ネオン

仮名垣駿河

ネオン

がたん、がたん。

規則的に電車が揺れる。

車窓の向こう側で、街のネオンが残滓を引きずりながら流れていく。

「次はーーー」

ぞっとするほど静まり返った車内。次の到着駅を告げる車掌の声だけが聞こえる。電車に乗っている人は皆俯いて、電子画面を眺めたり、文庫本を捲ったり、あるいはなにか書類のようなものを眺めてりしている。お互いが同じ空間にいながら、干渉しない、「大人の関係」で構成された空間。僕も例に漏れず、シートの一角に腰掛けて、特に何の目的もなくスマートフォンの画面を繰っていた。液晶から発される色とりどりの光が、一日酷使した目に染みて、手の甲で目を擦る。その時だった―いや、その時ではなかったのかもしれない。いやいや、いつだったかなんてのは、どうでもいいのだ。瑣末な問題だった。兎にも角にも。

思い出したのだった。

ふと。

唐突に。

子供の頃に作った、秘密基地を。

それは、実家の近所の雑木林にあった。

うまい具合に伸びている大木の枝に、雑木林のすみに捨てられていた竹を拾ってきて屋根替わりに差し渡し、それをビニール紐なんかで固定しただけの、ちゃちいつくりの割にはなかなか頑丈な基地。屋根と柱替わりの木の枝に捨てられた網戸を立てかけたり、蚊取り線香を家から持ってきたりなんかして、小学校何年生かの夏休みを、仲のいい友達とそこで過ごしたものだった。夜中に家を抜け出して星を見に行って、探しに来た親にこっぴどく叱られたのも、いい思い出だ。

たしか、あの基地を作ったのは低学年の頃だったはずだ。夏休みの間は通いつめていた覚えがあるが、いつの頃から足が遠のいたのだろうか。入り浸っていた頃のことは昨日のことのように―と言っても僕は昨日の昼食すら思い出せない記憶力の持ち主なので、あくまで慣用句的な表現として、「昨日のことのように」―思い出せるのだが、そこに行かなくなったきっかけなんかは、さっぱり思い出せない。

「次はー××ー」

車掌の声が、聞き覚えのある地名を告げる。

僕が幼い頃住んでいた、故郷の地名。

今日は、仕事も早めに上がれたから、まだ少し時間もある。最近仕事ばかりで運動不足気味だったし、ストレスが溜まっていなくもないし、少し散歩でもしてみようか、などと自分に虚言を吐きながら、電車の椅子から腰を上げ、扉の前に立つ。大した用事ではない。ちょっと見に行ってみたくなったのだ、僕が年月とともに忘れていった思い出の残滓の、その成れの果てを。きっと街の様子は変わってしまっている。秘密基地どころか、下手したらあの雑木林すらも無くなって、マンションかなにかになってしまっているかもしれない。それでも良い、と思った。それでいい、とも思った。僕にとっては、まだあるとかもうないとか、そういう問題ではなかった―かと言って、どういう問題なのかといわれると、それもわからなかったが。とにかく、僕はあの懐かしい秘密基地を、無性に見に行きたくなったのであった。

だんだんにスピードを緩めた電車は、やがて小さな振動とともに、真っ暗なホームの前に停車した。ぷしっ、と小気味よい音がしてドアが開きはじめる。その僅かな隙間をすり抜けるようにして、僕は電車から滑り出た。

階段を上がり、改札機に定期を持った右手でタッチして、駅の外へ出る。

僕の目の前に広がる景色は、不思議なほどに、不気味なほどに、あの頃の―幼い日の僕が見た景色のままだった。

ふらり、と、どこか引っ張られるような感覚を覚えながら、歩き出す。もう何年も帰ってきていなかった街が、しかしかつての僕の匂いでも感じ取ったのか、あるいは僕の足が何度も歩いた道を覚えきっていたのか、知らぬ間に僕は目的地へ導かれた。

雑木林は、あった。

大人一人がギリギリ通れるくらいの穴があいた金網も、ボロボロの(そんな事を雑木林の中でする者もいないだろうが)ボール遊びを禁止する旨の立て札も、何もかもがあの頃のままだった。

胸が高鳴るのが、わかった。

僕はゆっくりと、おそるおそる、しかし確実に、金網の穴を通り抜け―雑木林へ、帰ってきた。革靴が乾いた落ち葉を踏みつけ、さくりという音がする。その音を聞くだけで、革靴の裏から伝わる地面の感触だけで、口元が緩んで仕方ない。

さく、さく、さく。地面を踏み進める。目指す場所はわかっている。僕らの夏があった、あの秘密基地。たしか少し入り組んだルートを通るところを選んで作ったはずだ。小さい頃の記憶を手繰り、暗い雑木林の中で目を凝らし、あの頃目印にしていた枝が奇妙にねじ曲がった木を探す。

なんとか見つけるとそこまで歩き、また次の目印の木を探す。この繰り返し。そんなことを続けているうちに、僕の口元から笑い声がこぼれてきた。

「…何してるんだろ、僕」

乾いた笑いは、ゆっくりと、口元を浸していく。

あの頃の僕は、まだきらきらと夢を語っていた。たしか「漫画家になりたい」なんて言ってた気がする。こんなふうに冴えないサラリーマンになって安月給で働く「社会の歯車」になることを、何より嫌がっていたはずだ。それがこの体たらく。幼い頃の思い出に縋るような、愚かしいセンチメンタル。あの頃の僕が今の僕を見たら、一体なんて言うんだろう。僕は、何を言えるんだろう。

僕には、もうわからなかった。

ただ、今間違いなく言えることは、僕は今、わくわくしている。年甲斐もなく、子供のように。

自分の作った秘密基地を自分で探すという行為に、わくわくしているのだ。

調子が出てきた。次々に記憶が戻ってくる。あの木を右に曲がって、あの大きな石を通り過ぎて…

そして、

そして、

そして。

その先に、秘密基地は、あった。

まだ、あった。

胸が高鳴る。さっきより、強く。

立てかけられた網戸を避けて基地の中を見ようと、手を伸ばす。

僕の右手が、震えている。

震えながら、ゆっくり、網戸に伸びる。

もう少しで触れる、その瞬間―

ピロリロリン。

軽快な電子音が、僕をどこかへ引き戻した。

ポケットからスマホを取り出して画面を見ると、彼女からメッセージが入っていた。

「遅いけど、今何してるの?飲んでくるなら要連絡。もうお夕飯用意してあるからね。」

メッセージを読んで、スマホをポケットにしまって、もう一度秘密基地を見る。

先程まで輝いて見えたそれは、もう僕の胸を高鳴らせてはくれなかった。

ただの、薄汚れた、がらくただった。

回れ右をして、歩き出す。

さく、さく、という木の葉を踏む無機質な音。

行きにはあれだけ時間を使った山道も、帰りはやけに呆気なく感じた。

いつのまにか、雑木林の出口の金網の穴にたどり着く。

最後にもう一度、雑木林を振り返って、そして僕は金網をくぐった。

コンクリートと革靴の底が、こつん、と音を立てた。

何となく、もうこの場所には来ないんだろうな、なんてことを思った。

駅へ向かって歩き出す。

この時間になってもまだ人通りのある繁華街を、こつこつこつと音を立てて歩く。

ふと空を見上げてみる。

ネオンに浸った夜の街に、もう星灯りは届かない。

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