして、一人で家に帰る。

 毎日が、無地のノートのように無味で、薄っぺらで、均一だった。

 その繰り返しの中に、突然現れたのが、クロだった。

 とある日の帰り道。

 僕は、歩き慣れた通学路を一人で歩いていた。

 左手には幹線道路。既に五時近い時刻だったので、昼間よりも車どおりが少し増えていた。

 それから、右手には、みかん畑。

 僕の住んでいる街には、みかんとお茶の畑が妙に多い。僕の通学路にもみかん畑があり、道路とは金網で区切られてはいるものの、みかんが熟す季節になると、やんちゃな少年たちは金網の隙間から手を伸ばしてみかんをくすねたりしていた。

 周りに人影はなかった。既に放課からだいぶ時間が経っていたし、そもそも僕の家の方角から同じ小学校に通っていた子は少なかった。

 例によって、一人きりだった。

 特に何を考えるでもなく、ぼんやりと歩いていると、唐突に声をかけられた。

―なぁ、辛気臭ぇ顔して、どうしたよ。

 驚いて、思わずうつむいていた顔を上げた。

 聞き覚えのない声だった。

 声の主がどこにいるのかわからず、きょろきょろと辺りを見回す僕に、

―こっちだ、こっち。ほれ、木の上。

と、声は続けて言った。

 木の上、と言われて、僕は自分の右側に広がっていたみかん畑を見る。

 彼は、みかんの木の枝の上に腰かけて、こちらを見下ろしていた。

―そんなツラしてっと、幸せの方からお前から逃げてっちまうってもんじゃぁないの

 か?

 そう言って小首をかしげる彼に、僕は至極真っ当な疑問を返す。

「きみ、誰?」

―あぁ?名前なんて、どうでもいいじゃないか。そんなもんは些細な問題だ。無くて

 も別に困らねぇ。でも、お前に一かけらの幸せもなくなっちまったら、そしたらお

 前、困るだろう。

 彼はそう言って、結局名前を答えなかった。

 そのもっともらしいようで実はそんなことはない論は、僕を少しむっとさせた。なんだか、隠しておいた些細な失敗をわざわざ掘り返されたような気分になって、妙に不愉快だった。

「そんなの、今更だよ。」

 口の中から、絞り出すように言い返す。

―ふうん。

 彼は僕の言葉を受け流すように軽い返事をして、それから木の枝の上を伝って、金網の上に飛び乗った。

 僕の背丈より高い金網なので、自然と僕は彼を見上げる形になる。

―じゃあさぁ、俺と友達になろう。

 脈絡のない提案だった。

 何が「じゃあ」なのかさっぱりわからず、僕は彼に問うた。

―今お前、幸せじゃないんだろう。まだまだ長い人生のほんのスタート地点であるは

 ずの小学生の段階で、今更だ、なんて言っちゃうくらいに、幸せじゃないんだろ

 う。だったら、俺と友達になろう。今俺は、幸せなんだ。幸いなことにな。お前に

 分けてやれるくらい幸せだ。そんでな、きっとこの幸せを、誰かと分け合えて、一

 緒に幸せだと思えたなら、もっと幸せなんだろうな、なんて思うわけだ。ここで会

 ったのも何かの縁だ。幸せな俺と幸せじゃないお前で、友達になったら、面白そう

 だと思わないか?

 僕には、何が面白いのかは、よくわからなかった。

 ただ、彼の「友だちになろう」という提案は、妙に耳あたりがよくで、魅力的なものに感じられた。信じられるもののように、感じた。

「でも、僕、君のことも、友達ってどういうことをするのかも、よくわからないん、

 だけど…」

 少しわくわくしている胸の内を押し潰すようにして、僕はポジティブな気分の時に思いつく精一杯のネガティブな言葉を絞りだした。

 彼の返答は、やっぱりシンプルなものだった。

―俺も、よくわからん。お前のことも、友だちってやつのことも、よく知らん。

 でも、と、彼は続ける。

―きっと、誰だって最初はそんなもんだろうさ。

 そう言って、彼はにまりと笑った。

 真っ黒に焼けた彼の向こう側に、真っ赤な夕焼けが見えた。


 それから僕は、教室で通学路に人がいなくなるまで時間を潰すのをやめて、終礼の後すぐに家に帰るようになった。

 僕は初めて、時間を遅らせる以外に、早い時間帯に帰っても人影はまばらなのだということを知った。

 だいたいの日は、例のみかん畑で、クロは僕のことを待っていた。彼は気まぐれなので、特に予告もなくみかん畑にいない日もあった。そういう日は、僕はひどくがっかりした気分で自宅へと帰る。

 クロがいる日は、みかん畑で合流し、一緒に通学路を歩いた。

 十分に満たない程度の帰り道、僕たちは色んなことを話した。

 クロは流行りのテレビゲームやアニメ、カードゲームに疎かった。それは僕も同じだったので、これは正直助かった。クロと出会ったばかりの頃はクラスで大声で騒いでいる子たちの真似をしてそんな話題を振ってみたのだが、クロ曰く

―んー、俺、あんまりそういうの好きじゃねぇんだよな。まどろっこしいっつーか。

 どっちかって言うと、外を走ってる方が得意だし。

 クロは僕と同様に、特に何もせずぼんやり考え事をしながらごろごろする、というのも好きだった。

―走りっぱなしじゃいつか疲れちゃうからなあ。時々休んで、頭の方を動かしてやん

 ねえと、頭は錆びちまうし、体は壊れちまうし、いいことねえよ。

 そういうわけだから、僕たちはだいたい僕の家で漫画でも読みながらごろごろしていることが多かった。僕の両親は共働きで、父親は単身赴任中だったし、母親も六時近くにならないと帰ってこなかった。僕の家は、クロがいるときには、僕とクロのための秘密基地のようだった。妹は一人いたが、彼女は学校に遅くまで残って友だちと遊んでから帰ってくる子だった。

 たまに山の方へ行って、かくれんぼをした。なぜかくれんぼかというと、クロは足が速かったし、僕は足がとても遅いので、鬼ごっこなどの走る種目では勝負にならなかったからだ。走るのが得意なクロに申し訳ないような気がしたが、クロは、いいんだよ、そんなの、と言った。

―友達と楽しめるってのが、今の俺には一番大事なところなんだ。俺が気持ちよく走

 っても、マサキが楽しくないっていうのは、少し違うんだよな。

 クロは、間違いなく「いい友だち」だった。

 自分の主張をきちんと言いながら、僕のことも考えてくれている。理想的、と言っても過言ではないのではないだろうか。

 一方で、僕もクロにとって、「いい友だち」であれたらしかった。その証拠に、気まぐれなクロがみかん畑で待っていない日の頻度は徐々に減っていったし、たまに僕の部屋に夜遅くまでこっそりと残って、泊っていくことまでもあった。そうして、翌日の朝早く、音もたてずに起きだし、僕にじゃあな、またな、という風に小さく手を振り、窓からするりと抜け出していくのだった。朝焼けを背に忍者のようにしなやかに去っていくクロの姿は、率直に言って格好良かった。


 ちなみに、この「クロ」という呼び名は、クロ本人が言い出したものだった。

 友だち同士になって、僕の家で遊ぶようになってしばらく経った頃、僕は初めて会った時と同じ質問を、改めてクロにぶつけた。その時にはクロは、僕のランドセルに取り付けられた名札から僕の名前を知っており、僕のことをマサキ、と下の名前で呼び捨てにしていた。

「だって、君は僕を名前で呼ぶのに、いつまでも僕だけ『君』って呼ぶんじゃ、なん

 だかよそよそしいよ。「友だち」っぽくない。」

 何をもって「友だち」というのか、なんてことは当時の僕にはわからなかったし、今の僕もわかっていない。友だちの定義なんて、はっきりと言える人の方が少ないだろう。ただ、当時の僕は、教室にいる多くの男の子がそうしていたように、互いのことをあだ名だとか下の名前で呼び捨てにしたりだとか、そういうことで二人の人間が「友だちどうし」なんだと了承しあうように感じていた。

 クロは今度は最初のように話題をすり替えたりせず、少し考えるような間を取った後、

―じゃあ、クロ、って呼んでくれ。

と言った。

「クロ?あだ名か何か?」

―ああ、近所のおばちゃんたちは俺のことをそう呼ぶんだ。クロちゃん、クロちゃん

 って。

「ふうん。」

 彼の容姿からとったものだろうか。確かに彼は真っ黒だった。もしくは、名字や名前からとったものだろうか。彼の本名を聞いてみたい気もしたが、彼がわざわざ言わなかったことを訊くのは気が引けた。

 クロ。あだ名としては非常にオーソドックスで、まさに僕が求めていたような「親しい間柄」らしい呼び方だった。

「わかった。じゃあ、それでいこう。君はクロ。」

―おう、そんで、お前はマサキだ。

 口の中で何度かクロ、クロと唱えてみた。

 舌にしっくりとなじむその響きを、僕はすっかり気に入った。

「クロ、クロ。クロ、かあ。」

―なんだよ、何度も呼ぶなよ、恥ずかしい。

 クロは照れたようにそっぽを向いた。

「ごめんごめん。でもさ、なんだか―」

 すごく、友だちっぽいな、と。

 そう言うと、クロはこちらを向いて

―ぽい、も何も、友だちだろ。

 と言って、にまりと笑った。


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